見出し画像

【一部始終】最終話 ~終~

 目を覚ますと頭が酷く痛んだ。ゆっくりと身体を起こす。唸り声が自然と漏れた。
 どうやら僕は、テーブルに突っ伏して寝てしまったらしい。
 痛む頭で記憶を辿る。
 僕は占い師と対面していたような気がする。気を失う前に「しゃー」という猫の威嚇の声を聞いたような気もする。
 立ち上がり、家の中を探してみた。
 占い師はどこにもいないし、黒猫の姿もどこにも見当たらない。
 今度こそ夢だったのだ、と思った。弱い僕の心が見せた幻影。占い師はここにこなかったのだと。
 カーテンの隙間から、オレンジ色の光が差し込んでいることに気付いた。
 腕時計を探そうとして諦め、そこにあったスマートフォンの電源を入れた。
 十八時五分。そうか、夕方か、と思った。僕はすっかり時間の感覚を失っている。
 ホーム画面を開く。メッセージアプリのアイコンが、大量に未読メッセージが溜まっていることを知らせてきた。
 未読メッセージの内訳を確認するかどうかためらっていると、手の中のスマートフォンが急に振動した。
 金井さんからの着信だった。慌てた僕の手が通話開始のアイコンに触れてしまい、通話が始まった。
「もしもし! もしもし?」
 明らかに焦っているような声が、耳から離れていても聞こえた。
 スマートフォンを耳に当て、「もしもし」と答えた。
 金井さんが息を呑むのが、電話越しに聞こえた。
「野々村先生……! 良かった! 生きてますか?」
 その声を聞いただけで、金井さんが心底心配してくれていたことが分かった。僕は「ええ」だか「ああ」だか自分でも聞き取れない曖昧な返事をした。
「いや、本当に、全然連絡がつかないからどうしようと思いました……! 変な話ですけど、もし亡くなってたりしたらどうしようなんて余計な想像したりして……。今電話が繋がらなかったら、これからお伺いしようと思ってたんですよ!」
 僕は自殺を疑われていたのだと気付き、その事実が胸を突き刺した。
「死ぬほどの度胸は、ありませんでしたよ……」
 吐き出すように、言葉を返す。続く言葉は浮かんでこなかった。
「野々村先生、このたびは、本当に……」
 言葉が途切れた。数秒経ってから、金井さんは「あの」と話題を切り替えた。
「野々村先生に伝言を預かってます」
「僕に、伝言ですか……?」
「はい。五十嵐先生からです」
 心臓が大きく跳ねた。なぜ、どうして、と頭の中が急にパニックになる。
 何を言われるのだろうと身構えた。
 五十嵐先生はきっと、僕に賞など与えるべきではなかったと後悔しているに違いない。
 僕のみならず、丸谷新人賞の名も、ひいては審査員長だった五十嵐先生の名も汚したと、怒鳴られるのだろうか。僕の心臓はいつもの音の出し方を忘れてしまったかのように、狭いはずの僕の胸の中で、ひたすら暴れまわっている。
「実は、坂本直さんは、五十嵐先生のお嬢さんなんです」
「え?」
「といっても、五十嵐先生は随分前に離婚されていますので、ほとんど一緒に暮らしたことはないそうですが」
「は、はい」
 僕はもう、怒られる責められるとしか思っていないから、ずっと身構えていた。どうせ来るのなら早い方がと思う気持ちと、出来れば怒られたくないという気持ちがせめぎ合う。
「五十嵐先生はそういう事情もあって、野々村先生と坂本さんの件を気にしておられました。作品は両方ともお読みになったそうですよ」
 五十嵐先生が読んでくれた、という喜びは、こんなときでも僕の胸を一瞬軽くした。しかしすぐ、どんよりとした元の僕の思考に戻る。
 血のつながった娘であるのなら、きっと尚更、五十嵐先生は僕に怒りを向けるはずだと思った。うちの娘の作品を盗みやがって、と言われ、僕の作品の不出来をなじられるのだろう。
