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『蝉のように生きたいと願っていた』(読み切り短編)

あらすじ
 高校三年生の柴原しばはら夢愛ゆめは、最後の夏休みを過ごすため、十年振りに田舎の祖父母の家に来ていた。祖母・聡子さとこが再婚をしてから疎遠になっていたが、会えば十年の月日は短く、聡子は夢愛をもてなす。夢愛は、ゆっくりと進む夏の時間を謳歌していた。
 しかし、日常は束の間だった。警察からの電話で、夢愛は両親の訃報を告げられる。夢愛の母親・藍子あいこは殺害時に顔面に深い暴力を受けており、夢愛にも危害が及ぶおそれがあった。そのため、部屋で塞ぎ込む夢愛を警護する刑事が二人訪れる。
 一方、葬儀に参列者した親族の中に宇野辺うのべという男がいた。暇を持て余した大学生だった宇野辺が、捜査に同行し始めて事態は急転する。
(287文字)


   プロローグ

 女の耳には、スマートフォンが鳴るのが届かなかった。
 力なく半開きになっている形のいい女の口から唾液が垂れる。垂れた先で、血と脳漿とが混ざって丸い血溜まりを作り、女の長い黒髪を濡らしていた。
 まっすぐだった鼻は右にぐにゃりと曲がっている。飛び出た右の目玉は視神経でかろうじて繋がっていたが、フローリングに落ちていて、焦点が合わない。左の瞼は腫れ上がり、目玉が落ちるのを防いでいる。陥没した後頭部の髪が血で濡れて、てらてらと艶めいていた。
 女の身体は、腕と脚をてんでばらばらの方向に投げ出して力なく横たわっている。捻じ曲がった腕に力が入ることはなかった。
 綺麗に結ばれたボウタイのシャツと仕立てのいいスーツは、胸のあたりまで赤黒く染まり、元の色がわからない。曲がった腕の先で、指先は不自然なほどきれいに上品なベージュのネイルで彩られていた。太もものラインに沿って曲線を描く茶色のスカートの先から、パンティストッキングを履いた脚が伸びている。
 鳴り続けていたスマートフォンの音が止まる。
 女が死体になってから既に一時間が経とうとしていた。
 女が下に横たわっているダイニングテーブルの椅子に、人が座っていた。二十二畳のリビング・ダイニングは暗く、窓から差し込む月光がテーブルの上のスマートフォンとグラスを青白く光らせていた。
 椅子に座っていた人はグラスの水を飲み干し、立ち上がって重い遮光カーテンを引いた。月光さえ遮られた部屋は、深海よりも暗くなる。
 部屋の中でテーブルと逆側に置かれたソファで、光るものがあった。
 暗い室内で人は、明るく光るものに引き寄せられる。
 ソファに身を投げ出した男の腕で、スマートウォッチが光っていた。
 クッションに顔を埋めるように突っ伏した男は、紺に細いストライプが入ったスーツを着て、助けを求めるように右腕を伸ばしている。襟が詰まった首元から細いネクタイが伸び、背中にだらりと垂れていた。
 人はスマートウォッチに表示された通知を覗き込んだが、それが日経電子版からのニュース速報であることを確認すると、興味を失った。
 女の方に向き直り顔をしかめた後、暗い部屋の中でつまづくことなく、リビングからキッチンに移動した。電気は点けずに、シンクの下にある引き出しからニトリル手袋四枚と、棚から大きいゴミ袋を袋ごと取り出す。手袋をジーンズのポケットに突っ込むとゴミ袋を手にリビングに戻り、ダイニングテーブルに置いた。
 ゴミ袋を広げて手袋を二重にはめ、女の頭部を持ち上げる。
 持ち上げたことで血生臭い匂いが立ち上った。鼻の頭に皺を寄せる。
 濡れた髪からぽたぽたと血が落ちた。
 飛び出た目玉が床から離れ、顔の横にだらんと垂れ下がる。濡れた髪や目玉はそのままの状態で、ゴミ袋に頭部を突っ込んだ。
 大きいゴミ袋ではあったが人体を入れるには当然小さすぎて、女の身体は胸までしか入らない。
 袋に入れた女の身体を引きずって横にずらし、血溜まりがない綺麗な床に置いた。
 胸から下をゴミ袋から突き出した身体は、マネキンのようだった。
 キッチンの横にあるドアを開けて廊下に出て、左手の洗面所に入る。迷うことなく電気のスイッチを手探りで点ける。久しぶりの明るさに目を瞬かせた後、洗面台の下から雑巾の束を取り出した。
 洗面所の電気を点けたまま暗いリビングに戻ると、女の身体の横の血だまりに雑巾を置いた。雑巾はみるみるうちに赤黒く染まり、血溜まりが小さくなる。上から重ねるように二枚め、三枚めの雑巾を置き床の血を全て吸い取ると、汚れた雑巾をまとめて女の上半身が入ったゴミ袋に投げ入れた。最後に綺麗な雑巾でもう一度床を拭き、それもゴミ袋に入れる。
 上半身がゴミ袋に入った女の脇に両手を入れて上半身を持ち上げた。あまり傾けすぎると血が下に垂れるので、慎重な足取りでゆっくりと引きずる。女のひしゃげた後頭部がゴミ袋のビニール一枚を隔てて、太ももにぐにゃりとした感覚を伝えた。電気の点いた洗面所を通り、風呂場のドアを開ける。女の身体を風呂場のタイルに投げ出すと、鈍い音が響いた。
 血が外に飛ばないようドアを閉め、上半身にかけていたゴミ袋を取る。
 引きずられた女の顔は唇が捲れ歯が剥き出しになっていた。左目は相変わらず腫れていて、右目の視神経は今にもちぎれそうだった。
 冷房の効いたリビングとは違い、風呂場はサウナだ。
 温度と比例して匂いがきつくなり、耐えられずマスクをして作業を始めることにした。
 まず、バスタブに女の身体を入れ、給湯温度を六十℃に設定して湯を張る。湯が溜まるまでの間に、洗面台の下に入っていた掃除用の重曹を取り出した。
 腰、曲げさせた脚、鼻、口と女の身体が順に湯に浸かっていくのを、無表情で眺めていた。
 女の髪が湯の中で浮き、ゆらゆらと漂う。
 『お風呂が沸きました』と誰もが聞き慣れた声が告げる。
 バスタブに入れられた女には溺れるということがなかったので、頭が湯に浸かっても問題はなかった。むしろ、女の全身が湯に浸かるようになんとか身体を押し込み、身体がしっかりと湯に浸かったのを確認して、重曹をバスタブに入れ始める。一袋三キログラムの家庭用の重曹を全てバスタブに開け、湯に手が入らないように慎重に風呂桶で掻き混ぜた。
 流れ出した女の血が湯の対流を可視化する。
 重曹が溶けるのと同時に血も溶けていき、湯は薄い黄土色に変色していった。
 揺らめいていた女の髪が、女のひしゃげた顔を隠す。
 沈みきった口からごぼりと大きく空気の塊が出てきて、頭が更に沈んだ。
 女の顔や身体が、湯に溶けだしていくのを満足気に見ていた。 
 しばらくして、女の右の視神経がぷつりと切れた。それを合図に、風呂場から出る。
 リビングに戻り、スマートフォンのタイマーを六時間にセットする。
 六時間後には女の肉は骨から剝がれ落ちるくらいに柔らかくなっているはずだ。それを骨だけにして、肉は細かく切り刻み、生ゴミ処理機で乾燥させる。女の処理の後には男も同様に処理をする予定で、休憩をはさみながら丸二日かかる想定だ。
 二日経てばちょうど燃えるゴミの日なので、ぱりぱりに乾燥した肉を小分けにして古新聞で包み、燃えるゴミとして出す。
 骨はリビングが面している小さな庭に埋める。
 女の身体が柔らかくなるのを待ちながら、幾度も繰り返した脳内演習をもう一度繰り返した。
 暗い部屋の中でヒヒッと短い引き笑いが響いた。

