【一部始終】第七話 ~狂~
家に帰った僕は、急いでノートパソコンを開き、新規の文章ファイルを立ち上げた。タイトルは『ご当地、人が死なないミステリー』。保存して、身体をベッドの上に横たえた。
あの占い師と会うと、やたらと疲れる。体力を吸われているのかもしれないな、と思い、笑った。それならそれで仕方がない。僕が選んだ道なのだ。
うとうとしながらふと左手の薬指を触った。指輪がない。
そうか、僕はまどかとの大切な思い出と引き換えに未来を買ったのだったと思い出し、それ以上考えるのをやめた。
代わりに新しい小説の設定を考えた。不思議なことにすらすらと主人公の名前や年齢、性格や口癖まで思い付いた。
僕は無理矢理身体を起こし、この熱が冷めないうちにと机に座り、浮かんだ設定を片っ端からノートに書きなぐった。
舞台は福岡。僕の実家のある街だ。頑固おやじの営業するラーメン屋を継ごうと家業を手伝う息子のもとに客が様々な相談を持ちかけて──。
これなら書ける、と僕は確信した。
生まれてから高校卒業まで過ごしていた土地のことだ。いくらでも書ける。それに、今は一度離れているから、東京と違う部分を表現することも出来る。上京したてのとき、僕が戸惑ったことや違和感を感じたことを書けばいいだけだ。いくらでも思い浮かぶ。
僕の中学時代の親友の実家がラーメン屋だった。親父さんは頑固ではなかったけれど、聞いてもないのにうんちくをたくさん語ってくれた。おかげで人より知識はある。今でも恋しく思う親父さんのラーメンの味を思い出したら、腹が減ってきた。こっちで食べたラーメンとは、麺もスープも全然違うのだ。
ノートにあらかた書き終えて、そこで力尽きた。ベッドに移動する体力も残っておらず、僕は机に突っ伏したまま朝を迎えた。身体があちこち痛んだが、熱は冷めていなかった。
ノートパソコンに文字を打ち込んだ。驚くほど順調に進み、時間はあっという間に過ぎた。
執筆が楽しいものだから、大学へはほとんど行かなかった。特に未練は感じなかった。
アルバイトにだけはきちんと通い、その前にまどかと会った。
まどかは順調に就活を進めているようだったが、その話を聞いても特に焦りは感じなかった。「頑張ってね」と言う僕を、「他人事みたいに言わないで」とまどかは責めた。「はるくんはこのままでいいの?」と言うまどかに僕は「今は小説を書きたくて」と返した。まどかは怒ったような、泣きそうな顔をして、「頑張ってね」と言った。
俯いたまどかの視線は僕の左手の薬指に向いた。僕はそれとなく手を隠したけれど、それ以来、連絡もデートの頻度も減った。
まどかとの関係が変わったことに、気付いてはいた。しかし、さほど焦ってはいなかった。まどかも忙しいだろうし、僕も忙しい。今はそういう時期なのだと思うようにした。
それに、この作品が仕上がれば、きっと僕の道は開ける。作家として成功するために、今は我慢しなくてはならないときなのだ。
まどかとの未来のために、僕は執筆にますます没頭した。
一か月半かけて完成した長編は、自分で読んでも震えるほどの出来だった。絶対に面白いと胸を張って言える仕上がりだ。
僕は金井さんに新作が出来たと連絡し、読んで欲しいと会う約束を取り付けた。金井さんは少し歯切れが悪い返事を繰り返したのち、「あ、じゃあ、まあ」と翌日会う約束をしてくれた。
そんな反応が出来るのは今のうちだけだ、と思った。この原稿を見たら、きっと態度を変える。それくらい自信があった。
浮かれた気持ちでまどかに連絡をした。原稿が仕上がり、それが会心の出来だと告げても、まどかは「よかったね」とだけ返事を寄越した。会う約束をしようと思ったのに、「しばらく忙しい」と断られた。
まあ、そういうこともあるよな、と僕はまだ楽観的だった。何しろ傑作が仕上がったので、有頂天になっていたのだ。
翌日、原稿を読んだ金井さんは目を見開いた。
「これは、文句なしに面白いですね」
金井さんの言葉に僕は「そうですよね!」と身を乗り出して答えた。
やはり、僕の自己満足ではなかった。金井さんから評価を得られたことも嬉しかった。前回の苦い思い出を払拭することが出来たのだ。
「純粋な作品としての面白さもありますが、着眼点が良いですね。ご当地ものはビジュアル化しやすいです。人が死ぬミステリーではないので、尚更やりやすい。素晴らしいです」
金井さんは原稿を持って帰り、僕は上機嫌で帰宅した。この勢いで福岡シリーズの続編を書いてしまおうと早速ノートパソコンに向かった。
もう僕の頭の中から『就活』という単語は消えていた。僕は小説の世界で生きていく。そう決めたのだ。