「私たちに、会社の対応や、野々村先生の様子なども尋ねられました。その上で、野々村先生に伝えて欲しいと言われた言葉があります。いいですか?」
 ぎゅっと目をつぶり、歯を食いしばった。
 続きはもちろん聞きたくない。怖い。
 しかし、聞かなければそれはそれで一生後悔する。どんな辛辣な言葉でも、五十嵐先生から僕にと言うのであれば、受け止めるべきだ。
 僕は自分を奮い立たせ「はい」という二文字を絞り出した。
 ところが、電話の向こうから聞こえてきたのは、僕の予想とは全く違う言葉だった。
「次回作を、楽しみにしているよ、と」
 僕は目を開けた。言われた言葉が理解出来ず、頭の中でもう一度反芻した。
「また私を嫉妬させるような作品を書いて欲しい、とのことです」
 ぶわっと、鳥肌が立った。
 金井さんの発した言葉が、僕の身体中を駆け巡って沁み込んで行く。縮こまった身体と心が、少しずつほぐれていく。じわじわと、指の先まで、言葉が沁みていく。
 身体が勝手に感動している一方で、僕の頭はまだ不安を訴えていた。
 五十嵐先生は、僕に怒っていないのだろうか。娘の作品を盗作した最低な作家として糾弾されるとばかり思っていた。だから、五十嵐先生の優しさが、信じられなかった。
「五十嵐先生は、『注目を浴びるいい機会だった』とおっしゃっていました。『どっちが先に書いたかは分からないし、今更それをはっきりさせることにさほど意味があるとは思わない。痛み分けだと思って、前に進むしかない』とも。『名前が売れたことはチャンスだ。萎縮せずどんどん作品を書くべきだ』と続けられ、『そうして文学界を盛り上げてくれれば、私の本の売り上げも少しは上がるかもしれない』と、これは冗談だと思いますけど。笑っておられましたから」
 金井さんは、明るい声色で続けた。
「『こんなことで、若い芽が摘まれてしまうのはもったいない。両方とも、私の大事な好敵手ライバルなのだから』と。そして、さきほどの伝言を野々村先生にお伝えするように頼まれたのです」
 もう僕は泣いていた。あとからあとから流れてくる涙は、僕の顎をつたって、ぼたぼたと雫になって、僕の膝の上に落ちた。
「以上です。野々村先生、あの、私が余計なことを言える立場ではありませんが」
 金井さんは一度言葉を切った。そして続ける。
「頑張ってくださいね。それでは失礼します」
 電話が切れた。スマートフォンを放り出し、両手で涙をぬぐう。
 涙で濡れた右手の甲が、ひどく痛むことに気付いた。見て見ると、そこに、何かで切り裂いたような赤い傷が出来ていた。
 黒猫の姿が思い浮かぶ。
 背中の毛を逆立てて、僕の顔にとびかかって来た黒猫。その攻撃を防ぐため、僕は手の甲で顔をかばった。この傷は、そのときに出来たものではなかったか。
「なおーん」と猫の声が聞こえた気がしたが、当然のように黒猫はいない。
 突然、すとん、と何かが降りた気がした。
 そして、手の甲の痛みも、美華子が荒らした室内も、泣きじゃくる自分の姿も、ひび割れたガラスケースの中で倒れたままののトロフィーの輝きも、すべてが可笑しく思え、笑えてきた。
 僕は正気を失っているのかもしれない。
 何が真実で、何が夢だったのかの境界線さえ分からない。どこから正気を失っていたのかすらも。
 あの占い師は本当に、僕の夢を叶えてくれた。それは確かだ。
 これからも僕は、五十嵐先生からもらったトロフィーと、「次回作を待っているよ」という言葉を頼りに、小説を書き続けるのだろう。
 そして、書くたびに、このやるせない思いと、胸を刺すような悲しみ痛みを思い出すのだろう。
 それでも、書く。
 だって僕には、それしかないから。
 僕は笑った。
 何が面白いのか、どう面白いのかは分からないがとにかく嗤った。
 狂った悪魔の様な笑い声を聞きながら、泣きながら、笑い続けた。

いいなと思ったら応援しよう!