【一部始終】第十話 ~浮~
翌日、昼近くなってようやく、新しいスマートフォンを購入するためショップへ向かった。
本当は執筆を中断したくはなかったが、唯一の連絡手段であるスマートフォンを失うのはさすがに困る。徹夜明けの目に日差しが刺さる。思わず目を細め、俯いて歩いた。
鈍く痛む頭で店員の話を聞き、勧められるがまま新しい機種に機種変更の手続きを済ませた。ショップを出るころにはもう夕方になっていた。
家に帰ってデータの引継ぎをしたのだが、これに思いのほか苦戦した。
元の機種はもう手元になく、バックアップもとっていなかったので、復旧に時間がかかった。結果的に途中で諦めてベッドに横になった。
電話番号は変わっていないから一応連絡はつくはずだし、考えてみれば僕に急ぎで連絡をとりたい人はいないはずだ。開き直って横になり、目を閉じたら一瞬で意識を失った。自分で思っているよりも、疲れていたらしい。
目を覚ましたのは次の日の夕方だった。
丸一日寝ていたことになる。
流石に身体が痛む。伸びをして立ち上がった。充電していたスマートフォンを見て、データ移行が終わっていないことを思い出した。
うんざりしながら作業に戻った。頑張ったけれど、メッセージアプリのやりとりや、写真も最近のものは一部消えていた。
もう戻らない思い出があると思うと、寂しくなった。
失われたデータの中には、五十嵐先生との写真も含まれていた。写真をプリントしていなかったことを心の底から悔いた。
金井さんに頼めば、もしかしたら写真をもらえるかもしれない、と思ったが、上手い言い訳が見つからなかった。あのときの思い出を大事にしていないと思われるのも嫌だった。もしまたもらうにしても、機会をうかがう必要がある。
深いため息が自然と吐き出された。自分で選んだこととはいえ、辛いものは辛いし、悲しい。
一方、メッセージアプリにログインしたことで、昨日から受信出来ていなかったメッセージが一気に届いた。送信者は全て美華子だった。
『ねえ今ちょっといい?』に始まり、返信がなかったことが不安だったのか、時間を置いて『どうしたの?』、『何してるの?』、『もしかして何かあったの?』と僕の身を案じるメッセージが届いていた。最後のメッセージは数分前、『心配だから連絡して』。
返信を打とうとした瞬間、美華子から着信があった。
「大丈夫? 家にいるの?」
美華子の声は焦っていた。僕はよほど疲れていたらしく、美華子の声を聞き、「家にいます。大丈夫です」と答えると同時に、涙を流していた。
「あれ……?」
今、僕はどうして泣いているのだろう。自分でも分からず、黙り込んでしまった。数秒の間で、美華子は決心したらしく「今から行っていい?」と真剣な声を出した。
「いや、でもそんな。悪いし」
「このままじゃ私は心配で仕事も手に付かない」
美華子はきっぱりとそう言い切ると、「じゃあ今から支度する。住所だけ送っておいて」と言って電話を切った。
僕はスマートフォンに表示された時間を見た。夜の十一時だ。こんな時間に、美華子は僕の家に来てくれると言う。これまでここまで大事にされたことがあっただろうか。まどかと付き合っているときだって、この時間に家に来ようとまではしなかったはずだ。
美華子に、僕の家の住所を送り、部屋の片づけを始めた。
散らかったものを片付け、見られたくないものを洗面台の鏡の上の収納扉にまとめて隠した。掃除機をかける暇はなかった。美華子は本当に、すぐに家を出てきてくれたらしい。
「大丈夫? 具合悪くない?」
美華子は両手にビニール袋を下げてやってきた。その中にはゼリーやら栄養剤やらバナナやらが入っていた。どうやら僕が体調を崩したと思っていたらしい。
「あ、そういうわけじゃなくて」
僕は即座に否定し、「心配かけてすみません」と頭を下げた。
美華子は頬を膨らませ「もう。敬語はやめてって言ったのに」と僕をつつく。
「あ、ご、ごめん」
