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【一部始終】第九話 ~圧~

 それでも書けなかった。
 美華子と会い、金井さんからもアドバイスをもらい、いい刺激になったはずなのに、短編も長編も、一向にまとまらない。
 ノートパソコンの真っ白なディスプレイを前に浮かぶのは、次回作の話をする美華子の姿だった。
 僕に奪われたご当地ミステリーに関しては、「本当は私も狙ってたジャンルだったの」と悪戯っぽく笑いながら言っただけで、特に僕をとがめることはなかった。既に次作の構想に入っているから、美華子の中ではもう過去の話として終わっているようだった。
 美華子だったら、と僕は思った。
『福岡シリーズ』はきっと別のご当地ものとして、その地位を獲得していただろう。僕がこれから書く作品は、それを超えられるだろうか。そう考えると自信がない。
 美華子はそんな僕の心中を知らず「次回作も期待してる」と僕に言った。
 僕にとってはそれが重いプレッシャーとなってのしかかる。彼女の既刊を読めば読むほど自信を失い、それでも続きが気になって読まずにはいられない悪循環に陥り、僕は頭を掻きむしりたい衝動と戦う一週間を過ごした。
 追い詰められた僕の頭の中で、あの占いの看板が光った。
 僕に今必要なのは、あの水晶の導きなのではないだろうか。そう思うと、そうとしか考えられなくなった。
 僕は再び、あの占い師のもとに行くことを決意した。もうそれしか道はない。
 立ち上がり、部屋を見渡した。僕にとって大切なものを探すためだ。
 この前のように、不意に大切なものを奪われると困る。こちらから差し出す方が、まだ心の準備が出来ていいのではないかと思ったのだ。
 書棚の上に、ガラスケースに入れて飾った、五十嵐先生から受け取ったトロフィーが目に入る。これだけは譲れない。
 歩き回り、キッチンやトイレまで探したけれど、何もない。
 何もない、という事実が、落ち込んでいる僕の心を更に抉った。
 僕の人生に大切なものなんてほとんどないのだ。なんてペラペラの、深みのない人生を送っているのだろう。
 追い詰められ、睡眠も食事も十分にとっていなかった僕の視野は、かなり狭くなっていた。
 真っ白なノートパソコンのディスプレイも、それを囲む本棚も、書籍化された自分の作品すらも、僕を責め立てているような気がした。
 脳無し。役立たず。
 聞こえるはずのない声が僕の耳に響く。
 何もかもが悲しく感じられ、諦めてスマートフォンと財布だけを手に部屋を出た。
 とにかく、あの水晶のところへ行けば、きっとなんとかなる。そう信じて足を前に出した。
 雨が上がったばかりらしく、地面は濡れて、空は曇っていた。どんよりと暗く、じめじめとした空気は、今の僕にぴったりだ。そう思うと勝手に涙が出そうになる。もちろん堪えて、そそくさと駅までの道を歩いた。
 一駅分だけ電車に乗り、改札を抜けて、あの路地へ向かった。
 アルバイトを辞めて、一年と少ししか経っていない。それなのに、通い慣れたはずの駅も景色も疎遠になったように感じた。何も変わっていないはずなのに、何故かよそよそしい。僕は早足でロータリーを抜けた。
 紫色に光る看板を見つけて、ほっとした。
 ようやく知っているものを見つけた気になった。密かに「閉店していたらどうしよう」と心配していたが、どうやら杞憂に終わったようだ。
 中の電気もついていることを確認し、自動ドアの前に立つ。自動ドアが、す、と両側に開いた。
「にゃーん」と猫の鳴き声がした。
 以前来たときと違う気がしたが、よく思い出せない。一歩中に踏み出すと、目の前のカウンターの下から、ぬっ、と見覚えのある占い師の男が姿を現した。
「こんばんは」
 占い師は、僕が突然現れたことをとがめる様子もなく「ハーブティーをいれますね」と穏やかな声で言った。
 僕は促されるまま丸テーブルの部屋で、占い師に供されたハーブティーを味わった。その間占い師は、ただ僕のことを笑って見ているだけだった。
 この場所も、占い師も、黒猫も、以前来たときと変わらない。違うのは、ハーブティーの味だけだ。毎回少し、香りが違う。それでも、毎回きちんと美味しい。僕は少し時間をかけて、ハーブティーを飲み干した。
「占って欲しいんです」
 空になったハーブティーのカップをソーサーに戻し、僕はようやく口を開いた。占い師は「そうですか」と頷いた。
「今日のお代はどうされますか?」
「それが」
 僕は頭をかいた。
「全然、思い浮かばなくて」
 占い師はまた「そうですか」と頷いた。
「では、こちらで指定させていただいても?」
「はい。大したものは持ってないんですけど……」
 占い師は顎に手を当て、少し考える素振りを見せた。
「それでは、その、電話機はいかがでしょう」
 僕は、ズボンのポケットに入れていたスマートフォンを庇うように手で覆った。
「いや、これは」
「駄目ですか?」
 占い師の声に、温度は感じられない。
 心臓が、僕の焦りを嫌と言うほど伝えてくる。分かってるよ、と僕は苛立つ。他に渡せるものはない。なにせ、財布とスマートフォンしか持ってきていないのだから。
「ほ、他の方の連絡先とかも、入っているので……」