数日後金井さんから連絡があり、月刊『丸谷』での今の連載が終わり次第、先日渡した作品を連載することが決まった。
『福岡シリーズ』と称した作品はまだ僕の頭の中を占拠している。続きを書きたい、と思っていたところ、金井さんにも二作目に取り掛かるよう頼まれた。出来次第で、これからも連載が続けられるかもしれない。
これで定期的な収入が確約された。ますます就活をする理由はなくなった。
まどかに連絡をした。就活を諦めたことは伏せ、連載が決まったお祝いをして欲しいと誘った。まどかは「あんまり長い時間はいられないけど」と僕の部屋を訪れた。やはり、忙しいらしい。
ケーキを持って僕の部屋を訪れたまどかは、最初からあまり明るい顔はしていなかった。僕が改めて連載が決まった報告をし、それがどれほどすごいことなのかを説明しても、その顔が明るくなることはなかった。
「就職はどうするの?」と尋ねられ、僕は「しないよ」と答えた。
「僕は作家として生きていく覚悟を決めたんだ。そのうちベストセラーを出して、就職する奴らより稼いでやるんだ」
本音だった。たくさん本を出して、たくさん誰かに読んでもらう。それが僕の夢だった。その夢に、ようやく手の届きそうなところまで来ている。
「そうなんだ」
まどかの口元は一応笑ってはいた。しかし、その目は伏せられている。すごく悲しそうな笑みだった。
就職活動でよほど参っているらしい、と僕は判断した。
最近は一緒にデートにも出かけられていないし、愚痴をしっかり聞く時間もなかった。まどかもまどかで、何か不安を抱えているのだ。それを僕に隠しているのだ。きっと、僕に心配をかけたくないから。
細い肩に腕をまわし、まどかの身体を抱き寄せた。顔を近付け、キスをした。舌を入れようとしたところで、まどかが顔を背けた。
「ねえ」
まどかが僕の両肩を押して、身体を離した。
「ペアリング、どうしたの?」
ドキッとした。
そういえば、まどかの左手の薬指には指輪が光っている。僕はもう、何もついていない指に慣れて、違和感を感じることもなくなっていた。
「ごめん。失くしちゃったんだ」
そう説明するしかなかった。
まどかにはまだ、占い師のことを説明していない。そもそも、言ったところで信じてもらえるとも思えなかった。丸谷新人賞に僕の実力以外のものが関わったと知られるのも怖かった。失望されるのは嫌だった。
「どうして、自分から言ってくれなかったの?」
僕は黙って俯く。言い訳を必死で考えたけれど、その嘘はどれも簡単に見破られる気がした。
「ごめん。帰るね」
まどかはそう言って、僕の部屋を出た。
僕はまどかを追いかけなかった。追いかけても、伝えられる言葉が何もない。
まどかと会うのが気まずくて、ますます大学に行きたくなくなった。
そもそももう大学に行く意味もないように感じた。僕は作家になるのだ。大学へ行って、さほど興味のない講義を聞く時間を、創作活動に充てるべきだと感じた。
ただ、このままでいいとは思っていなかった。
まどかとは仲直りをしたい。そのために連絡を取りたい。しかし、どう連絡をしていいのか分からない。
ぐずぐずと悩んでいるうちに、『この君』が実写映画として映像化されるという報せが入った。これ以上ない朗報だ。
僕がその報せを聞いて初めに思ったことは「これでまどかに会う口実が出来た」だった。まどかはきっと僕のことを見直してくれるに違いない。
そもそも小説を読まない彼女は、僕の作品を読んだことがない。「恥ずかしいから読まないで」とは言っていたが、映像化されれば、きっとまどかも映画館へ足を運ぶだろう。
野々村太陽の名は、ただの新人賞受賞者ではなく、映像化作品原作者となり、もっと広く知られるようになる。
『この君』の本も売れるし、そのころ月刊『丸谷』に連載しているはずの『福岡シリーズ』も読んでもらえる。あの作品も面白いのだ。注目を浴びる機会さえあれば、確実に売れる。そして、今後の作品を楽しみにしてもらえるようになる。
僕の作家人生は、劇的に華やかなものになる。輝かしい未来が、僕を待っているのだ。
そのとき、隣で喜んでくれるのは、まどかであって欲しい。
僕は執筆作業を中断し、家を飛び出した。駅まで走って電車に乗り、まどかの家の最寄駅で降りた。ショッピングモールの中の、まどかの指輪を買った思い出のショップに駆け込んだ。
「ここで一番高い指輪はどれですか?」
またしても、クレジットカードの暗証番号を打ち込む手が震えた。
新人賞の賞金と、連載の原稿料があるので、払いきれない額ではない。しかし、大学生が彼女に贈るにしては高すぎる。あのときよりも、桁がひとつ増えている。間違いなく、僕のこれまでの人生で一番高い買い物だった。
ラッピングしてもらった指輪を手に、僕はまどかの部屋に向かった。
