ブレトンウッズ体制で為替介入はどれくらいなされていたのか

ここまで為替介入の話を結構記載してきましたが、ブレトンウッズ体制、すなわち、1ドル360円時代は、どれくらい為替介入がなされていたのか、ということを疑問に思いました。現在の理解を備忘録として記載しておきます(必要に応じて加筆・修正します)。

まず、為替介入については1991年以前は基本的に公表データがありません。そのため、内部の情報が得られる元大蔵省の人の発言を追うしかない、とおもっています。

まず参考になるのが元財務官の柏木雄介氏の記述です。

「ブレトンウッズ体制による固定相場制のもとでは、為替相場の変動という国際収支不均衡に対するクッションがないから、一定量の外貨準備が不可欠で、一般的には三か月分の輸入額に相当する程度の外貨準備を確保すべきだ」と言われていた。日本もそうした目安で政策運営にあたっていた。国際収支の危機は不思議と四年周期でやってきた。1954年、58年、62年、そして、66年。危機対策は基本的には金融財政政策による総需要管理政策であるが、そのつど重点を少しずつ変えていた。最初の54年危機のときは財政の引き締めが中心であった。このとき、私は建設省公共事業担当主計官であったのでよく覚えている。一兆円強の予算を、物価が上昇しているにもかかわらず、一兆円弱まで削減した。58年危機の際は主として金融引き締めで対処した。間接金融引締めで対処した。間接金融主体の金融構造だから、金融引締め、とりわけ量的引締めは効果抜群であった。62年危機のとき、私は国際金融局企画課長であって、財政、金融面の引き締めに加えて為替管理を強化した。具体的には輸入信用状の発行規制を行った。66年危機は、これが固定相場制のもとでの最後の国際収支危機であるが、総合的な対策をとった。為替管理は相当減ってきていて、その効果は薄れていた。金融財政政策を、以前ほど極端な引締めではなく、抑制気味に運営して対処した(p.29-30)」

柏木雄介の証言

上記をみると、介入を実施するというよりは、為替管理をしつつ、基本的には財政と金融政策で対応したということがわかります。

1971年からなら伊藤先生と藪先生の研究で介入の推定をしています。

ニクソンショック前後の介入については、元財務官である行天豊雄氏が次のように記載しており、介入を実施していたことがわかります。

われわれは360円の平価でドルを支えることが、米国の利益にも合致することであり、協調的行動とみなしてもらえるだろうと信じていた。それゆえ、日本銀行は1ドル=360円でドルを買い続け、その購入額は2週間で約40億ドルに達した。日本の同月初めの公的準備は80億ドル弱であったから、ほぼ50%の残高増ということになる。8月28日になって、われわれはついに買い支えを放棄、市場再開にあたっては円を変動させることにした。
40億ドルというきんがくはどのくらいの規模であったのか。40億ドルを1ドル=360円で寒山すると、約1兆5000億円になる。当時、日本のマネーサプライはM1ベース(流通現金と当座預金の合計)で約24兆円であったから、中央銀行による買い介入の規模の大きさは想像に難くなかろう(130)。

ポールボルカ―・行天豊雄「富の興亡」

スミソニアン体制の時期についても介入をしていたと書いています。

政府は1ドル=308円というスミソニアン合意のレートを維持しようとして、72年中に約70億ドルものドル買い・円売り介入をしたが、円の上昇圧力を押しとどめることができなかった(p.46)。

行天豊雄「円の興亡 「通貨マフィア」の独白」

円の上昇圧力は高まる一方であった。大蔵省は為替市場に介入し、円売りドル買いによって円相場の上昇速度を緩めようとした。円がさらに上昇するのを防ぐため、77年には他国から「ダーティ・フロート」(通貨当局が自国の利益を優先して為替介入を行うこと)と呼ばれた操作を通じてドルを購入した。その金額は60億ドルにちかかった。しかし、円相場は291円から241円へと、約20%も上昇したのである(p.49)。

行天豊雄「円の興亡 「通貨マフィア」の独白」

また、オイルショック時は円買い介入も実施しています。

石油ショックの後、日本のインフレは加速し、景気は長いリセッションに入った。円は下落し我々も介入点を1ドル=265円から275円へ、そして285円へと順次さげていった。そして最終的には円が300円に達した時、円の下落を止める必要性を感じた。われわれは300円の相場水準を防衛すべく大規模な介入を行った。10月の石油ショック以降、1974年1月になって米国が資本取引規制と利子平衡税の完全撤廃を発表するまでの間にほぼ70億ドルのドルを売却、その結果、ドルはようやく軟化し始めた(p.193)。

ポールボルカ―・行天豊雄「富の興亡」

ちなみに、同書では、スミソニアン体制の時に1ドル308円にした理由として、1930年に金本位制に復帰した際、円の切り上げの幅が17%であり、その結果、それを決めた井上大蔵大臣が暗殺されてしまったため、17%という数字が不吉であり、17%未満にしたかった、という経緯を説明しています。308円という水準は17%未満だったので1ドル308円へ誘導しようとした、という経緯があったわけです。

また、この書籍ではプラザ合意のときの協調介入についても記載されており、「介入規模は100億ドル」であったなど細かく記載されています。ブレトンウッズ体制前後およびプラザ合意について知るなら、行天豊雄氏の「円の興亡」が一番では、と思います

まとめると、今の暫定的な議論は、

・基本的にブレトンウッズ体制時には、為替介入はあまりなされておらず、為替の規制をしつつ、財政と金融政策により、貿易赤字が大きくならないような運営をしていた。
・もっとも、ニクソンショック時以降については頻繁に為替介入をしていた

というものです。

上記は暫定的な意見であり、自分自身の備忘録ものです。さらに文献が見つかれば、これに加筆するという形で修正を加えます。

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