何かを「好き」と言う、気まずさについて
何かを好きと言う、気まずさについて
「何が好きなんですか?」
美容室、企業の面接、たまたま相席した人など、あらゆる場で、あらゆる人から聞かれる質問であるが、私はいつも何を答えるべきなのか言い淀んでしまう。
私は、「好き」と言うことに大きなためらいを感じる。「好き」と語ることは、単に自分の好きなものを語るという行為だけで終わらない。自分が意図しないような、多くの余計なメッセージを含んでしまう。
「好き」を語ることは、社会的な行為で、自己表現のための行為だ。
今の時代、「好き」なものを語ることが是とされている。三宅香帆の『「好き」を言語化する技術』なんて本が出るぐらい、みんな「好き」なものについて語りたいと思っている。
「何が嫌いかより何が好きかで自分を語れよ!」
ネットミーム化しているセリフではあるけれど、ここにも「好き」なものを語ることを良しとする思想が見えてくる。
「好きなことで生きていく」
YoutubeのCMでのキャッチコピーだが、ここにも「好き」=良いことの図式が現れている。
現代では、「好き」を語らせようとする異常な磁場が働いている。
そして、「好き」を語ることの困難さは、果たして言語化だけの問題なのだろうか。「好き」を語るという構造自体に、困難さが込められているのではないだろうか。
今回は、「好き」を語ることについて考えていきたい。
好きなもの=アイデンティティ
好きなものを語ることは、自分がどういう人間なのか伝えることと同じメッセージを含む。
私は大学に入った直後、「何が好きなの?」「何が趣味なの?」と聞かれることがかなり増えた。その時アニメ、小説、Vtuberを好きだとは言わないようにしようと、心で思っていた。
自分はオタク気質で、多くの2次元コンテンツに触れているけれど、そういった人間に思われたくはなかった。簡単に言えば、かっこつけたかったのだ。
その代替として語るようになったのが音楽だったり、楽器の経験だった。私は高校時代、アコースティックギターを親に買ってもらい、手遊び程度に触れていたし、高校時代、椎名林檎にハマっていたりした。
それはさておき、アニメ好きの人間とギター好きの人間、どっちのほうが格好良く見えるだろうか。もちろん後者だ。
そこには、「好き」なものによって、人格やアイデンティティ、センスまで推し量られてしまうことが背景にある。
「好き」なものを語ることは、自己表現に近いのだ。何を言うかによって、〇〇好きな人間なのねと認識される。
ブルデューの文化資本論では、ハイカルチャーを好むのは高学歴、高収入層、ローカルチャーを好むのは低学歴、低収入である傾向があるとされる。
ブルデューを引用するまでもなく、あれ好きな人ってこういう人だよねというステレオタイプはあるだろう。私は、ヒップホップのフリースタイル(ラップバトル)が好きだったのだが、治安が悪い界隈だったので、現地参戦もしなかったし、あまり好んで「好き」だとは語らなかった。
#〇〇好きな人と繋がりたい
Xで、「#〇〇好きな人と繋がりたい」というハッシュタグをよく見ることがある。私は、長らくXをやっているのだけれど、そのノリについていけなかった。
好きは単に一人の感情を表すわけではない。それが好きな人達のコミュニティを背景に感じさせる。
現代において、好きを表明するのは自分と似たような好きを持つ人達と繋がるためであることが多い。
だが、私にとって何かを好きであるという行為は、極めて個人的な行為だった。
もちろん誰かと共有する楽しみもあるのだろうけれど、私の「好き」は公共性がなく、私的なものであった。
誰かにたまに布教することはあれど、基本的に自分の部屋で一人で静かに楽しむことが「好き」であった。
けれど、そういった人間に対しても「好き」を表明することが求められる。その「好き」に後ろめたさがあるかどうかに関わらず、「好き」が社会的意味を持ち始める。
「好き」と言うことで、捨てられてしまう解像度
特に初対面の人に求められる「好き」の内容は、細分化された具体ではなく、大まかなカテゴリーだ。
例えばあなたが、米津玄師の死神という楽曲に特別ハマっているとしよう。だが、米津玄師については他の楽曲についての思い入れは特になく、アルバムもあまり聴かない。
そうした時に「好きなアーティスト何ですか?」と聞かれたとき、きっと「米津玄師が好き」と答えるだろう。
そういとき、嘘をついているような不快感を感じてしまう。