   1

 青々とした田んぼの上をさあっと風が通り抜けて、土臭い空気が少女の顔を撫でた。
 自我を持たず風に揺られている稲を見て、少女はすんと小さく鼻を鳴らす。バスを降りてからゆうに二十分は歩いていて、やっぱりおばあちゃんに迎えに来てもらったほうがよかったかなと少し後悔をしていた。
 蝉が一夏に全てを賭けて絶叫を続ける。
 日傘越しにもわかる日差しの強さは、じりじりという音を立てていて、四方から聞こえる蝉の合唱にベース音を加える。
 少女の目線の先にはあぜ道が一本伸びて、山の中に吸い込まれてどこまでも続いている。道には少女以外誰もいない。
 同じバス停で降りて逆方向に歩いて行った老人が、少女が最後に見かけた人間だった。
 蝉時雨以外に音はなく、困ったように入道雲を見上げた少女の首筋から、ぱたたと道に溢れ落ちた汗の音さえも聞こえそうだった。
 少女は左手に日傘、右手にキャリーケースを引いて迷いなくあぜ道を歩く。白い大ぶりのフリルで縁取られた日傘は少女の白い上品なワンピースとよくコーディネートされていたが、足元に広がる青田とはマッチしない。
 頭の先からつま先まで、全身が都会から来たことを主張していた。
「あれぇ、夢愛ゆめちゃんかい」
 突然大きな嗄れた声が響き、呼ばれた少女の肩がびくりと跳ねる。
 少女が左右を見渡すと、ここや、と数メートル先で手を振る人物がいる。近くに寄ってみると、日焼けで皺くちゃになった顔で笑みを向ける老人がいた。
「あ、あの……?」
「ああ、前会うたときは夢愛ちゃんまだ小さかったけんわからんかねえ。聡子さとこさんの隣に住んどる平田よ」
「はあ」
 名前を聞いてもぴんと来ないらしく、少女はぼんやりとした返事を返す。
「聡子さん、昨日からえらい張り切っとったでな。夢愛ちゃんが久しぶりに来る言うてな。ほうかほうか、えらいべっぴんさんになってなあ。そりゃ心待ちにするわけじゃあ。いかんいかん、聡子さん待ってらっしゃるからお引き止めしちゃあ悪いねぇ」
 老人は見た目の割には話を引き上げるのが早かった。
 夢愛はあからさまにほっとした顔を浮かべる。どう挨拶すればいいのかわからず、微妙な顔のまま軽く会釈をして、その場を離れる。老人は夢愛のおどおどした様子を気に留めることなく背後でしばらく手を振っていたが、夢愛が振り返ることはなかった。
 しばらくしてあぜ道はよく整備された県道と交わり、夢愛の顔に安堵の表情が浮かぶ。日傘を肩で持ってスマートフォンのGPSを見ながら、交差点を右に曲がる。片側一車線ずつに加えて歩道まで整備されていて、キャリーケースを引きやすくなったことで少し歩調が速くなった。
 すぐに、カーブした道の先に『岩立峠いわたてとうげ隧道ずいどう』と看板がかかった短いトンネルが現れた。
 入口から出口が見えているごく短いトンネルに照明はない。両端から差し込む夏の日差しで、中央の光の当たらない部分が一層暗く感じられた。
 トンネルの中に入ると、先ほどまで夢愛の耳を襲っていた蝉時雨が遠くなる。代わりに、ストラップシューズのぺたぺたした足音とキャリーケースの小さな車輪の音が反響した。
 陽の当たらないトンネルの中を風が通り抜けて、夢愛を追い越して行った。
 トンネルを抜けるとすぐに左手に逸れていく道があり、GPSはそちらを進路として指している。この道を下った先に、夢愛の祖父母や平田が住む集落があった。
 舗装された私道が突如砂利道に変わり、夢愛の祖父母宅の敷地となる。砂利道の正面に引き戸の玄関があり、右側の車が四台は入りそうなスペースに薄ピンクの軽自動車が一台停まっていた。左側は裏の庭と畑に繋がる道になっており、よく手入れされたプランターが並んでいる。
 夢愛には祖父母の家が十年前と何も変わっていないように見えた。
 玄関扉の脇にある小さな旧式のチャイムを控え目に押す。
 家の中でチャイムが鳴った音は聞こえず、しばらく待ってみても誰かが扉を開けに来る様子がない。
「あのー……おばあちゃあん……」
 呟くように呼び掛けるが返事はない。
 夢愛の声は蝉の声に負けていて、おそらく家の中には届いていなかった。
 首をかしげ、小さく溜息をついてから、キャリーケースを玄関脇に寄せる。手に日傘とスマートフォンだけを持った身軽な状態で、左手から裏の畑に回ることにしたのだった。
 砂利の中に一際大きな石が点々と置かれているのを辿り、ぐるりと家を回る。二階まで届きそうな脚立が立てかけてあったり、何も植わっていない大きな植木鉢が横倒しになっていたりする。田舎の風景だった。
 古い日本家屋の裏に回ると縁側があり、そこからよく手入れされた庭と畑が見えるはずだった。
「おばあちゃん?」
夢愛が声をかけながら縁側を覗き込むと、小さな老女が更に小さく腰を丸めて、縁側に腰掛けていた。
「あんれぇ、夢愛ちゃん! 来とったんか!」
「さっきチャイム鳴らしたけど誰も出なかったから」
「ああ、あれ壊れとるんよ。ごめんねえ」
「ううん」
「それより、疲れたろう、お座りなさいな」
促されるままに、夢愛は聡子さとこの隣に腰掛けて、日傘を閉じた。縁側は東向きに開けていて、今の時間は直射日光は射さない。
「ちょっと待っとってね」
聡子はゆっくりと片足ずつ慎重に動かして立ち上がり、そう言い残してどこかへ行く。再び一人になった結愛は、手持ち無沙汰そうにスマートフォンを開き、圏外であることに気づいた。
「まじかぁ……」
 聡子が戻ってくるのを待ちきれず、夢愛は靴を脱いで縁側から仏間に上がる。
 板張りの廊下に出て、聡子が行ったはずの左を見た。窓がなく、電気もついていない廊下はしんと薄暗く、冷房が点いていないはずなのにひんやりと涼しい。行く手に電気のスイッチがあるような気がしたのか、夢愛は壁を手で探ったが明るくはならなかった。
 電気がつかないまま摺り足で廊下を数歩進むと、引き戸があるのがわかる。ふと、幼い頃の記憶を思い出し、ああ、ここは台所だなと夢愛は思った。聡子はきっちりとした人で、絶対に扉を開け放したままにするような人間ではなかった。
「おばあちゃん、Wi-Fiない?」
 引き戸を開けながら夢愛が言う。
 廊下の薄暗さから一転、シンクの上に小窓があり、台所は明るかった。夢愛には十年前となにも変わっていないように思えた。幼い夢愛は薄暗い廊下から息せき切って台所に駆け込み、ばあちゃん、床下入れて! と頼み込んでいた。従兄弟たちと一緒にかくれんぼをしたとき、よく匿ってもらっていた場所だった。
「なにって?」
「ワイファイ」
「なんよそれ、おばあちゃん新しいもんさっぱりわからんけん、わからんわ。それよりほれ、西瓜スイカ切ったけん、持っていき」
「Wi-Fiは、えっとなんていうのかな、電話会社の人とかがなんか機械置いて行ったりしたことなかった?」
「ああ、ようわからんけど、電話機の横にあるかもしれん」
 西瓜の盛られた鉢を押し付けられ、手に持ったまま夢愛は続ける。
「電話ってどこだっけ」
「玄関のとこよ」
 聡子はそう言いながら円盆にコップを二つと、麦茶の入った冷水筒、塩の小瓶を乗せ、和室に戻ることを夢愛に促す。
「ていうかおばあちゃんスマホ持ってないの?」
「持っとるよ」
「え、圏外じゃない?」
「ああ、なんやったかいね、ドコモいうんやないと繋がらんて言いよったわ」
「はあ……私ソフトバンク。ママなんにも言ってくれなかった、最悪。どこから圏外だったんだろ」
 夢愛は、持たされていた鉢を仏間の座卓に置くとそそくさと廊下に戻り、左ではなく正面、玄関の方に向かう。
 東京では考えられないくらい広い玄関の片隅に、聡子が言ったとおり電話台が幅を利かせている。夢愛はそのモデムの側面に貼られたSSIDとパスワードを写真に収め、ついでにそのままスマートフォンを接続する。接続中の表示がグルグルと回っている間、ふと玄関扉に目を移し、キャリーケースを外に置いたままであることに気づいた。
 通知で揺れるスマートフォンを電話台に置いて、揃えて置かれていたサンダルを突っかける。玄関の鍵がかかっていないことに気づき、これだったら普通に玄関から入れたなと思いながら、キャリーケースを中に入れた。
 玄関扉は引き戸で、開閉に伴って大きな音を立てていたのを聡子が聞きつけ、仏間から出てくる。
「ほうよね、どうも身軽やと思っとったわ。雑巾持ってくるけんちょっと待っとって」
 聡子はキャリーケースを見て納得した表情で告げ、またどこかへ行ってしまう。夢愛はスマートフォンの通知を確認しながら、言われたとおりに待っていた。
 キャリーケースを水拭きして、二階に上がる聡子について行く。
「おる間はこの部屋好きに使つこうてね、お母さんが使うてた部屋よ」
 何度か来たことがあるのでそれは知っていると思ったが、口には出さない。
 部屋は綺麗に掃除されて、普段は出ていないだろう寝具一式置かれている。見るからにふんわりとしていて、事前にきちんと干されていたことがわかった。
 勉強机やタンス、昔のアイドルのポスター──布団以外のものは全て日に焼けていて、この部屋の主がここを出たときのまま、時が止まっていた。
「うん、ありがと」
「お母さんも来れたらよかったのにねえ」
そっけなく答えた夢愛に対して、聡子は部屋を眺めながらしみじみと呟く。掃除している間中考えていたことだった。
「でも高校最後の夏休み、おばあちゃんちでのびのび過ごせるの、私は嬉しいよ!」
「ほうよね、おばあちゃんも夢愛ちゃん来てくれただけでも嬉しいわあ」
 一階に戻り、座卓に手をついてゆっくりと膝を折る聡子の向かいに夢愛が座わった。
「受験はどうするん?」
「推薦でもう終わっちゃった」
「あらま、最近はそううんがあるんやねえ」
「そう、だから夏休みはなんにもしなくていいの。高三って夏休みの宿題もないし」
 縁側から入った風が風鈴を揺らし、仏壇から線香の匂いが漂う。
 聡子が夢愛の方に麦茶の入ったコップと西瓜を押しやった。ありがとう、と夢愛は麦茶を少しだけ口に含み、コップを置く。冷水筒の側面には水滴がびっしょりついていて、聡子は自身の分も注ぐと、濡れた手をエプロンで拭いた。
 蝉時雨は騒がしいミンミンゼミとアブラゼミの混声合唱から、落ち着いたヒグラシの同声合唱に変わりつつあり、会話が途切れたことで妙な静けさが生じていた。
 夢愛がそれを気にする様子はなく、やっと電波の通じたスマートフォンでSNSを確認している。聡子は、コップの水滴を指で掬い取っては、エプロンで指を拭いてを繰り返していた。たまに孫娘の方に視線をやり、眉尻を下げる。夢愛と聡子の視線が交わることはなかった。
 玄関の扉が開く音がして、靴を脱ぐには十分な時間がさがさと物音がしていた。聡子が立ち上がろうとしたときに、首の短いずんぐりとした男が仏間に続く襖を開けた。男は夏だというのに黒い長袖のシャツと、カーキのズボンを着ている。
「ただいま」
「おかえりなさい」
「お、そうじゃ、今日から来るんやったっけな」
 夢愛を見て、見た目とは裏腹に高い声で言う。夢愛はスマートフォンから顔を上げ、ぺこりと頭を下げた。
「あ……お邪魔してます」
「夢愛ちゃんにはちゃんとご紹介しとらんかったねえ、お母さんにはうた途端に怒られて連絡してくれんなったけん。十年前に再婚したただしさん。正さん、こちら夢愛ちゃん」
「ママから少しだけ話は聞いた。夏休みの間、お世話になります」
「若いのに感心じゃあ。俺、風呂入って来ようわい」
 正はきちんと座り直して挨拶をした夢愛に不器用な笑みを作り、仏間には足を踏み入れなかった。後ろの言葉は聡子に投げかけられていて、タオル置いとるよ、と聡子が返す。
 襖が閉められ、再び沈黙が寝転がる。
 夢愛はスマートフォンに視線を戻さず、畳の縁をじっと見つめていた。
 涼やかな風鈴の音を合図に、聡子は口を潤して言った。
「夕飯なん食べたい?」
「特に、ないよ。なんでもいい。好き嫌いないし」
 わかった、と静かに言って台所に行こうとする聡子に夢愛が慌ててついていく。
「手伝うよ」
「ほうか、ありがとう」
 交えた言葉数は少なかったが、夕食の支度を通じて聡子と夢愛は十年の溝をなんとか埋めようとしていた。
 正も加わった夜の団欒だんらんには食べきれない量の豪勢な手料理が並んだ。黒々と輪郭だけになった山に、三人の控えめな笑い声が響いていた。
 集落に子どもがいるのは久しぶりで、夢愛が来る時に出会った平田を発信源として翌日には集落中が知ることとなっていた。畑仕事をしている聡子の元には入れ替わり立ち替わり誰かが来て、近くで手伝っていた夢愛を見てはべっぴんさんやなあと言っていった。
 昨日とはがらりと雰囲気が変わったジーンズ姿で、はにかんだ笑みで返す夢愛を困ったように見ていた聡子だったが、誰もいなくなると謝罪の言葉を述べた。
「みんな最近孫が来ることも減ってて、嬉しいんやと思う、堪忍な」
「ううん、私は別に」
 昼食は畑で採れたきゅうりとトマトが使われた冷麺だった。聡子が近くの道の駅で買ってきた麺はもちもちとしていて喉越しも抜群、黒酢の効いたタレとよく絡み、汗を掻いた身体にはご馳走だった。
 午後は好きに過ごしてね、と夢愛に告げて聡子はどこかに出かけて行ったので、午後中、夢愛はうたた寝をしたり、アイスクリームを食べたり、たまにSNSをチェックしたりして過ごした。

