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白河の魚

「清い」という言葉に、どこか違和感がある。
澄んだ水。
透明な空気。
濁りのない心。
それは理想のように語られる。
けれど、清さを極限まで突き詰めるとどうなるだろう。

不純物がゼロ。
混ざりがゼロ。
摩擦がゼロ。
揺れがゼロ。
完全な均質。
そこに生命はあるだろうか。

発酵は濁りの中で起こる。
森は腐葉土の混ざりの上に育つ。
川は土を含みながら流れる。
微生物を殺しきった水は清いのか。
絵の具を溢した紙は綺麗なのか。
生命に満ちたスープは汚いのか。
清濁は状態ではなく、評価だ。

誰の視点か。
どの距離か。
どの目的か。

宇宙から見た地球は、青と茶と白がまだらに混ざる球体だ。それを私たちは美しいと言う。
近づけば、嵐と腐敗と死で満ちている。
それでもなお、美しい。

清さとは何か。

それはもしかすると、変化のない均質を求める心の願いかもしれない。混ざりを恐れ、予測不能を嫌い、
揺れを排除したいという欲望。
だが、揺れを消したとき、そこには何が残るのだろう。
完全な静止は、関係のない状態。
関係のないところに、時間は生まれない。
時間のないところに、経験はない。
経験のないところに、私もいない。
もし清さが完全な均質なら、それは「無」に近い。

では濁りは何か。

濁りは混ざり。混ざりは関係。
関係があるところに、摩擦があり、変化があり、生がある。
濁りは欠陥ではなく、生の条件なのかもしれない。

偉人たちは清かったのだろうか。
それとも、濁りを消したのではなく、濁りに飲まれなくなっただけなのか。

私はまだ途中にいる。
清さに息苦しさを覚え、濁りに可能性を感じる。
揺れをなくすのではなく、揺れの中で立っていたい。
清さを疑うことは、濁りを肯定することではない。
ただ、生きられる思想を探しているだけだ。

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