 それでも僕は、情けない声で反論を試みた。ここで渡せば、個人情報が流出してしまう。他の人に、迷惑がかかる。
「初期化して渡していただければ」
 占い師はあっさり僕の希望を打ち砕いた。
「初期化、してもこのスマホ、ほとんど価値ないですよ。古い機種なので」
 僕は懲りずに抵抗を試みる。これは事実だ。旧型の機種で、もう四年ほど使っている。電池の減りも早いが、あまり外出する機会もないので、そのまま使い続けていた。本体だけを見るならば、僕にとっても、大した価値はない。
「ですが、その中に入っている情報は、あなたにとって価値があります。そうでしょう?」
「その、大事な情報は消えちゃうんで、渡すことは出来ないんですよ? それでもいいんですか?」
 スマートフォンに入っている情報を対価とするならば、その情報を占い師が得るべきではないか。初期化したスマートフォンは、過去にその情報を持っていただけの、ただの器に過ぎない。その器を渡しても、対価を支払ったことにならないのではないか、と僕は思ったのだ。
「それでもいいんです。重要なのは、あなたが大切なものを失うこと、犠牲を伴うこと。今回の場合は電話機の中身を確実に消去して私にいただければ、それで支払いは完了となります」
 占い師の声は少しも揺るがない。
「それじゃ、あなたは得をしませんよね? なんのためにそんな」
「ふしゃー!」
 しつこく問う僕の声を、黒猫が遮った。気付けば毛を逆立てて、僕を睨みつけている。
「こら。駄目ですよ。お客様にそんな態度をとっては」
 占い師がたしなめると、黒猫は僕を睨んだまま足を畳み、それから身体を丸めた。最後に僕に一瞥をくれると、しっぽを大きくたん、と椅子にたたきつけ、目を閉じた。
「失礼しました。それでは、どうされますか?」
 僕が返事をする前に、占い師は「やりますか? やりませんか?」と続けた。
 そうだ、僕に選択肢などないのだ、と思い出した。
 占い師がどんな理屈で、どんな報酬をどう要求してきたとしても、僕はそれを呑むしかない。ここで断られれば、僕にはもうすがるものがなくなってしまう。
 ポケットからスマートフォンを取り出して初期化し、占い師に渡した。占い師はずっと僕の手元を見ていた。ごまかしようもなく、僕はスマートフォンに入っていたすべてのデータを失った。
 占い師は受け取ったスマートフォンを黒いハンカチに包んで、胸ポケットに入れた。テーブルの真ん中にある水晶を僕の方に少し寄せて「どうぞ」と言った。
 僕は水晶を見た。すぐに色づき、映像が鮮明になる。
 知らない女性の背中が映った。机の前に座り、ノートパソコンと向き合っている。三十代くらいだろうか。ぼさぼさの茶色い髪を背中でひとつにまとめている。
 パソコンのディスプレイがアップになった。そこに映っているのは、作品の設定プロットのようだった。
 まず映ったのは登場人物の相関図。
 主人公は井上尚久というらしい。横に(30)と書いてある。これは年齢だろう。井上尚久を中心に、矢印が多方向に分散している。家族、恋人、友人、会社の関係者、肩書と共に名前がそれぞれ書かれている。口癖と趣味まで併記してある。細かい書き込みだったので、全てを読み切ることは出来なかった。
 途中で次の画面に切り替わる。
 そこに書かれているのはあらすじのようだった。
『井上尚久は通勤、交通事故に遭い、救急搬送されて一命を取り留める。
 しかし、目覚めると、自分の意識が他人に移っていることに気付く。尚久が殺そうと思う程憎んでいた会社の同期、武井晋次郎だ。
 事故に遭ったのも最初から晋次郎であったことになっている。見舞いに訪れるのも、晋次郎の妻や母親だ。
 困惑しながらも尚久は退院し、復職する。そこには当たり前のように井上尚久が出社していた。
 自分であるはずの同期の男の中身は一体誰なのか、自分は尚久の記憶を保持している何者なのか。
 自身の狂気と殺意のせめぎあいのなかで、尚久は真実を追求していく──。』
 次のページに移った。
 話の『肝』となる事実が詳細に書かれている。この話は、そこから逆算して描かれる話のようだ。ディスプレイの前でマウスを操作する女性の顔は見えない。何も喋らない。誰かも分からない。しかし、この人はすごい、と思った。確かにこれは面白い。
 僕はその詳細設定をとにかく頭に叩き込んだ。必死に読み込み、覚えているうちに時間が来たらしく、パソコンの画面が水晶の中に吸い込まれるように消えた。
「帰ります」
 僕は立ち上がった。
 今なら書ける。間違いない。
 記憶が鮮明なうちに文字にしたかった。
「なおーん」
 黒猫が急に鳴いた。そちらに視線を送ると、黒猫は僕をじっと見ていた。
 気にはなったが、今はそれどころではない。僕は寄り道もせず、家に帰った。
 本当はスマートフォンを入手してから帰るべきだと分かってはいた。しかしそれは明日に回すことにした。
 とにかくあの真っ白いディスプレイを文字で埋めたい。
 進まない『福岡シリーズ』よりも、『この君』の短編よりも、僕はこの新作を一刻も早く仕上げるべきなのだ。
 家に帰ったけれど、僕は食事もとらず、睡眠もとらず、徹夜で執筆作業を進めた。驚くほど筆が進み、中断する隙がなかったのだ。

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