僕が謝ると、美華子はすぐに笑って「そんなに気を遣わないで」と言った。
その優しさが、今日はやけに胸にくる。僕はまたじんわり目頭を熱くしながら「中に入って」と美華子を促した。
とはいえ、僕の部屋はさほど広くない。
玄関から入ってすぐに一口コンロしかないキッチンがあり、その横に冷蔵庫が置かれていて、冷蔵庫の上に電子レンジが乗っている。反対側に浴室とトイレが並んでいて、そこを通り過ぎたら寝室兼居間として使っている部屋があるだけだ。
机と書棚、ベッドで既に狭いのだけれど、来客用の折り畳みテーブルを真ん中に広げたので余計に狭くなった。必然的に美華子との距離も近くなる。
「一人暮らしの男の子の部屋って感じだね」
美華子は「ふふ」と笑うと「ちゃんとご飯食べた?」と言って自然に冷蔵庫を開けた。そしてまた笑った。
「空っぽじゃない。お腹空いてない? 何か作ろうか?」
その言葉に反応したらしい僕の腹がぐう、と鳴った。そういえば、今日はまだなにも食べていない。
「いいお返事ね」
美華子は自分の持参したレジ袋の中からパックご飯を取り出し、開封してレンジで温めた。流しの下の収納から僕がほとんど使っていなかった小鍋を取り出し、これまた自分で買って来た卵と調味料、それから暖まったご飯を使って卵雑炊を作った。
「材料が全くないとは思わなかった。大したものは作れなかったけど」
美華子の作ってくれた卵雑炊を食べながら、僕は美華子に嘘を吐いた。
急にスマートフォンが故障し、すぐに交換に行ったけれどデータの引継ぎに時間がかかり、誰かに連絡することも出来なかった、という嘘だ。
占い師の存在だけを隠した小さな嘘だけれど、ここまで僕を心配してくれた美華子に隠し事をしていると思うと少し気が重かった。とはいえ、占い師のことは、美華子にも言えない。
『福岡シリーズ』は本来美華子のアイディアで生まれたものだ。その部分だけを隠して伝えたとしても、何かしらぼろが出るかも知れない。美華子が次作の話をしている部分を盗み見られたことを察するかもしれない。そうなったとき、美華子はきっと僕から離れてしまう。
それだけは避けたかった。今、僕のそばにいてくれるのは美華子しかいない。失いたくない、と思った。
「体調の心配もしたけど」
美華子は僕が食事を終えると、俯きながら言った。
「若い子の方が良くなって、もう私となんか会ってくれないのかと思った」
ふっと揺れた美華子の身体から。煙草の匂いがした。
そういえば、美華子が喫煙する姿を見たことがない。あのレストランでも、自分の部屋でも、美華子は煙草を吸っていなかった。喫煙者であることを、隠しているのだと気付いた。
いじらしい、と思った。
きっと美華子は不安なのだ。僕に嫌われたくなくて、年上のお姉さんを演じているのだ。本当の自分を知られたら、嫌われてしまうと信じているのだ。
まどかと付き合っているときの僕と重なった。余裕のある彼氏のふりをして、魅力のある男のふりをして、弱音を隠して、好かれようと必死になって。
僕には、その気持ちが痛いほどよく分かる。
「そんなはずないよ」
「本当?」
美華子は探るような目で僕を見ている。
「本当だよ」
まだ、実際に会うのは二回目だ。敬語も抜け切れていないし、美華子のことはほとんど何も知らない。
でも僕は、美華子を好ましく感じた。
僕は、僕を好きでいてくれる美華子が好きだ。
美華子の身体を抱き寄せて、キスをした。美華子も僕の背中に腕をまわした。美華子に「好きだよ」と囁きながら身体を重ねた。美華子は「絶対に裏切らないでね」と、僕の背中に爪痕を付けた。「もちろんだよ」と頷くと、美華子は満足そうに僕を見て笑った。
この日から、美華子と僕の関係は正式に彼氏彼女となり、美華子のスマートフォンの待ち受け画像は僕と二人で自撮りした写真になった。
彼女と呼べる存在を得られたことで、僕の精神も安定したようだ。