   2

 午前中は聡子の手伝い、午後は気ままに過ごすだけで、すぐに二週間が経とうとしていた。
 集落の人口は夢愛のクラスの人数よりも少なく、この間にほとんどの人と顔見知りになっていた。道を歩いているとお菓子や果物を渡され、夢愛はまるで集落中の孫になったような気分で過ごしていた。
海に行き、ディズニー・シーに行き、お祭りに行き、高校生活最後の夏休みを謳歌している様子をSNSに投稿している同級生に対し、夢愛は特に羨むような素振りを見せず、淡々と自分の映らない写真にいいねを押して反応を友人に送っていた。一度聡子が心配して、夏休みの間どこかにでかけようかと提案したが、ごろごろしているほうが好きだからと断っていた。
 とうに曜日感覚が消え失せたある日、夢愛がいつもどおりに畳の跡を頬に付けて午後を過ごしていたら、玄関で電話が鳴った。ビクッと肩上げて玄関の方の襖を見るが、知らない電話に出ることが躊躇ためらわれて聞こえないふりをする。
 古臭いトゥルルルという着信音が、一定のリズムで鳴り続けていた。
 畳にスマートフォンを置いて体を起こし、座卓に置いていたコップに口をつける。
 口内から食道を冷たい麦茶が駆け下りるのが涼しかった。
 諦めて、緩慢な動きで立ち上がり玄関に行こうとするが、そこで着信音は止んだ。
 立ち上がった意味がなくなってしまったものの、また腰を下ろすのもそれはそれで億劫で、夢愛は少しの間にそこにぼうっと立ち尽くしていた。
 急に大きな音がして、それからまた急に静かになったものだから、ちりんと鳴った風鈴の音がいやに耳につく。
 先ほどまでいた畳に再度寝転がることを止め、スマートフォンを拾い上げ、枕にしていた座布団を掴んで縁側に出る。縁側で寝転がろうと腰を下ろしたところで、もう一度電話が鳴り始めた。
 露骨に口角が下がり、眉間に皺が寄る。無視を決め込もうとするが、電話は先ほどよりしつこく鳴り響いている。結局根負けして夢愛はもう一度立ち上がった。
「はい、豊川とよかわです」
 受話器を持ち上げて、夢愛には全く馴染みのない再婚した祖母の今の名字を名乗る。電話の黄緑色のディスプレイには〇三から始まる番号が表示されていた。
「あ、もしもし。よかった出た。え、豊川? 宇野辺うのべさんではなく?」
 受話器の向こうで男性の声がやや困惑したような声で話し始める。
 宇野辺は夢愛の母の旧姓、つまり聡子の再婚前の名字だった。どう説明したものかわからず夢愛が詰まっていると、男性は間違いましたと電話を切りそうになったので慌てて引き留める。
「えっと、宇野辺で合ってます。前は宇野辺で、今は豊川なんですけど」
「はあ……そしたら宇野辺聡子さんということでよろしいでしょうか?」
「あ、宇野辺聡子はおばあちゃんです」
「ということは、あなたは柴原しばはら夢愛ゆめさん?」
「そうですけど」
 祖母の聡子を旧姓で呼ぶだけではなく、自身のフルネームを知られていて、夢愛の額に脂汗が滲む。ただでさえ小さい夢愛の声が消え入るように細くなった。
「警視庁桜田門警察署生活安全課の南津みなみつと申します」
 自分のことを警察の人間だと名乗った男は、落ち着いて聞いてくださいねと前置きをしてから、夢愛の両親が一週間ほど前から行方不明であることを告げた。両親の勤める会社から一週間前に警察に連絡があったという。大人二人であることから警察もそれほど事を大きくしていなかったが、一週間経っても全く消息がわからないので親族関係を調べて、聡子の電話番号であるここに電話してきていた。
 震える声で聡子は今不在であることを告げた夢愛に、南津はもう少し事件の詳細を伝えるので聡子が帰宅したら折り返し電話をしてほしい、と電話番号を言い残した。電話のディスプレイに表示されている電話番号と同じものだった。電話台に置かれていたかすれかけのボールペンでメモを取って受話器を置く。
 いつのまにか玄関のすりガラスから入り込む光が弱くなっていて、ちょっと前まで五月蠅いほどに鳴いていた蝉時雨が止んでいる。
 仏間も薄暗くなっていて電気を点けた。
 開け放していた窓から湿った生暖かい風が入ってきて、夢愛の頬を撫でる。縁側から見える畑の向こうでは、山の上を黒い雲が厚く覆っていた。
 一粒、二粒と雨粒が見えた後、雨足が急激に早まり数分後には滝のような雨が地面を濡らしていた。家中開け放していた窓を閉めて回った夢愛は仏間から外を眺める。
 たまに山の向こうで空が光った。
 屋根を叩く雨粒の音が蝉時雨に代わって鳴り響く中、玄関の扉ががらがら音を立てた。夢愛は飛び上がり、慌てて玄関に飛び出す。
「ただいま、ひどい雨だねえ」
「おばあちゃん!」
「どうしたん、そんな顔して」
 聡子は買い物帰りの荷物を玄関先に置いて、靴を脱ぐために横に腰かける。ポリエステル製のエコバッグがバランスを崩して横倒しになり、ネットに入ったジャガイモが転がり出た。
 聡子が靴を脱いで立ち上がるのを待ってから、夢愛はもう一度呼びかける。
「おばあちゃん、あのね」
「はいはい、聞いとるよ」
 夢愛は両手に買い物の荷物を持って、台所に向かう聡子を追いかけながら、先ほどの警察からの電話について事細かに伝える。
 初めはゆったりと構えていた聡子も、話を聞くうちに事態の深刻さに気付き、顔から血の気がみるみるうちに消えた。
 聞き終わらないうちに玄関に戻り、夢愛が記したメモを見ながらダイヤルを押した。
 電話はワンコールも待たずも繋がった。聡子が名前を告げると、南津に取り次がれた。南津は夢愛に告げたことと同じことを聡子に告げてから、こう言った。
「お孫さんにはショックを与えないために言いませんでしたが、芝原優輝ゆうきさんと藍子あいこさん、つまり、娘さんご夫妻は、亡くなっている状態で本日午前、ご自宅で発見されました。……お悔み申し上げます」
 聡子の喉がひゅっと鳴って、そのまま声が出ない。返事を待たずに南津は続ける。
「状況から事件性があることが強く推察され、本日正午より捜査本部が立ち上がっています。お話しのためご自宅にお伺いさせていただいてもよろしいでしょうか」
「む、娘が……そんな……」
 両手で包むように持った受話器をなんとか落とさないように保ちながら、腰から崩れる。
「おばあちゃん!」
 後から追いかけてきた夢愛が聡子の腰を支えようと駆け寄るが、間に合わず、二人で板張りの床に座り込んだ。
「わ、私がそちらに行けば娘に会えるのでしょうか?」
「残念ながら、司法解剖やらなにやらあるので、現時点で面会いただくことはできません。そのため、まずはわたくしどもがそちらにお伺いしてお話をさせていただきたいのですが」
 聡子の口ぶりから何やら新しい情報が聞こえていることを悟った夢愛は、受話器の向こう側の南津の声に耳をそばだてる。
「……わかりました。こちらに来ていただくことは構いません。ただ、東京からですと」
「はい、少々時間がかかることは承知しています。これから担当官が最終の飛行機で向かいます。明朝にはお伺いしますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 聡子の言葉を遮るように言って、南津は早々に切ろうとする。
「待ってください、娘は……、藍子は」
「詳しいことは明日全てお伝えいたしますので。大変申し訳ございませんが、電話口ではこれ以上詳しいことはお伝え出来かねます」
 あくまで丁寧に、しかし有無を言わせない口調で南津は告げて、そのまま失礼いたしますと電話を切ってしまった。ツーツーツー……と接続が切れた音が受話器の向こうで無機質に鳴る。
 聡子は放心して床に置いた受話器を見つめていた。
 横で聞いていた夢愛が聡子の肩を掴み揺さぶる。
 夢愛の瞳から涙が溢れ、聡子の切り揃えた銀髪が前後に揺れるのにあわせて、左右に弧を描いて落ちた。
 よく磨かれたフローリングの上で、涙は玉になって散らばっていった。
 聡子は縋りついて嗚咽する夢愛を抱きしめ、頭を撫でながら、自身も静かに涙を流していた。
 どれくらい経ったか、いつの間にか夕立は止み外では鈴虫が涼しげに鳴いている。外のセンサーライトが点き、玄関扉のすりガラスを通して座り込む二人を照らした。
 ほどなく玄関扉が開いて正がのっそりと現れ、暗がりの二人を見てぎょっとして駆け寄った。
「お、おい?! 大丈夫か?!」
 大きく角張った手で、壊れ物に触るように聡子を抱え込む。
「正さん……藍子が……」
「藍子さん?」
 正はそこで聡子の奥に夢愛がいることに気づいて視線を投げかけ、伏目がちの夢愛と目が合うと慌てて逸らした。
「こんな暗いところにおるのもなんじゃけえ、奥行こう、な?」
 正に介助されながら、聡子はやっとの思いで立ち上がった。
 おぼつかない足取りで仏間に向かうのを、正と夢愛が後ろから見守りながら三人で移動し、聡子は倒れ込むように畳に座った。夢愛が座布団を引き寄せて聡子に渡し、自身も隣に陣取る。正は座卓を挟んだ反対側に胡座をかいた。
 正に説明しようと聡子は話し始めるが、途中で言葉を詰まらせ、そのまま再び嗚咽を上げる。夢愛は飲みかけだった麦茶を聡子に持たせ、背中を擦った。正も落ち着かせようとおろおろと声をかける。
「ゆっくりでいいけん、落ち着いて」
 持たされた麦茶を飲み、意識的に深呼吸を繰り返し、聡子はなんとか平静を取り戻す。
「夢愛ちゃんには言わなんだらしいけど、もう高校三年生やし、聞こえてたと思うし」
 聡子は夢愛の方を向いて言った。
「うん……」
 夢愛は項垂れて返事をする。聡子が、かすれた声でぽつぽつと南津から伝えられた話を話し始めた。
「明日来る言うて、なにしに来るんじゃろ」
 聞き終えた正が普段どおりを装って、聡子に尋ねる。
「そりゃあ、藍子と優輝さんの状況の説明だろうて。なにしろ殺された可能性があるて言うとったけん」
「むごい話じゃ……」
 聡子が落ち着いたのを見届け、夢愛は二階の自室に上がった。
 晩ごはんはと聡子が心配の声をかけたが、食欲ないとだけ言い残していった。残された聡子と正も何か食べる気分にはならず、追いかけるように寝床に着いた。

