【一部始終】第八話 ~転~
『福岡シリーズ』の連載が始まった。評判は上々らしい。
僕の評価も金井さんの評価も高かった作品ではあったが、実際掲載し、読者の目に触れるまでは緊張していた。僕と金井さんの評価が正しかったことが証明され、僕はほっと胸をなでおろした。
『この君』の実写化の話も公になり、野々村太陽の名は以前より知られるようになった。作家人生のスタートは、順調な滑り出しを見せていた。
しかし、中の人である野々村悠希の人生は非常に地味で、暗かった。
まどかと別れ、大学に行く理由を全て失った僕は、丁度いい機会だと自分に言い聞かせ、大学を中退した。
報告を受けた父親は、僕が学業を中途半端に投げ出したと激怒した。「都会の大学に行った」と自慢していた息子がある日「夢ばかり語る現実の見えない馬鹿息子になった」として電話口で僕をなじった。
「大学を卒業したら実家に帰り、地元の有力企業に就職して両親の面倒を見る長男」の生き様が一番美しいものとみなす父親の古い価値観は、僕がいくら説得をしたところで欠片も揺らぐことはなかった。
母親は理解を示してくれたが、父親をなだめることは出来ないらしい。電話口で詫びる母に対しても、乾いた気持ちが湧いた。味方のように見せかけてはいるが、結局母も、父と同じ気持ちを抱いているのだろうと思った。だから、父親を説き伏せることも出来ないのだ。
当然、正月も帰省しなかった。しばらく帰るつもりはないし、向こうとしてもその方が都合が良いのだと思う。
唯一妹から『本にサインして送って』と能天気なメッセージが届いたが無視した。とてもそんな気分にはなれなかった。
アルバイトも辞めた。結局最後まで、誰とも連絡先を交換することはなかった。
今はほとんど一人で一日部屋にこもり、声も発することなく過ごしている。これが本来僕の望む生活なのだ。誰にも気を遣わずにすんで、ほっとしている自分がいる。なるべく音を立てないように、息をひそめるように時間を過ごした。
実写化を機に、『この君』の書き下ろし作品の依頼が来ていた。映画館の先着特典として配布する宣伝用の短編が欲しいとのことだった。僕はここ数日、その作品のプロットを練るためにずっと机にはり付いている。
ところが、ヒロインの「まどか」の名を目にするたび、心がざわついて、ちっとも集中出来ない。こんなことなら他の名前にしておけば良かったと心から思う。が、もう遅い。作品の中のまどかと僕と別れたまどかは別の存在だ。そう自分に言い聞かせて、話を考えるしかなかった。
『福岡シリーズ』の三作目を書くよう促されてもいる。二作目までは渡してあるけれど、『この君』と同じく、一作目より手応えはなかった。金井さんにもそう評されたことで、三作目のハードルはまたしても高くなってしまった。
どちらも、一向に進まなかった。
時間はあるし、やる気もある。
それなのに、僕の頭の中には別れたときのまどかの悲しそうな顔や、金井さんの二作目を手にしたときの気まずそうな顔が次々と浮かんでは消え、すぐに悲しい気持ちに引きずられてしまう。
今更になって考えても仕方ないことを、ぐるぐると考えすぎてしまうのだ。
僕の頭の中は、今、お話をまとめられる状態にはないのだろう。それは自分でもよく分かっている。しかし、書かなければならない。仕事だからだ。
気分転換に外に散歩に出てみた。能天気な顔で外を歩く誰も彼もが憎らしく感じて逆効果だった。疲れるだけで、全く気持ちは晴れなかった。
結局ノートパソコンの前に戻り、唸りながら、ただ時間だけを消費していた。
金井さんから電話がかかってきたのは、そんなときだった。
「相原先生、ご存知ですか?」
もちろん知っている。相原美華子は僕にとって、忘れたくても忘れられない存在だ。
「ああ、はい」
何故、金井さんが相原美華子の名を僕に告げるのだろう。アイディアを借用したことがバレたのだろうか。まさか、いや、しかし。
僕の動揺をよそに、金井さんは「会いたがってます」と平坦な声で続けた。
「相原先生が、野々村先生に一度お会いしたいと言ってます。お食事でもどうですか、とのことなんですが、どうですか?」
相原美華子は、どうして僕の名を知っているのだろう。彼女も丸谷社でいくつか作品を出してはいるが、新人賞の審査には関わっていない。月刊『丸谷』に連載も持っていない。これまで僕が応募した新人賞の審査員に、相原美華子の名を見たことはない。
とすると、やはり、あの映像には裏があったのか。カメラで撮影をしていて、それがなんらかの手違いで相原美華子にバレた。その結果、なんらかの手段で僕に辿り着いた。度々登場するなんらかの詳細は全く分からない。しかし、そうでなければ説明がつかない。
「どうしますか?」
金井さんに返事を促され、はっとした。
「はい。行きます」
そう答えるしかなかった。僕のようなしがない駆け出し作家が、直本賞受賞の大御所作家に声をかけられた。断る口実は、咄嗟には浮かばない。
「分かりました。では、相原先生にそのようにお伝えします。日取りは──」
金井さんの話はまだ続いていたが、内容は全く頭に入ってこなかった。切ったあとも呆然として、しばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