なんの連絡もしていないから、家にいるかどうかわからない。もし不在でも、帰りを待つつもりだった。連絡をしてしまえば、会ってもらえないような気がした。
コンビニで、ペットボトルの緑茶を買った。何時間でも待つ覚悟を決めていた。どうしても今日、まどかと話がしたいのだ。
まどかの部屋のインターフォンを鳴らしても、応答はなかった。
一人暮らしのまどかはよく居留守を使うと言っていたが、流石に僕に対してそんなことはしないだろう。ということは不在だ。今日は大学へ行っているのか。それともアルバイトに行っているのか。誰かと出掛けているのかもしれない。
僕は腕時計を見た。午後四時。いずれにしても、まだ帰ってくるには早い。
季節はあの指輪を贈った時期に近付いていて、日に日に夜が長くなっている。薄暗い通りを頼りなく照らすアパートの外灯の前で、僕はまどかの帰りを待った。
身体が少しずつ冷えてきて、足が道路に貼り付きそうになったころ、まどかは帰って来た。
僕は、すぐにまどかに気付いた。まどかも、すぐに僕に気付いたようだった。はっとしたあと、俯き、早足で僕の方へ近付いてくる。
「まどか、あの」
まどかが言葉を交わせる距離まできたとき、僕は声をかけた。まどかは僕の言葉の続きを待たず「何してるの?」と僕の手を引いた。
「寒かったでしょ。早く」
まどかはそう言って僕を自室に招き入れた。それだけで、僕は少し泣きそうになる。まどかに気付かれないように、涙を飲み込んだ。
久しぶりに訪れたまどかの部屋は、当然だがまどかの匂いがした。しばらく感じることのなかった匂いに、僕は安堵する。
まどかは何も言わず、僕に紅茶を入れてくれた。コーヒーが苦手なことを承知しているからだ。その関係の長さと深さを改めてしみじみと感じ、胸が痛くなった。
紅茶を出すと、まどかはそのまま僕の向かいに座った。
これまではいつも僕の隣に座っていた。すぐに触れられる距離にいた。今も手を伸ばせば届く距離にいる。
それでも、僕とまどかの関係は確実にこれまでとは違うことを思い知らされた。現に今、まどかはティーカップをじっと見つめて、僕と目を合わそうとしない。
僕は意を決して「あの」と話を切り出した。実写化の話を知らせ、どれほど嬉しいことなのかを伝えた。まどかの顔が一向に明るくならないので、僕の口調はどんどん早口になり、二度ほど同じことを繰り返し、ついに言うことがなくなって口を閉じた。
僕とまどかの間には、僕の放った言葉が、行き場を失って浮いている。
まどかはゆっくりと「おめでとう」と微笑んだ。それだけだった。
「それで、あの、指輪、本当にごめん。お詫びに、これを」
僕は指輪の入った小箱をショップの袋のまま差し出した。
まどかは目を丸くして僕を見た。僕は頷く。まどかは袋を受け取り、中から小箱を取り出し、ゆっくりと包装紙を開いていく。
僕はまどかの表情の変化を見逃すまいと、じっとまどかの顔を見ていた。中身の指輪が姿を現しても、まどかの顔はあのときのようには輝かなかった。
「これは……」
まどかは一度言葉を切り、深呼吸して、僕を見た。
「受け取れないよ」
「どうして?」
僕は焦った。身体が前のめりになり、テーブルに肘をぶつけた。カップの中の紅茶が揺れた。
「はるくんは、私は指輪が好きだと思ってるの?」
まどかの声は、静かだ。一方僕は、「だってあのとき」と必要以上に大きな声を出してしまった。
「あのときは、指輪をもらって嬉しかったんじゃないよ。はるくんが、私の欲しいものに気付くくらい、私のことを見ていてくれたことが嬉しかったんだよ。それに、私を喜ばせようとして、一番嬉しい渡し方をしてくれたから」
僕は何も言えない。言葉を吐き出せる状況じゃなかった。まどかの言葉が頭の中をぐるぐると回り、処理しきれない感情が、僕の胸の中で暴れている。嫌だ、続きを聞きたくない、と訴えている。
「これ、高かったでしょ?」
まどかの問いに頷いた。僕は深呼吸をしてから「あの店で一番高いのを買った」と答えた。
「私は、高ければいいわけじゃないよ。私にとっては、はるくんとお揃いの指輪の方が何倍も価値があったのに」
僕ははっとしてまどかの手元を見た。僕とお揃いのペアリングも、僕が贈ったあの指輪も、つけていなかった。
「私にとっては、はるくんとお揃いのあの指輪は世界に一つしかない大切なものだったの。でも、はるくんにとってはそうじゃなかった。だからもう、一緒にはいられない」
まどかは泣いていた。まどかの目から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ばいばい。はるくん。小説、頑張ってね」