   3

 翌日の朝は早かった。
 どうせ眠れないのだからと正がまず起き出したのが四時半頃、一人になりたくない聡子が後を付いていった。二人はまるで体を動かしているとなにもかも忘れられると信じているように畑仕事に勤しんだ。夢愛が塞ぎ込んで部屋から出てこないままに、玄関の扉が叩かれた。
「ごめんくださーい」
 バリバリというガラス戸が叩かれる音に怯むことなく、エプロンで手を拭きながら台所から返事をして聡子がパタパタとスリッパを鳴らす。
 扉を開けると、スーツの男女が一組、身じろぎせずに立っていた。
 女の方は背が高く、紺の細身のパンツスーツがよく似合っていた。きめ細かく艶のある白い肌と、黒黒としたセミロングの髪が綺麗な対比を作り上げていて、化粧はないが凛とした佇まいだった。対する男は、太い首から四角形の顔が伸びており、ワイシャツの首元が詰まっている。肩幅も広く、スーツのジャケットは胸筋で膨れあがっている。顔つきはそれほど若くない。サイドを刈り上げた髪は丁寧に撫でつけられていて、ベテランの風格を醸し出していた。
 警察手帳を示しながら、低く落ち着いた声で男が口火を切り、女が続いた。
「おはようございます、朝早くからお騒がせして申し訳ございません。警視庁捜査一課の門真かどまと申します」
沢良宜さわらぎです」
「宇野辺聡子さんでよろしいでしょうか」
「今は、豊川ですけど、はい。あの、立ち話もなんですから、どうぞお上がりください」
 聡子に言われ玄関を上がったところで正が顔を見せ、こちらへ、と二人を案内する聡子に続いた。
 沢良宜と門真が腰を落ち着ける間に、聡子が台所から麦茶とコップを四つと菓子盆を持ってきて向かい合わせで座った。
「早速ですが、銀座署の南津から連絡しましたとおり、柴原ご夫妻がご自宅で亡くなられているのが発見されました。心よりお悔やみ申し上げます」
 そう言って門真は深々と頭を下げるが、すぐに本題に切り替える。沢良宜が内ポケットから小さなメモ帳とペンを出して構えた。
「さて、状況から他殺であることが推測されるため、昨晩捜査本部が立ち上がり、我々がこうして伺った次第です。被害者の娘さんがこちらにおられるとか?」
「はい、孫は、二階におりますが、今は……そっとしておいてやってくれませんか」
 聡子は、膝の上で揃えた両手に視線を落とし、一つ一つの単語を確かめるにように丁寧に紡ぐ。
「はい、我々としても娘さんがこの場におられないのは好都合です。高校生とは言っても両親が惨殺された話は聞きたくないでしょうから。奥様に取っても聞くに堪え難い話になるかと思いますが、よろしいでしょうか」
 門真は、俯く聡子の方を見やり、最後の言葉を隣の正に投げかけた。正は言葉に窮したが、聡子が自ら大丈夫だと頷いた。
「では、ご気分が悪くなられたらご遠慮なくおっしゃってください」
 そう前置きをして、門真は話し始めた。
「順を追って話しましょう。被害者の柴原優輝さんと藍子さんの勤務先から、最寄の警察署である銀座署に二人と一週間ほど連絡が取れないと通報があったのが八月二日、先週のことでした。成人の家出や失踪は皆さんが想像するより数が多く、二人揃ってということもあり、初動では事件性はないと判断しました。この判断自体には間違ったものはなかったと考えております。
 ところが、一昨日の八月七日になりまして、被害者宅のあるマンションの管理人より『骨のようなものが埋まっているのが見える』と警察に通報がありました。
 失礼ですが、娘さんである藍子さんとはここ十年ほど疎遠だったと思いますが、お住まいに行かれたことはありますか?」
「引っ越した直後に、一度」
「それであればご存じかと思いますが、マンションの一階にあった柴原ご夫妻の自宅にはささやかな庭があります。庭には垣根がありますが、隣のお宅の庭からも多少様子が見えるようになっていました。隣のお宅の住人は毎日植物の手入れのために庭に出ているそうですが、その日、隣の庭、つまりご夫妻の庭をやたらと荒らしている猫がいたそうです。猫がいるなあ、と見ているとその猫が掘った地面から何か覗いているのが見え、それが骨のように見えたのでびっくりして管理人を呼んだ、と隣の方は証言されています。
 呼ばれた管理人も隣人宅より骨のようなものを目撃し、インターフォンを押しても反応がないため、警察を呼びました。ご夫妻のお宅の玄関のドアには鍵がかかっていたので、管理人の持つマスターキーで警察官立ち合いの元、ご夫妻のお宅に立ち入りました。家の中に争ったような形跡はなく、管理人と隣人が通報したとおり、庭の隅で骨のようなものが発見されました。掘り起こして確認したところ、成人二名分の人骨であることが確認されました。また、DNA鑑定の結果柴原優輝さん、柴原藍子さんと断定されました。これが昨日のことでした」
 門真はそこで一度言葉を区切り、喉を潤した。聡子の方を見ると、顔面蒼白で今にも意識を失いそうなところをなんとか姿勢を保っている様子だった。
「あの、一旦ここで止めましょうか?」
「まだ、続きがあるんですか」
 喘ぐように聡子が絞り出した。
「残念ながら」
 と、全く残念がるそぶりを見せずに門真が応じる。
「続けて、ください」
「それでは恐縮ですが、続けさせていただきます。骨の状況から、お二人の被害者、特に娘さんの藍子さんは殺害時にかなりの暴行を受けたことがわかりました。更に、ご遺体は白骨化していたものの、これは地中に埋められていたことによるものではなく、薬品により白骨化させてから庭に埋められたためでした」
 ぐらっと聡子の頭部が前後に揺れたかと思うと、バランスを崩して後ろに倒れ込んだ。すばやく横に手を差し出した正が受け止め、頭を強打することは回避する。聡子は、真っ白い顔で眉間に皺を寄せていた。
「聡子!」
 正が呼びかけるが、返答はない。
「失礼します」
 素早く近づいた沢良宜が聡子の首元に指を三本静かに当て、少しの間を置く。
「脈拍は正常そうです。しばらく、安静にするのがよろしいかと」
 正は安堵の溜息をついて聡子を床に寝かせ、座布団を頭の下にあてがった。
「すみません」という正に、門真は「正常な反応です」と返して言葉を続けた。
「ただ、本当はここからが大事だったのですが」
 咳払いをして、体を前に乗り出した。
「先ほど申し上げましたとおり、被害者にはかなりの暴行を受けた跡があり、よほどの怨恨が動機となっているように推測しています。犯人逮捕には捜査本部一同、全力を挙げておりますが、これほどの怨恨となるとお孫さんの身にも危害が及ぶことが懸念されています。ですので、この沢良宜がしばらくの間、お孫さんの警護に当たることとなりました」
 紹介された沢良宜が聡子から正に目線を移し会釈をする。胡坐をかいた足をもぞもぞと動かしてから、正も会釈を返す。
「そうですか。二階には空き部屋もありますんで、大丈夫やと思います。なんだったら刑事さんも、お泊りになれますで」
「それは助かります、なにせこの地域には泊まるところがなさそうなもので我々もどうしようかと思っていました」
「聡子が起きたら伝えておきます。夢愛ちゃんに会われますか? 呼んでみてもええですが」
「いえ、心を落ち着ける時間が必要でしょうから、降りて来られたときにご家族からお伝えいただけますか。我々から聞くよりはよいと思いますので」
 これから警護に当たる沢良宜が答え、正が頷く。
「ところで、豊川さんは柴原夢愛さんの血縁上のおじいさまですか」
 そう聞かれた正は門真をぎろりと睨みつけた。先ほど家に泊まることを快諾した人物と同一人物とは思えない形相だった。
「それが、事件と何か関係があるんですか」
「いえね、すみません、仕事として皆様の関係を把握しておく必要がありまして。被害者のご家族とあれば毎回聞いているんです。形式的なものだと思ってお答えいただけませんか」
「まあ調べればわかることだもんな、夢愛ちゃんに聞いてもわかるし。俺と聡子は十年前に再婚したもんで、夢愛ちゃんとも、夢愛ちゃんの母親の藍子さんとも血のつながりはありません。藍子さんとその旦那さんに関しては会ったこともありません」
「そうですか。失礼ですが、奥様は再婚して名字が変わられたんですよね? 被害者・藍子さんはお勤め先の社内では旧姓をそのまま使われていたそうで、宇野辺さんで通っていました。宇野辺というのは、聡子さんの前の旦那さんの名字ですかね、もしご存じであれば」
「そうだと思います。十年前に再婚するとき、俺はこの年だし籍は入れんでもええんじゃないかうたんですけど、聡子が今の名字は前の旦那のじゃけん籍を入れたい言うけん、そうしたんです。結婚前は、宇野辺聡子言うてました」
「なるほど、ありがとうございます」
「これ、事件と何か関係があるですか」
「いえ、先ほども申し上げたとおり形式的なものですので、ご容赦ください」
 正は押し黙ってしまい、両者の間に沈黙が落ちた。
 開け放たれた窓から今日も蝉の大合唱だけが響いている。
 風が吹いて風鈴が揺れた。
 聡子が小さく唸りごろりと寝返りを打ったが、目を覚ます気配はない。
「それでは、私は一旦これで。沢良宜をお孫さんの部屋に案内していただけますか」
 門真はそう言って痺れた足を延ばし、床に手をついて立ち上がった。正も続いて立ち上がり、夕食等はお気遣いなく、と言い残した門真を見送った。
 残された沢良宜は言葉を発することなく目線で、夢愛の部屋は二階かと尋ねる。正も何も返さず、ただ先に階段を上った。
 古い家特有の急な傾斜の階段の先には短い廊下があり、左手奥の部屋が夢愛が寝ている部屋だった。ドアは閉ざされており、中から音はしない。夢愛が寝ているのか起きているのかはわからないが、今この瞬間出てくる意思がないことは明らかだった。
 ここですと示した正に、沢良宜が短く礼を言う。
 正は頷き返して階段を下りていった。
 昼過ぎに夢愛が空腹に耐えかねてドアを開けるまで、沢良宜は直立不動で蒸し暑い廊下に立っていた。
 幸いドアは内開きで、静かに開けられたドアに沢良宜が攻撃されることはなかったが、夢愛は部屋の前に立つ人影を見てぎゃっと叫び声を上げた。夢愛が叫び声を上げるのとほぼ同時に、沢良宜が振り返った。
「だ……だれ……?」
 二歩ほど後ずさって問いかける夢愛に、沢良宜が慇懃に返す。
「驚かせてしまい申し訳ございません。警視庁捜査一課の沢良宜と申します。柴原夢愛さんでよろしいでしょうか」
「……そうですけど」
「夢愛さんの警護のため、しばらくご一緒させていただくこととなっております。どうぞよろしくお願いいたします」
 夢愛は下げていた足を戻し、眉尻を少し下げて俯いた。
「じゃあ、やっぱり……」
 畳の縁を見ながらほとんど独り言のように呟く夢愛を見下ろし、沢良宜は小さく頷く。夢愛が部屋から出られるように一歩横にずれて、次の行動を待った。夢愛は、その行動の意味がわからず小首を傾げた。
「後ろから付いていきますので」
 そういうものかと夢愛は部屋から足を踏み出し、手すりをしっかり掴んで階段を降りる。降りた先の廊下では、普段はきっちり閉じられている台所の扉が開け放たれていて、テーブルで聡子が呆けているのが見えた。
 物音に気づいて顔を上げた聡子と夢愛の視線が合う。
「夢愛」
「おばあちゃん……」
「大変なことになっちゃったねえ」
 溜息交じりに言う聡子の隣の椅子を引いて、夢愛が腰掛けた。
「もうお加減は大丈夫ですか」
「ええ、ありがとうございます。ご迷惑をおかけして、ほんますみません」
 肩を丸めて縮こまりながら沢良宜に謝罪する聡子を不思議そうに夢愛が見ていたら、夢愛の腹からわかりやすい音が鳴った。
「ほうじゃあ、夢愛ちゃんお腹空いとるよね、なにか作ろうわいね。刑事さんも空いておられましょう? ご一緒にいかがですか」
 聡子の表情がふいに柔らぎ、目に皺を寄せて二人に笑いかけた。
 沢良宜に遠慮する隙を与えず、聡子は素麺そうめんを茹できゅうりやトマトを切って盛り付ける。タンパク質もいるわねなどと独り言を言いながら、作り置きの煮豆をレンジで温めていた。聡子の手際はあまりにもよく、夢愛と沢良宜に手伝えることがないので、二人は黙って見守っていた。
「正さんは?」
 せめて箸だけでも出そうと夢愛が人数を確認する。
「私と正さんはもう食べたけん、二膳でええよ」
「そっか」
 たっぷりの素麵と夏野菜がテーブルに並んだ。
 夢愛は浮かない表情のまま高校生らしい食欲を発揮し、沢良宜も負けず劣らず働き盛りの食欲を発揮していた。聡子は目を細めてそんな二人を静かに眺めていた。
「……刑事さんに聞きたかったのですが」
 二人の食事が終わったのを見て、聡子が夢愛の顔を見ながら切り出す。
「二人の、藍子と優輝さんの、身体はいつ帰ってくるんでしょうか」
 夢愛は下を向いて、まるで聞こえていないかのように逆剥けを引っ張っていた。皮を引きちぎったところから、じんわりと血が滲んだ。
 沢良宜がそんな夢愛を一瞥してから答えた。
「私は夢愛さんの警護に当たるためにこちらに来ておりますので、現在の捜査状況を知りませんが、科捜研の捜査もあるのでもうしばらくはかかるかと……」
「こんなこと刑事さんに聞いても仕方ないかもしれませんが、お葬式ってどうしたらええんでしょうか」
「ご遺体を待たれる方もいますが、ご遺体なしで先に済まされる方もいらっしゃいますよ」
「そう、ですか……。早くしたいわけじゃないんですが、やっぱりどうにも落ち着かんで」
 その晩、聡子は正と相談して遺体が帰ってくる前に葬儀を済ませることにした。夢愛にも聞いたが、どっちでもいいんじゃない、と上の空の返答だった。
 本来であれば、二人が住んでいた東京で葬儀を上げるべきかもしれなかったが、親族や藍子の古い友人がこちらにいること、優輝が児童養護施設の育ちで肉親や親戚がいないこと、遺体がないことなどを考慮して、聡子の家で葬儀をあげることとなった。慌ただしく葬儀屋と打ち合わせをし、案内状を出す祖父母を、夢愛は他人事のように眺めていた。
 沢良宜は夢愛の警護だと言っていたが、夢愛が自室から出てくることはほとんどなく、食事のときにだけ一階に降りるのを見守り、一緒に食事をする係となっていた。