数日後、僕は金井さんに連れられて、行ったことのないベトナム料理店に向かった。そこで、相原美華子と待ち合わせしていたのだ。
僕の感情は散らかっていた。頭の一方では「私のアイディアを奪っておきながらよくのうのうとここに来られたわね」と恐ろしい形相で相原美華子が僕の首を絞めるという想像が勝手に膨らんでいる。
しかし、それでも僕がここに来たのは、相原美華子に会いたいからでもあった。
会うからには作品を読んでおかねば失礼に当たると判断した僕は、相原美華子の本をまとめて購入し、目を通した。どうせ自作は捗らないので、時間潰しにも丁度いいと思ったのだ。
これまで一冊も相原美華子の本を読んでいなかった僕は、読み始めてすぐに、彼女の世界に夢中になった。面白い。そして、止まらない。
僕の崇拝する五十嵐先生は、慟哭を描く迫力のある作品を多く手掛けているが、相原美華子は細やかな人の心の機微を、最低限の言葉で表現する技術が巧みだった。
プロ作家の手腕というものを見せつけられた気がした。
会いたい、と思った。会って、創作の話をしたい。
僕は誰かに作品を見せるということをしてこなかったし、創作活動をしている誰かと交流を持ったこともない。だから、僕の創作論は、ずっと僕の中でくすぶっている。
相原美華子となら、その話が出来るかもしれないと思った。
彼女の作風は、作者本人の細やかな性格や感受性の豊かな性質を表しているのだろう。特に心情描写には、同意する部分がいくつもあった。まるで僕のことなのではないかと驚いた部分もある。
そんな彼女に、読者として、創作者として、その描写力を生み出す秘訣や、スランプの脱し方を教わりたかった。僕は今日、そのためにここに来た。
僕と金井さんは待ち合わせ十五分前には店の前に到着していた。二人で並び、相原美華子の到着を待った。金井さんとは当たり障りのない話をしたものの、会話は続かなかった。僕の方に、提供出来るような話題が全くないからだ。
相原美華子は時間の三分前に現れた。
身体のラインに添うグレーのワンピースを着て現れた彼女は、僕より十二歳年上の三十四歳のはずだった。僕の同年代の女性にはない色気をまとっている。実際に見ると、平安貴族のようだと思っていた切れ長の細い目も、却ってそのセクシーな魅力を増長しているように感じた。
僕は背筋を伸ばし、ほぼ直角に近い角度に腰を曲げ、「はじめまして。野々村太陽と申します」と名乗った。
相原美華子は上品に「うふふ」と笑った。
「やだ。お店の前でそんな。かしこまらないで。早く中に入ってご飯食べましょ」
「ここのお料理、美味しいんだから」と店内に入っていく相原美華子の背を見送り、僕はひっそり胸をなでおろした。
今のところ、相原美華子が僕に対して尖った感情を持っているようには見受けられない。
通されたのは個室の座敷だった。奥に相原美華子が座り、向かいに僕が座り、その隣、一番出入り口に近い席に金井さんが座った。
「食べられないものとか、ある?」
「いえ。特にありません」
相原美華子は僕の答えを聞くと、僕にメニューを見せることなく、店員を呼び、注文をした。迷う素振りもないので常連なのだろう。その一方的なふるまいに、僕は却って安心した。選択肢を与えられても、僕はベトナム料理自体が初めてだ。メニューを見ても、結局決められない。
運ばれてきた料理も飲み物も、全部知らない味がして、美味しかった。
相原美華子は良く喋る人で、やはりこの店の常連らしく、店員かと思うくらい熱心に、いちいち説明してくれた。
「生春巻きはこの味噌だれにつけて食べるの! 絶対美味しいから食べてみて! あとね、私のお勧めはこの水餃子! 食感が違うんだから! ねえねえ食べてみて! 美味しい? 美味しいでしょう?」
少女のように目を輝かせて好きなものを語るだけでなく、僕の手元も注意深く観察していて、「飲み物どうする? 同じもの頼む?」などと聞いてくれる。
おもてなしされているようで最初はひたすら恐縮したが、軽快に話す相原美華子のペースに慣れてくると、アルコールも相まってすっかり打ち解けた。
相原美華子は僕の作品について触れることはなく、自身の創作エピソードを聞かせてくれた。僕が作品を読んだと伝えると殊の外喜び、特にその作品の裏話を教えてくれた。その話術が巧みで、僕はどんどん話にひきこまれていく。
創作の話が分かち合えることが嬉しくて、僕は表現や構成について相談してみた。
金井さんは口数が少ないながらも、「編集の立場からすると」とアドバイスをくれたし、相原美華子も「私もそういうことある」と同意してくれたあと、「そういうときはね」とためになる話をしてくれた。来て良かったと思った。
店を出て、終電で帰る金井さんを見送った。
僕は相原美華子に腕を組まれ、「もう一軒行きましょう」と誘われた。
とても気分が良かった僕は快諾し、相原美華子と二人でタクシーに乗り、一緒に二軒目のお洒落なバーへ向かった。もちろん生まれて初めての場所だったが、相原美華子がそれとなくリードしてくれるので、居心地は良かった。
だから僕は誘われるがままに相原美華子の自宅へ赴き、一夜を共にした。 当然のように男女の中になったわけだが、酔いが回っていたので正直よく覚えていない。
目が覚めたら煙草を吸う相原美華子が僕を悠希と呼ぶようになっていて、僕も美華子と呼ぶことを強いられた。美華子という名は、本名だったらしい。