これまでの何も思いつかず、煮詰まっていた日々が嘘のように、僕は文字を打ち続けた。週に一日か二日美華子と会い、息抜きをした。
美華子は献身的だった。僕の執筆中の食生活を心配し、弁当を作って来てくれたり、果物を差し入れてくれたりもした。
僕はそのたび感謝を伝え、大袈裟にどれほど自分にとって美華子が大切な存在なのかを伝えた。美華子はそれだけで満足そうに頬を赤らめ、僕のことをこれでもかと褒める。褒められれば悪い気はしない。美華子は僕の自尊心を盛り立てるのが上手かった。
多少嫉妬深くて、僕の行動を把握したがるのには辟易したが、それも僕を大切に思っているが故だ。付き合いは順調で、それなりに上手くいっているといえた。
『真実』と題した自分の身体を失った男の話の執筆は順調だった。空いた時間はとにかくそればかりを書いていた。締め切りの近い『この君』の短編のアイディアも浮かんだが、『真実』の執筆を中断することはしなかった。
この作品には長編でないと盛り込めない要素がたくさんあった。長編となると執筆にそれなりに時間がかかる。その間に、本来この話のあらすじと設定をまとめていた誰かが発表してしまったら、この時間は全て無駄になる。先に発表してこの作品を僕のものにしてしまう必要があった。だから、出来るだけ早く形にする必要があったのだ。
ようやく第一稿が書きあがった。
金井さんに連絡を取り、作品を読んでもらった。
本来『この君』、もしくは『福岡シリーズ』の原稿を書いているはずの僕が新作を持ってきたことに金井さんは少し顔を曇らせたが、結果的には「面白い」という評価をもらった。
多少の修正を経て、『真実』は連載ではなく書き下ろしの書籍化をする流れとなった。僕の名に勢いがあるときに、作品をたくさん出しておくのは戦略的にも有効だという判断をされたそうだ。
僕はその言葉の裏の「名前に勢いがなくなったとき」のことを想像して震えた。信用を損なわないようにと、焦って「この君」の短編も仕上げた。『福岡シリーズ』三作目もようやく書き進めることが出来るようになった。僕にはやはり執筆しかない。せいぜい信用を失わないようにと必死に執筆に励んだ。
そんな僕に、次々と喜ばしい報せが舞い込んできた。
映画公開を控え、『この君』の販促フェアが行われ、原作の売り上げ部数が伸びていること。更に相乗効果で『福岡シリーズ』にも注目が集まり、まだ発売前だというのに、販売予定日の決まった一巻の予約がそれなりに入っていること。そして連載している月刊『丸谷』の売り上げも、一緒に伸びているとのことだ。
『真実』の書籍化に向けて、確認作業も増えていた。机の上に紙が積みあがるにつれ、僕の気持ちと頬が緩んだ。
ああ、僕は作家なのだと感じることが出来たからだ。
たくさんの紙と文字に囲まれ、その中で「ああ忙しい」と思う。これこそが、僕の望んだ幸せだ。子供の頃から夢見た未来だ。
散らかった部屋を掃除してくれるのは美華子だった。美華子は自身の仕事の合間を縫って僕の部屋を訪れ、「私のことも忘れないでね」と寂しい顔をしていた。僕は「もちろん」と言いながらも、両立が難しいことを自覚してもいた。
僕は集中すると極端に視野が狭くなる。身体も一つしかないし、きっと美華子のことを十分に思いやることは出来ないだろう。
でも、それは仕方のないことだ。
浮気をしているわけではない。僕は今、僕の夢を叶え続けるために、必死になって働いているのだ。
小さいころから夢見てきた作家の夢を掴み、自分の作品が映画化され、たくさんの人に見てもらえる喜びを噛み締められる、幸せの絶頂なのだ。忙しいことが嬉しいし、楽しい。
同業の美華子にはきっとこの気持ちが分かってもらえると思う。
忙しいといっても、今このときだけだ。
この時期を乗り越えれば時間も空くし、お金も入ってくる。それから、美華子と二人で旅行にでも行こう。
僕はそう結論付けて、再び仕事に戻った。その後しばらく、美華子に連絡を取ることはしなかった。