   4

 藍子と優輝の会社の人間をはじめとした東京からの参列者が、最寄の駅からマイクロバスで運ばれてくる。
 それほど人数は多くないが、バスで一段となって来るので受付にはちょっとした列ができていた。顔見知りと小声で会話をする人たちの中で、一人で佇む青年がいた。
 喪服のジャケットを手に持って、ちらちらと列の前の方を覗きながら、顔周りを手で仰いでいる。細身の銀縁眼鏡の鼻あての周りで汗が玉になっていて、無造作に伸びた前髪も汗で額にぴったり張り付いている。
 ようやく順番が回ってきたときには男は汗だくになっていて、香典帳に汗が滴った。
「この度は、お悔み申し上げます」
 何度も聞いた定型文を言いながら香典を渡す男に、夢愛は無言の会釈で返した。香典帳をちらりと盗み見ると、親族の欄に丸が付けられ、宇野辺うのべがくと書かれている。達筆ではないが、読みやすい丁寧な字だった。
 夢愛より少し年上、二十代前半のように見える。年齢が近い親族に心当たりがなかった夢愛は、青年が家に入っていくのを首を傾げながら目で追っていた。
 そろそろ式が始まるというので呼ばれて中に入り、最前列中央の聡子の隣に座る。後ろの列に宇野辺がいるのが見えた。
 聡子が立ち上がり、挨拶の言葉を述べて式が始まる。
 聡子は時折白いハンカチで目頭を押さえていて、いかにも娘を亡くした気丈な母親という感じだった。夢愛は、式が終わるまでずっと遺影になった両親をまっすぐに見ていた。
 一番後ろの列で沢良宜と門真が参列者を睨むように見ている。喪服を着ているが、その目は明らかに獲物を探すハンターのそれだった。
 沢良宜と違って東京から随時捜査状況の報告を受けていた門真は、葬式が始まる前に、沢良宜に現状の共有をしていた。事件の全容は見え始め、顔見知りの怨恨の説がますます濃厚になってきていた。
 二人の遺体が見つかった自宅の室内は綺麗に掃除がされていたものの、ルミノール痕などから凶行は自宅リビングで行われたことがわかった。
 まず犯人は、柴原夫妻に招かれ、またはアポイントを取って、犯行現場に訪れた。食器類から夫妻とその娘である夢愛以外の唾液などが見つからなかったことから、犯人はお茶を振る舞われても口をつけなかったか、振る舞われる前に犯行に及んだと思われた。
 おそらく犯人は、リビングに犯人を通してキッチンに向かった藍子を後ろから殴打して殺害し、続いて、事件に気づいて犯人を取り押さえようとした優輝を刃渡りの小さな果物ナイフで刺した後、優輝自身のネクタイでとどめを刺した。藍子と優輝の殺害の順番が逆だった可能性はある。
 藍子の頭蓋骨の陥没、優輝の肋骨についた傷、リビングのダイニングテーブル付近で見つかったルミノール反応からこれらのことが推測された。少なくとも藍子の頭蓋骨は何か所も砕けている場所があり、犯人から何度も殴られたはずだ。その傷のほとんどは、正面からのものだった。これだけで、犯人は二人に深い恨みを持っていたことがわかる。
 ただし、不可解なのはここからだった。
 犯人は二人の遺体を風呂場に引きずっていき、どうにか遺体を白骨化させているのだ。浴槽内は綺麗に水で流されておりその証拠はなにも見つかっていないが、遺体には炭酸ナトリウムの残留が認められた。犯人はなぜ、二人の遺体をそのまま置いておくことはせず、わざわざ白骨化させて庭に埋めたのか。
 理由がなんであれ、こうした怨恨による犯行の場合、大抵犯人は神妙な顔で葬儀に参列していることが多い。
 手がかりが全くない現状の中では、沢良宜と門真には参列者全員が容疑者に見えていると言っても過言ではなかった。
 式が終わり、親族以外の者が帰路に着くので、二人の刑事は最寄りの駅まで向かうマイクロバスに同乗した。バスの中では静かな囁き声で会話がなされるだけで、至って平穏だった。
 御斎のために帰らなかった親族の中には、宇野辺の顔もあった。仕出し弁当が運ばれて来たのを、聡子と一緒に玄関から仏間へ運びながら夢愛が聞いた。
「あの、宇野辺楽さん、だっけ? 大学生くらいの、あの人って誰?」
「あれ、夢愛ちゃんは楽くんにうたことなかったかい。おじいさんの弟さんのお孫さんでね、両親と色々あるらしくてな、再婚してからもたまに会いに来てくれるんよ」
「ふぅん」
 聡子がおじいさんというとき、それは正ではなく前夫を指していることを知っていた夢愛は、それ以上詳しく聞くことはしなかった。
 そこで会話を止めた聡子は、夢愛の前を歩く。斜め後ろから見る聡子は、夢愛が記憶していたよりずっと小さく皺だらけになっていた。しかし、その疲労が滲んだ横顔には、確かに夢愛の母の母だと思わせる端正さが残されていた。
 聡子と夢愛はお酌をして回りながら、際限なくお悔やみの言葉と型どおりの励ましを受けること二時間、散会の時間になり、親族が車やマイクロバスに乗って帰っていった。
 途端に静かになった家で、夢愛は縁側に腰掛け、つま先に黒いパンプスを引っ掛けて足をぶらぶらさせていた。仏間の電気は消されており、月明かりの中で遠くを見つめる夢愛の視線は、黒い山陰に吸い込まれている。
「藍ちゃんの娘さん?」
 呼ばれて夢愛が振り返ると、襖の近くに宇野辺が立っていた。月明かりが届かず、腰より上は影になっている。
「え、あ、えっと、はい、そうです」
 慌てふためいてパンプスを脱ぎ捨てた夢愛が立ち上がるのと、宇野辺が電気を点けるのは同時だった。明るくなった部屋で、宇野辺の顔がよく見えた。
 長く伸びた前髪は目にかかっているが、形のいいアーモンド形の目は銀縁眼鏡とよくマッチしていて、少し大きめの鼻も筋が通っている。
「びっくりさせちゃってすみません。今日ここに泊めてもらうことになったんですけど、おばあちゃんに西瓜持って行ってくれって頼まれて」
 聡子と同じイントネーションで、ゆっくりと話す。低い声は心地よく夢愛の腹に響いた。宇野辺が言うとおり宇野辺は西瓜が盛られた円盆を持っていた。
 宇野辺は盆を手渡して立ち去ろうとしたが、西瓜を名残り惜しそうに見ていたので、厄介さを隠さずに夢愛が言った。
「あの、一緒に食べませんか? 食欲ないし、こんなに食べられないし」
「いいんですか? いやあ実はちょっと食べたいなと思っていました」
 宇野辺は調子づいて、夢愛がさっきまで座っていた場所の隣に、足を外に投げ出して座る。夢愛も座り直し西瓜を手に取ったが、口をつけずに種を見つめていた。
 宇野辺は構わず、シャリシャリと平らげていく。二切れ食べきったところで円盆の端に乗せられていた濡れ布巾で手を拭き、夢愛の方を向いた。
「ええっと……夢愛さん? でしたっけ。自己紹介が遅れてすみません。僕、宇野辺楽と言います」
「柴原夢愛です。おばあちゃんから聞きました。おじいちゃんの弟さんのお孫さんだったっけ? 私から見るとなにに当たるんだろう。とにかく、マ……母のこと、知ってるんですね」
「藍ちゃんも、優輝さんも知ってます。小さい頃よくここで遊んでもらっていました。今日の受付に立たれてましたよね、あまりにも藍ちゃんに似ていたんでびっくりしました」
「それ、よく言われるんですよ」
 眼鏡の奥で目を細めて恥ずかしそうに笑った宇野辺を見て、夢愛が硬い表情で呟いた。
「やっぱりそうですよね。いやあ、本当にとても似ていてお綺麗ですね」
「それより」と夢愛が一口も食べていない西瓜を盆に戻して、早口で言う。
「ママとパパが亡くなったときの話って聞きましたか」
「いや……葬式のときにはそういう話はなかったから」
 宇野辺が夢愛から視線を山並みに移したのに合わせて、夢愛も黒い稜線を見つめた。真っ黒なシルエットは遠近感を失わせるようで、目の焦点が合わないまま、小さな声で話し始めた。
「……殺されたらしいです。強盗? なのかなんなのかわからないですけど……家で二人で殺されて……お母さんの顔はぐちゃぐちゃに殴られてて、二人は骨だけになって見つかったそうです。夏休みの初めはあんなに元気だったのに、あっけないですよね。人がこんなに脆くて弱いなんて知らなかった……」
 夢愛の声は震えていたが、涙は流していない。
「すみません、こんな話を突然してしまって。聞いてくれてありがとうございます。おばあちゃんも正さんも、事件のことを話したがないから。でも私は少し誰かと話してマ……お母さんとお父さんがいたことを実感しておきたくて。
 お母さんとお父さんは元の予定のとおり海外出張に行ってるだけな気がして、そうじゃないって思い出したときにすごく悲しくなるんです」
「そういう考え方もありますね……。藍ちゃんと優輝さんのためにも早く犯人が捕まるといいのですが……」
 二人揃って視線を庭先に落とす。沈黙ののち、夢愛が尋ねた。
「お母さんと仲良かったんですか?」
「仲が良かったというか、もう藍ちゃんは東京に出てたし、そんなに頻繁にではないけど、帰ってきたときによく遊んでもらっていました。藍ちゃん、めちゃくちゃ綺麗だったから僕が勝手になついてたというか」
 宇野辺がそう言って懐かしそうに目を細めて、近くの神社や駄菓子屋に連れて行ってもらった思い出を話す。若い頃の藍子の話は、夢愛が知っている放任主義の母親とは違って、優しくて、遊び心があった。夢愛は違う人の話を聞いている気分だった。
 ぬるくなった西瓜がようやく食べられて、円盆が空になったことが散会の合図となった。
「ダラダラ話してしまってすみません、僕、部屋に戻りますね」
 腕時計をちらりと見て、早口で宇野辺が告げた。
 一人になった夢愛は再び視線を山並みに戻し、涼やかな夜風に身を任せていた。顔からは先ほどまでのにこやかな表情が消えて、陶器のように冷たく固い。目尻のあたりをぴくぴくとさせて、奥歯からぎりっと音が響いた。