仮に「米津玄師の死神が好きです」と答えたとしよう。相手には妙に具体的だなと思われるだろうし、好きなアーティストという質問から外れた答えになってしまう。
「何が好きなんですか?」という質問に求められるのは、具体ではなく大まかなカテゴリーだ。アニメ、ドラマ、映画、音楽、キャンプ、カラオケ、美術。もっと詳しく言うとしても、SFアニメ、ファンタジーアニメ、邦画、洋画、JPOP、邦ロック、インディーズ…。常に大きな括りを求められる。
その質問に対して、何かカテゴリーを答えたとしよう。ではあなたは、そのカテゴリーが「好き」だと言えるほどの解像度を、愛情を、知識を持っているだろうか。
映画好きならショーシャンクの空に、パルプフィクションぐらいは見とかないと。
〇〇好きなら、〇〇を知っておかないとモグリだと言われる。
私はその目線を気にして、「好き」を語りたくない。
さらに条件付きの「好き」もあるだろう。この部分は好きだけど、違う部分は好きではない。この人は普段の言論は好きではないが、書いているものは好きという小説家がいたりするだろう。
それを無条件に「好き」と言ってしまうことに、嘘をついているような気分になる。
「好き」のプロトタイプ理論
私たちの「好き」は、大抵の場合具体に向けられる。自分は池井戸潤が好きなのだが、彼の半沢直樹シリーズは読まずに、「空飛ぶタイヤ」、「金融探偵」「花咲舞が黙ってないシリーズ」しか読んでいない。
だが、池井戸潤が好きと言うと、「半沢直樹」にフォーカスが向く。
認知言語学で、プロトタイプ理論というものがある。
例えば鳥というカテゴリーを想像してみたとき、あなたが思い描くのはカラスだったり、スズメなどだろう。
だが、ペンギンもダチョウも鳥の仲間だ。鳥というカテゴリーを想像したとき、ペンギンやダチョウを思い描く人は本当にまれだ。
プロトタイプ理論は、私たちがカテゴリーを考える時に、例えば鳥なら羽があって、空を飛んで、羽毛があってなどの集合的な要素の集まりによって考えるのではなく、典型的な事例、身の回りにある例(鳥ならカラス)などとの類似度によってカテゴリーを認識している。
「好き」についてもそうだ。一番有名な作品を元にカテゴリーのイメージが作り出される。
だが、必ずしも私たちの「好き」がそのプロトタイプによって作られたイメージと合致しないことがある。私たちが鳥を好きと言うとき、ペンギン、シマエナガが好きなだけなのかもしれない。
「好き」と言うとき、相手に違うように受け止められそうだなあと思ってしまう。
推し文化という全身全霊の「好き」、公共的な「好き」
推し文化で求められるのは全身全霊の「好き」で、推し文化圏にいる人たちは推しを自分のアイデンティティにする。
私の「好き」は集中的な好きではなく、拡散的な好きだった。さまざまな分野に目移りしながら、色んなコンテンツを摂取していく。
特定のコンテンツに集中することない人にとって、推し文化に代表される全身全霊の「好き」は距離感を感じる。
推し文化圏の外にいる自分にとって、推し文化は異常なまでに「好き」をアイデンティティとして誇示する行為のように思えてしまう。
推しという文化は、個人的に思えて、きわめて社会的だ。何が推しであるのか宣言することから、推し文化が始まる。
何が好きなのかというアイデンティティを手っ取り早く作ってしまう。それによって、彼らは全身全霊の好きを体現しているように思える。
推し文化は、Youtubeの「好きなことで生きていく」の延長線上にある概念なのかもしれない。「好き」を職業にできるほど、「好き」を社会に開かれたものに変えていくことが、「好きなことで生きていく」のだろう。
推し文化の人たちは、好きをアイデンティティに加工するのがうまいように感じる。
まとめ
「好き」と言ってしまうことで、解像度が低下し、単に「好き」という感情だけではない社会性が込められてしまう。
たしかに、「好き」なものの語りを加工すること、きれいに整えれば、「何が好きなんですか」という質問に問題なく答えることができるようになるだろう。
でも、心のどこかで欺瞞を感じる。
「好き」という感情はなるべくそのままで言語化、表現化せず、心の奥にひっそりとしまい込む方が幸せだと、私は感じる。
言語化というのは、余計な情報を切り捨てることである。わざわざ自分の「好き」という大切な感情を、余計な情報を切り捨てるプロセスに放り込む必要はない。
その「好き」という感情を言葉にしたいのなら、ゆっくりと腰を据えて、ピッタリとハマる言葉を探していったほうがいい。
社会に要請された紋切り型の「好き」の語りに適合させる必要はない。
