第1回 君、音、朝方、etc 【私的小説】
彼女は笑わなかった。朝方、太陽が顔を見せ始めた頃に出会った。
じっとこちらを見ているようで、何も見ていないかのように近くで佇む。言葉を掛けようとも、その術を僕は知らなかった。彼女は何も必要としないようだった。立ち尽くす、不適切な二人。接点も関係もないのに同じ空間にいる。他人が乗り合わせたエレベーターにしろ何らかの空気が流れるだろう。沈黙なり気まずさなり、仄かな関心なり。
太陽が昇りつつあった。川を眺めた。欄干に両腕をよしかかり、あくまで規則的にゆっくりと呼吸しようと心がけた。「何も変わっちゃいない、大丈夫だ」と胸の裡で呟く。息を吐き尽くす。「大丈夫」という言葉は常日頃、僕のマントラになっていた。
言葉を必死に繰り返す、この頭は大丈夫なのだろうか。
欄干から腕を離す。動作を既に予兆したかのように、彼女は振り返っていた。流れた時間は一瞬だったのかもしれない。背中は小さかった。怯みながら一瞬、目にした表情は既に忘れられた。しかし、彼女の纏う空気は、再び出会った際に瞬時に思い起こされるだろう。確信に近い予感があった。家に辿り着き、カーテンを厳重に閉めて眠りにつく。
眠っている間は、願うことならば自分を忘れたいと思った。
足を踏み外した瞬間、真っ逆さまに落ちていた。自分でも気づかぬほどに堕落した。幼少時から胸に刻み込んだ、「責任と義務」という言葉は意味を持たなかった。
もし、背中に文字が記されていたなら、必死に消そうと躍起になっていただろう。もしくは、誰にも背中を見せないか。僕が選んだのは後者だった。姿を誰にも見せようとしなかった。
誰にも許されたように、人生が免責されたように。
子どもの頃の僕は、現在を見てこう言うだろう。
「あなたは人間をやめたのですか。立派な人間になってとは言わないから、今の僕よりひどい人間にはならないでください。大人に成長してください」
あれからどれだけの時間が経っただろう。全ては失われたと痛感した。僕だけの感慨だった。長い時間、自己慰安に身を浸すことが唯一できることだった。喪失と回顧が生きることを意味した。
息を吐く。存在は、今も続いている。
その後、彼女が背中に触れた時、僕は眠っていたわけではなかった。川のせせらぎが聞こえる。何かを感じたわけだから、生きていたと言えるだろう。全てが頭の中で起きたことであろうと、彼女の体は幻のように僕が作り出したわけではなかった。
手の平は既に、そこになかった。地面が映る視界の隅で、その人の足元を見た。鋭い視線を感じた。上を、前を見据えることが出来なかった。それがルールのように感じられた。大丈夫、と僕は言う。声が空気を震わせることはない。間違いなく遠くへ向けた言葉だった。振り返り顔を上げる。目が合った。数字をカウントしている間、全ての音は消失した。
何故かこれで十分だと僕は歩き出した。規定のように日常と呼ばれる空間に戻る。曇り空だった。
「生きてください」
言葉の響きは直接的だった。背中越しに伝わるよく通った声だ。想像とは違っていた。もっとか細い声を想定していた。消え行く声が微かに届き、立ち止まる。誰もが死ぬ、死なない奴は生きていない。脳裏で声が流れた。
「死なない、」
唇で声をなぞった。
「死なない奴は生きていないから」
それから、変わらない現実に飛び込むように歩いた。とても悲しい思いがした。拭い去ることはできなかった。放った言葉は、自分自身の世界観に張り付いていた。
振り向き、僕は言う。
「お前は死ぬだろう。俺は悲しみやしない。喜びもしない」
どこにも達しない距離だった。死は当然の帰結だという誰かの言葉を頭の中で反芻した。いつからこんなに頭が悪くなったのだろうかと自戒した。
だから、何も言えなかった。
彼女の姿はなかった。小学生が連れ立って学校の方へ歩いていった。遊ぶように進んでいた。どれだけ長く橋の上で立っていたかをその日初めて知った。季節を知らなかったけど、決して暑い日ではなかった。
もう終わりが近づいていると思った。