   5

 葬儀の翌日も、聡子と正は朝早くから畑に出ていた。
 娘の死はいつまで経っても現実のものと思えないのに、言葉にならない感情は幾重にもこみ上げ続ける。聡子は、畑に出て野菜の収穫をしていると少し落ち着くようだった。
「おはようございます」
「あら、楽君早いねえ。もう少し寝とってもよかったのに」
 ここの老夫婦は今日みたいな日でもいつもどおり畑仕事をしているだろうと踏んだ宇野辺が畑に顔出し、大きな声で挨拶をする。よれよれのTシャツを着て、ぼさぼさの頭に眼鏡が乗った顔に似合わず、半ズボンからは日焼けした筋肉質の脚が伸びていた。
「いえ、手伝いますよ。朝の空気は気持ちがいいですね」
「ほうかい、ありがとうね」
 正が宇野辺に軍手を渡して、宇野辺は指示されるままに収穫をする。
「そういえば楽君、昨日は夢愛ちゃんの話を色々聞いてくれて、ありがとう」
 夢愛に宇野辺を差し向けた張本人である聡子が礼を言う。
「やっぱり、歳が近い方が話しやすかろうと思て、大変なことをお願いしてしまったねえ」
「僕が一方的に藍ちゃんの思い出を語っていたような感じなので、力になれたか……」
「うんにゃ、楽君が二階に上がった後の夢愛ちゃん、少し顔色が明るくなってた気がしたけん、本当にありがとう」
「そうでしたか。それならよかった」
 少し日が高くなり三人が畑から戻ると、台所のダイニングテーブルに門真が所在なさげに座っていた。
「刑事さんお早いですね、よく眠れましたか」
「おはようございます。ええ、おかげ様で。ありがとうございました」
 聡子が門真を刑事さんと呼んだのを聞いて、宇野辺が一歩前に踏み出た。
「刑事さんがいらしてたんですね!」
 目を輝かせて尋ねた宇野辺に、門真は無言で鋭い視線だけを返した。宇野辺は慌てて次の言葉を続ける。
「すみません、僕、親戚の者で、宇野辺楽と言います」
「警視庁の門真と申します。宇野辺さん、ということはあなたは聡子さんの前夫のご親戚?」
「そうです」
「他の御親族の方は帰られましたが、あなたはお泊まりになったんですね。よければ、少しお話をお伺いさせていただけますか。聡子さん、仏間を借りても?」
「どうぞ、お使いください」
「俺、近所の人たちにお礼に行って来ようわい」
 空気を読んだ正はそそくさと外に出ていき、すぐに軽トラのエンジン音が聞こえた。聡子は、台所に残って朝食の用意を始めた。
 仏間に移ってどっかりと胡坐をかいた門真は、改めて宇野辺に尋ねた。
「それで、なんでまたこんなところに残ったんですか?」
「こんなところって。大学生で、東京の夏は暑くてたまったもんじゃないので、しばらくここにいようと思いまして。一応僕も生まれはこっちなんで、やっぱり東京のごたごたよりも田舎の方が落ち着くんですよね」
「普段は東京で?」
「はい、大学三年です」
「事件の話、ご遺族から聞いていますか」
「多少は、夢愛ちゃんから」
「ああ、娘さんの。それであれば話が早いので助かります。関係者皆さんに尋ねている形式的な質問なので気を悪くしないでほしいのですが、七月二十八日から八月二日の間の行動を教えていただけますか」
「それは、アリバイってことですか?」
「まあ、形式的なものです」
「期間が長いですね、ちょっと待ってくださいね」
 そう言って、スマートフォンの日記アプリを見ながら行動をつぶさに門真に伝える。
「日記を書いていてよかった、でも大半は一人なのでアリバイとしては弱いですよね」
「ご協力ありがとうございます」
 質問には答えず、メモを取り終わった門真は心のこもらない礼を述べた。
「僕がいたから捜査することがあってよかったですけど、刑事さんはなんで東京に帰らないんですか」
「刑事には一応ペアで動くルールがありましてね、娘さんの警護に当たる必要があるので二人こちらに配備されたんです」
「ああ、あの女性の」
「あれ、どこかでお会いしましたか」
「ペアってことは昨日の葬儀で刑事さんの隣に立っていた女性だろうなというあてずっぽうですよ。じゃあ、あの方が刑事さんで合ってるんですね」
「ええ、まあ。ただ娘さんはあまり部屋から出て来られないので、沢良宜も多少手持ち無沙汰のようですが」
 適当な宇野辺の言葉に門真は苦々しい表情で答え、それでは、と立ち上がろうとした。
「あ、待ってください。刑事さんは今日はこれからどうするんですか」
「捜査です」
「ご一緒してもいいですか」
「なぜ」
「藍ちゃん……柴原藍子さんには幼い頃よくしてもらっていて、何か聡子さんの力になれるかと思って葬儀の後も残っていたんですけど、犯人が捕まることが一番だなと思って」
 捜査と言っても特に聞き込むや張り込みの予定があるわけではなく、本当のところ特に予定がなかった門真は、少し考えてから承諾した。
 聡子の用意した朝食を食べながら、宇野辺は今日の予定として門真に同行することを聡子に告げた。
「おやまあ。危ないことはしちゃいけんよ」
「そんな、もう大人なんで大丈夫ですよ」
「あと、夢愛ちゃんにはまだあんまり事件の話はしとらんけん、優しくしてあげてね」
「僕も、詳しいことは刑事さんから教えてもらっていないので大丈夫ですよ」
 門真はまず最初の仕事として、二階の廊下で警護をしている沢良宜に朝食のおにぎりを運んだ。刑事さんも大変ですねぇ、などと軽口を叩きながら宇野辺は門真の後ろから階段を上る。
「沢良宜、めしだ」
「ありがとうございます! あれ?」
「宇野辺です」
 沢良宜と目が合った宇野辺が会釈した。名字を聞いて首を傾げた沢良宜に、すかさず門真が解説する。
「聡子さんの前の旦那の弟の孫? だっけか、親族だそうだ。今日一日俺について回るらしい」
「はあ」
 会釈を重ねる宇野辺に、沢良宜はぼんやりとした返事を返した。
「それで、様子は?」
「え、本当にこの人がいる状況で捜査の話するんですか?」
「学生証も見せてもらったし、柴原夫妻殺害の動機もないしな。俺たちの捜査は本部からするとおまけみたいなものだし、いいんじゃないかと思ってな」
「あとから課長に怒られても門真さんの職務命令ってことにしますからね」
「ああ、それでいいよ。それで、様子は?」
 ドア一つ隔てた先には夢愛がいるので大きな声は出せない。ひそひそと刑事たちが話すのを宇野辺はじっと聞いていた。
「特に変わりありません。昨日の今日なので、今日も部屋から出てくるかどうか」
「そうか、いや部屋にいれば安全だろうし、多感な時期だろうしな。部屋から出たくない気持ちはわかる」
「ただ、本当にこの警護意味があるんでしょうか?」
 二つのおにぎりをほとんど噛まずに飲み込んだ沢良宜が疑問を呈すると、宇野辺が割って入った。
「というと?」
「あなたに聞いたのではないのですが」
「まあいいじゃないか、それで警護に意味がないと思う理由はなんだ?」
「いえ、怨恨の線だったとしても、こんな片田舎にまで娘を追いかけて来るでしょうか?」
「俺もそう思ったんだがな。生前の柴原藍子の顔は見たか?」
「はい、捜査資料にありますし」
「じゃあわかるだろう。柴原藍子はかなり整った顔をしていただろ。夢愛はどうだ?」
「同じように……あっ」
「そういうことだ」
「ちょ、ちょっと待ってください。僕も藍ちゃんを知っているので顔はわかりますが、話についていけていません」
 宇野辺が口をはさむ。沢良宜は口角を下げて無視を決め込もうとしたが、門真が説明を始めた。
「捜査機密なので本当は言っちゃいけないんですが、柴原藍子さんは司法解剖の結果、殺害後にかなり顔面を殴られていることが判明しています。藍子さんと夢愛さんの風貌は、かなり似ていますよね。親子でも珍しいほどに」
「ええ、そうですね」
「我々としては、今回の事件は、この顔面の損壊具合から考えて柴原藍子への怨恨、それもストーカーのような一方的な恋愛感情のもつれから来るものではないかと考えています。こういうストーカーの心理はあまりわかりたいものではありませんが、顔がかなり似ている夢愛さんを狙ってもおかしくないと考えています」
「門真さん、本当に課長に怒られますよ。私知らないですからね」
 ペラペラと話す門真に、沢良宜は呆れたように釘を刺した。
「課長にバレなきゃいいんだろ。宇野辺くん、今の話はかなり捜査機密なので口外しないようにしてください」
「そんなので……」
「もちろん。それに、話す相手もいないのでご心配には及びません」
 軽い返事を返した宇野辺は、心ここにあらずの様子だった。
「今の話というのは、最初の司法解剖の結果を含めてですからね。本当に門真さんに迷惑をかけることはやめてくださいね」
 沢良宜は、門真に言うのを諦めて、宇野辺に念を押す。
「わかってますって。犯人にばれちゃいけないってことですよね」
「そういうことです!」
「じゃあ沢良宜、引き続きよろしく頼む」
 門真が、何度も注意を繰り返す沢良宜を置いて階段を降りようとするので、宇野辺もそれについていく。沢良宜は宇野辺の背中に再度、注意の言葉を投げかけた。
 聡子が仏間で背中を丸めて葬儀後の事務処理をしていたので、門真が正面に座った。宇野辺は、門真ではなく聡子の隣に座る。
「奥さん、色々と大変ですね」
「ええ、まあ、娘の香典を数えることになるとは思っとりませんでしたわ……」
「そうですよね。この場でこういうことを言い出すのは心苦しいのですが……香典帳を見せていただけますでしょうか」
「……ええですよ」
 書類が入ったファイルを指サックを付けた指でガサガサとめくり、香典帳を探し当てる。門真の方に押しやって、座卓に手をついてゆっくり立ち上がった。
「麦茶でええかいね」
「ああ、お構いなくです」
「おばあちゃん、僕が取ってきましょうか」
「楽君も捜査の手伝いをしとるんやろ? ええよ、そこにおり」
 聡子が台所に行っている間に門真は構わず香典帳を捲り始めた。
 捜査の手伝いと言っても宇野辺にできることはなかったので、宇野辺は縁側に座り、蝉時雨に耳を傾けていた。
 しばらくして、飲み物を取りに行っただけのはずの聡子が、慌てたように仏間に戻ってきた。先ほどまで着ていた割烹着を脱ぎ、髪には櫛が通っていた。
「ちょっと用事ができましたけん、外に出て来ます。家の中のもんは好きに使つこうてもろてええです。それから、外に出られるときも鍵は開けっ放しでええですけん」
 どこへ、などと二人が尋ねる隙を与えずにそれだけ一気にいうと、出て行ってしまった。

   6

 香典帳に並んだ参列者の氏名をパソコンに打ち込んで本部に情報を送った後、門真はそのまま本部の捜査のうちパソコンでできることを遂行していた。手持ち無沙汰にスマートフォンでSNSや動画を見たり過ごしていた宇野辺は、昼時になっても帰って来ない聡子の代わりに昼食を作った。
 午後もパソコンやスマートフォンを睨んで過ごし、気が付くと日は傾いている。ヒグラシが鳴きしきるなか、軽トラックのエンジン音がして正の帰宅を告げた。
「ただいま」
「おかえりなさい。正さんの方が早かったんですね」
 玄関から仏間に顔を出した正を、宇野辺が座ったまま迎える。宇野辺の言葉を聞きながら仏間を見渡して正が言った。
「あれ、聡子さん出かけとんのか、どこ行っとん」
「行先は言っていかなかったんですけど、心当たりありますか?」
「ううん、普段買い物以外にそんなに長く出かけることはないと思うんやけど。腹減ったな、電話でもかけてみるか」
 正は一人で話を進めて、スマートフォンを出してトットッと何度かタップして耳に当てた。宇野辺は黙って正を見上げて、門真も作業の手を止めた。
 かなり着信を鳴らしたようだが、聡子は出なかった。
「まあええわい、もうしばらくしたら帰ってこよう」
 正は気にすることなく独り言のように言って風呂場に向かう。宇野辺が門真の顔を見た。門真も既に仕事に戻ってしまっていて、パソコンを睨んでいて目は合わない。
「聡子さん大丈夫ですかね?」
「用事とやらが長引いてるのかもな」
 パソコンから顔を上げずに門真が言うので、会話はそこで終わる。そんなものかと宇野辺もそれ以上気にしなかった。
 正が風呂から上がり、外が完全に暗くなっても聡子は帰ってこなかった。正と宇野辺が交代で電話をかけてみたが、通話はつながらない。さすがにこんなことは今までなかったと正が言い、仏間に緊張が走った。
「宇野辺くんはここにいてください」
「門真さんはどこに?」
「探しに行きます」
「俺も行く」
 門真が言うので、正も手を挙げる。
「僕も行きます。門真さんこの辺りの道知らないでしょう。案内します」
「それじゃあ聡子さんが帰ってきたときに……沢良宜がいるか」
 三人の男はバタバタと玄関に向かい、門真は階段下から上に向かって叫んだ。
「沢良宜! 俺たちこれから奥さん探しに行くから、娘さんを頼む。奥さんが帰ってきたら電話してくれ」
「了解しました!」
 玄関を出て左手の駐車場に聡子の軽自動車はなく、軽トラックと門真が借りているシルバーのレンタカーだけが並んでいる。車に乗る前に、宇野辺がてきぱきと正に指示をした。
「僕たちは集落を探して回るので、正さんは聡子さんが行きそうなところ、いつも行っているスーパーや商店、集落外のお知り合いを探してもらえますか」
 正は首にタオルをかけたまま頷き、軽トラックに乗り込んだ。
 門真と宇野辺が乗ったレンタカーも後を追うように私道に発進する。
「おばあちゃんはどこに何しに行ったんだろう……聞いておけばよかった」
「おい、なにも当てはないのかよ。はっきり指示するもんだから当てがあるかと」
 思わず沢良宜に対する口調で悪態をつく門真を気にすることなく、宇野辺は謝った。
「すみません、当てはないですけど、集落の中をとりあえず見て回ればいいかと思って」
 集落には街燈が少なく、真っ暗な道をヘッドライトで照らしながら、左右を確認するためにゆっくりと集落を進む。聡子の車が駐車場になかったことから車で出かけていることは確かで、人影に加えて、聡子の薄ピンクの軽自動車を探していた。
 徐行でも、小さな集落を一周するのにそれほど時間はかからず、ぐるっと回って最初に出た小さな曲がり角に戻ってきた。
「いねえな……」
「あとは……神社ぐらいなんですけど、一人で神社なんて行きますか?」
「見ておいて損はねえだろう、案内してくれ」
 宇野辺は、門真を集落の山際にある神社に案内する。神社には祭りのときに使う山車を仕舞う倉庫があり、そのまわりに砂利が敷かれて駐車場になっていた。
 右折をして駐車場に入ると、ヘッドライトの先に車が一台止まっているのが見えた。聡子の軽自動車と同じ車種で、薄ピンク色の軽自動車だった。
 宇野辺が言葉を発する前に門真は車を止めて、飛び降りる。駐車スペースの枠には入っていないが、気にしている場合ではなかった。軽自動車に駆け寄るのを、宇野辺が後を追いかける。
「奥さん!」
 運転席から中を覗き込みながら門真は怒鳴ったが、運転席には誰もいない。
「こっちが参道です!」
 宇野辺が駐車場の出口の方を指すので、門真はそちらに走る。
 駐車場から小さな集落の神社にしては広い参道に出ると、等間隔に置かれた石灯篭の中で、ろうそくを模したLEDが光っていた。五十メートルほど先の鳥居に向かって走ると、鳥居の先に急な階段が出現する。
「げ」
 肩で息をして門真が小さく声を漏らした横を、宇野辺が追い抜いく。ひょいひょいと軽快な足取りで階段の中ほどにある平坦な場所まで上った宇野辺は、頭から血を流して倒れている聡子を発見した。
 右半身を下にして横たわっており、綺麗な銀髪がべっとりと石畳に張り付いていた。頭の下には血だまりができている。眉間に皺を寄せて背中を丸めた聡子は、いつにもまして小さく見えた。
 宇野辺が、上から門真に向かって叫ぶ。
「門真さん! いましたぁ!」
 追いついた門真が、宇野辺が聡子を抱えようとしたのを見て叫んだ。
「待て! 触るな」
 門真は聡子の首に指を当てて脈拍を確認し、瞼を持ち上げて瞳孔にスマートフォンの光を当て、首を振りながら言った。
「残念だが……救急車を呼んでくれ」
「えっ……?」
「おそらく既に亡くなっているが、病院に連れていく必要がある。救急車を呼んでくれ。それから、ここの神社の名前は?」
「い、岩立いわたて神社ですけど……」
 それだけ聞くと、門真はスマートフォンで一一〇番通報をした。俺は刑事だ、早く所轄に繋げ、などとオペレーターに喚く門真の横で宇野辺も言われたとおりに一一九番に電話をかけた。
 一番最初に駆け付けたのは近くの駐在だった。
 正は街のスーパーまで聡子を探しに行ったらしく、救急車とほぼ到着が同じだった。それからしばらくしてパトカーのサイレンが近づいてくる。
 車両侵入禁止の看板を気に留めずに鳥居の手前まで警告灯を回して乗りつけ、小気味良い足音を響かせて二名の警官が階段を上がってきた。
「県警梅ノ木署の西です。お電話いただいたのは?」
「俺だ、警視庁捜査一課の門真です」
 敬礼を返しつつ他の警官の名前を聞いて、簡単に発見時の状況を伝える。
「ご協力感謝します。うちの一課の刑事と鑑識が後で来ますので、お手数ですがそのときにまた聞かせてください」
 警官の予告どおりに鑑識が来て現場の写真をくまなく撮る傍らで、門真と宇野辺は事情聴取を受けていた。県警の刑事が口を開く。
「現場の状況から考えて事故ということも……」
「そんなに都合よく事故で死んではたまりません。ガイシャの娘とその夫は二週間前に東京で何者かに殺されているんですよ」
「あらゆる可能性がありますので」
 自身が普段関係者に述べている言葉を言われて、門真が腹立たしげに爪を噛む。
「身の回りのものはありましたか?」
 県警の刑事と門真の空気に気圧されることなく宇野辺が口を挟む。あまりの自然さに、県警の刑事は宇野辺を関係者と思って答える。それを見た門真は笑いをこらえられていなかった。
「携帯電話と車のキーがポケットにありました」
「女性にしてはやけに身軽ですね。スマホの着信履歴などは?」
「現在鑑識が……」
「スマホのLINEのトーク履歴で、ここで待ち合わせをしているものがありました」
 タイミングよく鑑識が来て、門真と宇野辺の顔を見比べながら刑事に告げる。規制線の内側にいるので話しても大丈夫と判断したのだろう。
「相手は?」
 誰よりも早く食いついた宇野辺を鑑識はまじまじと見て、刑事の顔色を伺う。顎で先を促されたので言葉を続けた。
「柴原藍子という──」
「柴原藍子だと?」
 それまでニヤニヤと宇野辺を見ていた門真が、前のめりになる。ラグビー部員のような門真に凄まれた鑑識は、その名前の意味がわからずに目を白黒させていた。
「柴原藍子はこっちのヤマのガイシャだ。スマホを見せてもらっても?」
「これです」
 有無を言わせない門真に気おされて、鑑識がスマホを差し出す。門真と宇野辺は息ぴったりに画面を覗き込んだ。
 高齢者向けに大きく拡大されたLINEのトーク画面では藍子から聡子に向けてメッセージが送られていた。

『お母さん、この十年間頑固になってしまってごめんなさい』 10:26
『最後に謝りたくて、今岩立神社まで来てるの』 10:26
『一人で来てね、静かに話がしたいから』 10:27

 聡子からの返信は『わかりました』とシンプルに一言だけ十時四十分に送られていた。それが最後のやり取りだった。
「聡子さんが台所に行って、そのまま外出したのがちょうど十時半くらいでしたね」
 宇野辺がそういうも、門真は返事せず、黙ったままズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出し、トーク画面の写真を撮った。
「あっ困ります、そういうの」
 県警の刑事が小さな叫びをあげた。
「我々のヤマはつながってるみたいだ。いずれ合同捜査になる可能性もあるし、これくらいお願いしますよ」
 門真は悪びれた様子もなく鑑識に聡子のスマートフォンを返し、自身のスマートフォンをポケットに戻した。
「これからガイシャ宅を家宅捜査ですか? 俺の相棒がガイシャの孫とガイシャ宅にいるので、俺たちは先に帰ります。来る時に教えてください」
 そう行って、自身の携帯番号を名刺の裏に書きつけ刑事に渡す。
「旦那さんにも先に帰ったと言っておいてください。たぶん病院まで着いていくでしょうから、こちらのことは心配しなくて良いと」
 正は顔を涙で濡らして、石畳に倒れている聡子に縋ろうとして、警官と救急隊員に止められていた。
「承知しました」
 刑事は敬礼を返し、階段を降りる門真と宇野辺の背中を見送ってから、独り言を漏らした。
「相棒がガイシャ宅におるなら、隣にいた若いんは誰やったんや」 

   7

 神社から聡子の家までは、集落の真ん中を突っ切ればそれほどかからない。それなのに、門真はレンタカーのアクセルをベタ踏みで、静かな集落にエンジン音を響かせていた。
「なんでそんなに急いで帰ってるんですか」
 助手席に座る宇野辺が問いかける。
「聡子をったとなると、犯人は夢愛も狙ってくる可能性が高い。そのために沢良宜を一緒にいさせているんだが……」
 静かに答える門真に対して、宇野辺が軽く鼻で笑った。
「なんだ、なんにもわかってないんですね」
「あ? なんだとはなんだ。何か間違ってることを言ったか」
「いえ、すみません。それで、犯人の目星は?」
「さっきまでは半信半疑だったが、聡子の件で確信した。こっちに来てるとなると、やっぱり昨日の参列者の誰かだ」
「藍子の携帯を持っているのが証拠になりますかね?」
「問題はそこなんだよな、聡子までが目的であればどっかで捨てちまってるかもしれねえ。だが、同じ手口で夢愛を呼び出すつもりなら持ってる可能性もある」
「捨てられていないといいですが」
「あと俺が気になってるのは、怨恨で親や子にまで危害が及ぶとなると、普通は本当に恨んでて殺したいやつを最後に殺す。そうだろ、そのほうがそいつにダメージを負わせることができる」
「はあ……そういうもんですか? 逆に、親とか子どもを先に殺してから殺すと、殺したいほど恨んでる人に最後に救いを与えるような気もしますが」
「なんだそれ?」
「だって、親とか子どもとかが自分のせいで殺されたとなると、早く殺してくれって思いません?」
 門真はわかったようなわからないような顔をして、黙り込む。
 聡子の家はもうすぐそこだった。
 車のエンジンを止めると、やけに静けさが際立った。
 広い駐車場に斜めに車を停めて荒々しくドアを閉めると、門真は玄関に走った。鍵のかかっていない玄関ドアを開けて、階下から二階に叫んだ。
「沢良宜!」
「はい!」
 既に現場から夢愛の保護を指示されていた沢良宜は、これまでと違って夢愛の部屋に入っていた。開け放したドアの向こうから、沢良宜が返答する。
 その間に門真は階段を駆け上がり、一番奥の部屋に向かう。開いたドアから中は丸見えで、敷居の手前から古い勉強机の椅子に座る夢愛を見て、門真はようやくため込んでいた息を吐き出した。
「なにかあったんですか?」
 夢愛がどばばた騒ぎに目を見開いて尋ねる。門真は天井に視線を移し、目玉をぐるりと回転させる。
「あぁ……いや……」
 喉元まででかかった言葉を飲み込んで、沢良宜の方を見た。沢良宜も紡ぐべき言葉が見つからずにいると、後ろから見ていた宇野辺が言った。
「おばあちゃんが、殺されました」
「おい、死因はまだわかっていない。事故の可能性だってある」
 慌てて門真が言ったが、その言葉で聡子の死を確定させた。
 夢愛は言葉を失って、三人の大人を順番に見る。宇野辺だけが合わせた目を逸らさずに、じっと夢愛を見ていた。
 夢愛はゆっくりと止めていた息を吐き出して、目を瞬かせる。夢愛が言葉を探し当てる前に、宇野辺が続けた。
「おばあちゃん、神社の階段から落ちて」
「なんで、神社に……」
「そうなんです、それがよくわからなくて」
 門真が宇野辺を見るが、宇野辺は澄ました顔で続ける。
「本当に、聡子さんなんで神社なんかに行ったんでしょうかね……」
「ママもパパもいなくなったのに、おばあちゃんまでいなくなったら私……」
 俯いて、視線と一緒に腰を下ろしてしゃがみ込んだ夢愛を、沢良宜が慌てて抱き抱える。夢愛がかすれる声ですみません、と呟いた。
「少し、休みますか? 門真さんと宇野辺さんには降りていただいて」
「そう、します……あっ、そういえば正さんはどこに?」
「聡子さんに付き添って病院に行きました」
 夢愛が座りこんだまま話を続けたので、宇野辺はその場を離れられずにじっとドアのそばで立ったまま、答える。門真も身じろぎ一つせず立っていた。
 夢愛は、何か言いたげに答えた宇野辺ではなく門真の顔を見上げ、眉尻を下げて今にも泣きそうな顔で沢良宜に視線を移す。それから、また門真を見上げて、何度か口を小さく開けたり閉じたりする。
 門真が思わず眉間に皺を寄せて、どうしましたかと尋ねた。
「刑事さんは……、誰が犯人だと思ってるんですか」
「まだ、なにもわかってないので」
「そう、ですよね。正さんも、容疑者なんでしょうか? 血は繋がってないけど、今の私には……」
「……可能性がある人という意味では誰しもが容疑者なので、現時点で正さんが特別容疑者だというわけではありません」
 一拍置いて、落ち着いた声でそう言った門真を見て、沢良宜は静かに頷いた。
 夢愛の話がそこで途切れたので、門真と宇野辺が下に降りようと身体を動かしたところで、派手なデフォルトの着信音が大音量で鳴った。門真がズボンのポケットからスマホを取り出し、表示されている番号に頷いて耳に当てた。
「はい、門真です。……そうですか……はい、わかりました。……ほぅ……ということは……そうですよね……ええ、わかりました。指紋は?……そうですか、わかりました。……はい、失礼します」
 電話を切ると、沢良宜に目配せをしてから、何事もなかったように夢愛に言った。
「それでは、我々は下にいるので。何かあれば沢良宜に言ってください」
「今の電話は?」
「失礼、仕事の電話でした」
 会話に入れていない宇野辺が踵を返して先に階段を降り始めたので、門真が後を追った。家主がいない家の台所に入るのはためらわれて、宇野辺と門真は仏間で、座卓をはさんで座る。
「先ほどの電話は、県警からですか?」
 宇野辺が眉間に皺を寄せて天井を見上げ、門真に問いかけた。眼鏡を外して眉間を左手で揉みほぐし、シャツの裾で強引にレンズを拭う。
「そうだ。病院で聡子さんの死亡が確認された。それから、藍子さんのスマホが駐車場に停めてあった聡子さんの車の後部座席から見つかった」
 門真は答えながら、自身の言葉を反芻してメモに書きつける。
「後部座席」
「おう。藍子のスマホを放棄したっつうことは、夢愛さんに危害が及ぶ可能性は低いかもしれねえな……」
 曇りが取れた眼鏡をかけなおし、宇野辺は門真の目をじっと見る。メモから顔を上げた門真は宇野辺に見つめられていることに気づき、大げさに肩を揺らして驚く。
「なんだ?」
「刑事さんは、犯人の目星はついているんですか?」
「捜査機密だし、そこまでは……」
「課長にバレなきゃいいんじゃなかったんですか」
 口の端だけでにやりと笑った宇野辺に午前中の自身の発言をそっくりそのまま返されて、門真は頬を引きつらせた。
「そのときは、そうだったな。本部じゃなくてこんな末端にいる我々の機密なんて。ただ、状況が変わった。明日にでも犯人は捕まる」
 スマホの画面とメモ帳を見比べながら門真は言う。それから、メモを閉じてズボンのポケットに入れながら、独り言のように呟いた。
「仕事に私情をはさむわけじゃないが、近しい親族全員いなくなって、あの子はどうなるんだろうな……」
 溜息をついて、刈り上げた側頭部をぽりぽりとかく。
「僕が一番近い親族だと思うので、また近況は連絡しますね」
 宇野辺のコメントには返事をせずに立ち上がり、部屋の隅にかけてあったスーツの内ポケットをまさぐる。名刺入れを探し当てると、一枚取り出して宇野辺に渡した。

 翌朝早く、蝉が鳴き出した頃にまた来訪者があった。
 逮捕令状を携え、警視庁と腕章をした強面の刑事は、門真に迎え入れられると、畑仕事から戻ったばかりで台所に座っていた正を取り押さえた。
 状況が呑み込めず呆然としたままパトカーに乗せられる正を、夢愛が二階の部屋から見下ろしていた。
 熱気が入るのを厭わず、窓を開け放している。
 警官がひしめく前庭に、蝉の声に交じって小さな引き笑いが響いた。

   8

 つがいになれずに鳴き続けていた蝉が寿命を迎えて、静かになった山は少しずつ色を変え始めている。
 黄緑色に変わった田んぼの間を、ブレザーの制服を着た夢愛が一人で歩いていた。しっかりと首元のボタンを閉めて、スカート丈は膝がたまに見える程度。綺麗にセットされたポニーテールが歩調に合わせて左右に揺れていた。
 夏の始まりに来た家に戻ってきたが、今は生気がない。呼びかけに答える人がいないのを知っているので、無言で鞄から取り出した鍵を差し込んだ。ゆっくりと回すと、鍵についた鈴がちりりと揺れて、錠が開く。
 家に踏み入れると、残暑をそのまま蓄えた空気が塊となって身体にまとわりついた。家はわずか一ヶ月で埃っぽく澱んでいて、雨戸が閉じられているので暗い。
 まずは、といなれた仏間に向かい、壁際のスイッチを押す。奥で何かが揺れた。
 かちりというスイッチの音から一拍遅れて明るくなった部屋に、人が立っていた。
 ぎゃっと声を上げて尻もちをついた夢愛に、見知ったシルエットが近づいてきた。
 先月の喪服とは違い、Tシャツにジーンズを履いたラフな出で立ちの宇野辺だった。相変わらずの銀縁眼鏡と釣り合わないアンバランスな格好で手を差し伸べた。
「お久しぶりです。驚かせてしまってすみません」
「びっくりしたあ、なんでいるんですか?」
 宇野辺の手を借りて立ち上がった夢愛は警戒心を隠そうとせず、半歩後ずさって敷居を踏む。
 家のどこかからみしっと音が鳴った。
 宇野辺は、ひきつった夢愛の顔を真顔で見返して勧める。
「まあ、立ち話もなんですから、お座りください」
 夢愛は軽く下唇を噛みながら、言われるままに緩慢な動きで仏間に入る。プリーツスカートに皺が寄るのを気にせず、畳に正座した。
 雨戸は閉じられたままで暗い。
 宇野辺が夢愛と向かい合って座り、話し始めた。
「そろそろ来る頃だと思ってたんですよね。来て早々申し訳ないのですが、単刀直入にいきましょうか」
 唇を噛んで黙っていた夢愛は、首をかしげて宇野辺の顔を見る。宇野辺は無表情で続けた。
「おばあちゃんを殺したのはあなたですね? そしてたぶん藍ちゃんと優輝さんも」
 まるで昨日の夕飯のことでも話すような気軽さで、宇野辺は夢愛に告げる。
 夢愛は口を尖らせてさっと俯いた。
「なんであんなことをしたんですか?」
 夢愛は何も言わない。宇野辺は俯いた夢愛の額をじっと見つめたまま、言葉を続ける。
 夢愛の額にはじんわりと汗がにじんでいた。
「警察に言ったところで証拠もないし、あなたは少年法に守られて正当な裁きを受けないはずです。だから、通報したり自首を勧めるつもりはなくて、本当にシンプルに、理由が知りたいんです」
「なんで……私がここに来るってわかったんですか?」
 俯いたまま問いかけた夢愛の質問は無視された。宇野辺は口を真一文字に結んで、夢愛の額を凝視し続ける。
 どれくらいの時間が経ったかわからない。締め切った部屋に座る二人の背中はじっと汗ばんでいた。
 夢愛が顔を上げて、二人の視線が交わる。
 有無を言わせぬ宇野辺の目に負けて、夢愛が口を開いた。
「本当に、警察に言わないんですか? 信じられるわけがないんだけど」
 宇野辺の目をまっすぐ見据えて尋ねる。
 負けを認めるわけではなく、あくまで種明かしをしてあげようとしているのだという主張だった。
 夢愛の頬は小さく痙攣しているのを見つけて、無表情だった宇野辺の口の端が少し持ち上がった。
「それもそうですね、じゃあこうしましょう。僕があなたの犯行の流れを説明します。合っていたら理由を教えてください。そこまでわかっているのにまだ警察に言ってないことが、これからも言わないことの何よりの証拠になるんじゃないですか」
 そう言うと宇野辺は、夢愛の承諾を待たないままに語り始めた。
「聡子さんの件から始めましょう。
 あのときおばあちゃんは、直前まで僕たちと話していましたが、お茶を取りに台所に行った後慌ててどこかへ出かけて行きました。
 台所で藍ちゃんのスマホからのメッセージを見たからです。
 藍ちゃんのスマホからメッセージを送ったあなたは、すぐに引きこもっている部屋の窓から脚立を使って庭に降りました。それから、おばあちゃんより先に車に乗り込みました。
 これくらいくらい田舎になると、誰も家に停めていた車に鍵なんてかけてないですからね。
 後部座席の足もと部分に潜りこんでそのまま気づかれずに神社にたどり着いたあなたは、車を降りたおばあちゃんを追いかけます。階段を上っているのを追い抜いて、上から押しました。これで完了。帰りは車に乗れないので歩いて帰ってきて、人目を盗んで脚立を上って部屋に戻ります。
 神社からは歩いて三十分ほどでしょう。元々あなたの部屋のドアを勝手に開けるようなことは誰もできなかったですし、なにも問題はなかったはずです」
 夢愛は顔を上げて、無意識に食いしばっていた顎の力を抜こうとする。全身に入っていた力を抜こうとして意識すればするほど、指先まで硬くなった。
 宇野辺と目が合う。レンズ越しにすべてを見透かした目で、静かに夢愛を見ていた。
 一瞬目を逸らして、なんとかこの目から逃れられないかと考えるが、試みは長く続かない。何度試しても、上手くいかなかった。
 夢愛はため息をついて諦念を示し、口を開いた。
「……そこまでわかってるなら、もういいかな。どうせママとパパのことも知ってるんでしょ。でも、なんで私が犯人だってわかったの?」
「捜査機密だった藍ちゃんの顔のことを、会ったときによく喋ってくれたので」
 目を逸らさずに宇野辺が言った。夢愛は長く息を吐き深呼吸をしてから、ゆっくりと話し始めた。
「そっかぁ……。知ってると思うけど、ママって綺麗だったじゃん? 小学生くらいまではそれがすごく自慢だったの。私も成長して、ママみたいになれるかなって思ってた。
 それなのに、私が高校に入学した頃くらいからちょっとずつ、老いというか、顔が崩れていっている感じで、私はその時にはちょっとずつママに似た顔に成長していたから、嫌だなあって。
 それがね、毎日どんどんどんどん老けていくの。
 私の顔がそうなるのは耐えられなくて。
 宇野辺さんが言ったとおり、十七歳の今が罪が重くならないラストチャンスだと思って、顔をつぶしてあげた。これで、もうママは老けることはないし、私もそんなママを見ないで済む。蝉みたいに、一番いいときに絶叫しながら死んでいくのが理想でしょ」
 でしょ? と同意を求められた宇野辺は、何も声を出さない。まっすぐに口を閉じて、喉で息をしていた。夢愛は、宇野辺の様子をちらりと見て、話を続ける。
「パパは、ママがいなくなったら生きていけないから殺してあげた。
 おばあちゃんは最初は殺すつもりなんてなかったんだけど、私の面影が見えちゃって。ママと同じようにしてあげた。おばあちゃんが似てるなんてそのときまで思ったことなかったけど、あるときの一瞬だけ、とっても私に似てた。それで」
 宇野辺の顔が赤みを帯びる一方で、揃えた両手には力が入って爪が白くなる。喉の奥から振り絞って、かすれかけの声を出した。
「そ、んなことで……あなたは……」
「わからないかもしれないけど、自分の顔が自分の知らないところで変わっていくのはとてもストレスがかかるものなのよ」
「もういい……もういいよ。君の気持ちが僕にわかるとは思えないし、わかりたくもない」
 咳払いをしてからぴしゃりと言い放ち、座卓の下に置いてあったスマートフォンを夢愛に見えるように持ち上げる。
「ということらしいので、門真さん」
 夢愛が絶句して目を見開く。スマートフォンから、聞き慣れたかすれ声が響いた。
「なんだかさっぱりわからんがすぐ行く!」
 門真の声に続いて、通話終了を知らせる機械音が鳴った。夢愛が慌てて立ち上がる。
「警察には言わないって……!」
「僕は、言ってません。あなたが自分で話したんです。逃げようとしても無駄ですよ」
 玄関に向かおうとした夢愛に、宇野辺が後ろから言う。その瞬間、玄関の扉が開いた。
「柴原夢愛、殺人の容疑で逮捕する!」
 玄関から門真を先頭に警察の集団がなだれ込む。夢愛は逃げようと背後を見たが、宇野辺が薄く口角を上げて立っていた。
「ね?」
 固まった夢愛を二、三名の警察官が取り囲み、あっけなく手錠をかけられる。連行されようとしている夢愛に、宇野辺が言う。
「少年法の適用は確かにありますが、凶悪犯罪に関して全くのお咎めなしというわけにはいきません。少年であっても死刑となった判例もありますし。あなたが捕まらなければ、えん罪で正さんが裁かれるところでした」
「あんなクソジジィ、殺す価値もなくて、私の身代わりくらいにしかならなかった」
「藍ちゃんに似たのは見た目だけだったんですね……」
 宇野辺が、残念そうにつぶやく。
 吐き捨てるように言った夢愛は前後左右を刑事に固められて、駐車場に止められたパトカーに詰め込まれた。夢愛はスモークガラス越しに宇野辺を睨んだが、その視線は届かなかった。
 夢愛のいなくなった家で、宇野辺は一人で雨戸を開けて回る。黄金色になった稲が揺れる音が、遠くからさわさわと漂ってきた。
 澱んだ空気が新鮮な秋の空気と入れ替わっていく。
 ジジッと最後の力を振り絞ってどこからともなく現れた蝉が、縁側に落ちた。

 了

(37,574字)

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