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賞味期限切れ若者

見た目なんてものは、他人から見た印象でしかない。年齢もまた、ただの数字に過ぎない。それなのに、人はそこに意味を見つけようとする。理解しているのに、それでも僕は、見た目や年齢を気にしてしまう。

見た目は若くても、心が老いている。

「まだ若いね」

そう言われるたび、僕はその言葉を額面通りで受け取れず、困ったように笑う。何が目的なんだ。答えは分からない。それでも僕は、勝手に言葉の裏側を探ってしまう。
年齢だけ見れば、その言葉は間違っていない。それでも、どこか自分のことを言われている気がしない。僕は、見た目は青年だ。
それでも、心だけが少し早く年を重ねてしまった気がする。

表参道を一歩、また一歩歩くたび。

東京へ行くたび、僕は表参道を歩いてしまう。
高級ブランドのショップが立ち並び、洒落たカフェからは、自分とは違う時間を生きているような人たちが出てくる。この街を歩く人たちは、まるで表参道という空間に溶け込むことを許された人たちのように見える。
その通りを一歩、また一歩歩くたび、表参道という街の空気に、自分の輪郭の薄さを突きつけられる。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。服装を確認するためでも、髪型を直すためでもない。ただ、この街に馴染めているかを確かめるために。しかし、そこに映っているのは表参道を歩く人間ではなく、表参道を歩いているだけの人間だった。
僕にそう感じさせるの何なのだろうか。そこにいる人たちなのか。それとも、表参道という幻想なのか。
それぞれが持つ個性という光の中で、僕は少しずつ自分の輪郭を失っていく。憧れがないと言えば嘘になる。
だから僕は、東京に行くたび、また表参道を歩いてしまう。

生傷がなかなか癒えないのを見て、歳を重ねたと感じる。

野球をしていた頃は、すりむいた膝や肘の傷なんて気にも留めなかった。
転んで膝をすりむいても、いつできたのか分からないような小さな傷が増えても、次の日には忘れていた。あの頃、傷はいつの間にか消えていた。
それが今では違う。
ふと足を見ると、数日前にできた傷がまだ残っている。「まだ治っていないのか」と思う瞬間が増えた。大した傷ではない。痛みがあるわけでもない。それでも、その傷を見るたびに胸の奥が少しだけ痛む。痛んでいるのは、傷そのものではない。もう昔のようには動けないこと、あの頃に自分には戻れないことを、身体に教えられることだった。
傷が治らなくなったことが悲しいのではない。傷が治るまでの時間を気にするようになった自分に、歳を重ねたことを感じるのだ。若い頃は、傷はただの傷だった。今は、その傷を見るたびに、自分が過ごしてきた時間まで見えてしまう。
身体に残った小さな生傷は、僕に「もう昔と同じではない」と静かに問いかけてくる。その問いに、僕はまだ答えを出せずにいる。

老いの指標は過去の美化。

高校生の頃に戻りたいと思うことがある。
無我夢中で部活動に打ち込んでいた日々。何気ない会話や、いつもの帰り道。当時は当たり前だと思っていた時間が、今ではかけがえのないものだったように感じる。未来に希望を抱き、何にでもなれると思っていた自分。あの頃の僕は、いい意味で怖いもの知らずだった。失敗することも、先の見えないことも、今ほど怖くはなかった。それが今では、怖いものだらけだ。でも、それは弱くなったということではない。失う痛みを知り、それでももう一度立ち上がろうとしているからだ。
今の僕が憧れ、戻りたいと思うのは、きっと高校生という時間そのものではない。何かに夢中になり、未来を疑わなかった頃の自分なんだと思う。過去を振り返るたび、あの頃は良かったと思ってしまう。
もしかすると、過去を美しく見始めることこそ、歳を重ねた証なのかもしれない。

結局自分が一番、自分を色眼鏡で見ている。

僕は、人からどう見られているかを気にして生きている。それを悟られないように、気にしていない人間を演じながら。皮肉なことに、その演技をしていること自体が、僕が誰よりも人の目を気にしている証拠なのかもしれない。
周りの人は、自分のことをどう思っているのだろう。変な人だと思われていないだろうか。自分だけが取り残されているように見えていないだろうか。誰かが何気なく言った言葉を、自分への評価だと勝手に受け取ってしまう。相手はそんなつもりで言っていないかもしれないのに。
そんなことを考えてしまう。
でも、ふと気づくことがある。
一番厳しい目で僕を見ているのは、他の誰でもない僕自身なのではないか。僕は、自分という人間を勝手に決めつけている。
もう若くない。
自分には大した才能がない。
今さら何かを始めても遅い。
そんな言葉を、誰かに言われたわけでもないのに、自分自身に投げかけ、勝手に自身で作った物差しで、自分を測っている。
本当は、まだできることがあるかもしれない。
まだ知らない自分がいるかもしれない。
それなのに、僕は過去の経験や失敗をもとに、自分という人間の限界を決めてしまう。僕は自分を正しく見ているつもりだった。でも実際には、自分で作った色眼鏡を通して、自分を見ていたのかもしれない。
色眼鏡を外せばいい。頭ではそう分かっている。
でも、長年かけ続けてきた眼鏡は、そう簡単には外れてくれない。

自分に厳しくいたいのは、その物差しで他人を測るため。

自分には厳しくありたいと思っている。妥協したくない。簡単には満足したくない。それは、自分を成長させるために必要なことだと思っていた。
でも、ふと考える。
その厳しさは、本当に自分だけに向けられているものなのだろうか。一度壊れた人間に対する世間の目は、時に非情で残酷だ。一度失敗した人間には、失敗した人間というレッテルが貼られる。そんな恐怖が僕の中にある。
だから僕は、世間を見る目も厳しくなる。
そちらが僕に「失敗」というレッテルを貼るのなら、あなたたちはまともなのだろうか。そんな物差しで、世間を見るようになった。
だからこそ、平気でルールを破る人を見ると、強い違和感を覚える。
「自分はこれほど苦しんでいるのに、なぜこの人は何も気にせず超えていけるのだろう」
そう思ってしまう。だから僕は、誰よりもその物差しの厳しさを知っているはずだった。それなのに、気づけば僕も同じ物差しを誰かに向けていた。でも、よく考えてみると、僕は世間の価値観を否定しているようで、誰よりもその価値観に縛られているかもしれない。
「失敗した人間だ」と思われたくない。「まともではない人間だ」と見られたくない。だからこそ、誰かを見て、自分はまだ大丈夫だと確認しようとしていたのかもしれない。
世間から貼られたくなかったレッテルを、自分自身が誰かに貼って悦に浸ろうとしていたのかもしれない。
そのことに気づいたとき、僕は自分が握っていた物差しの重さを感じた。

コミュニケーションは鏡。

人との関わりは、鏡のようなものだと思う。
相手が大切にしてくれるなら、こちらも大切にしたいと思う。逆に、相手が自分を雑に扱うなら、こちらも同じように返したくなる。相手が自分を軽く見ているのなら、こちらも相手を軽く見ればいい。ハンムラビ法典のように、されたことをそのまま返せばいい。でも、僕はその法典を自分には適用できない。
それが公平なのかもしれない。でも、僕にはそれができない。
相手が自分を大切にしてくれないからといって、自分まで誰かを雑に扱うことができない。相手の態度を見て、自分の態度を決める。それは一見、正しいことのように思える。でも、本当にそれでいいのだろうか。相手に合わせて自分まで変わってしまうのなら、結局、自分自身の基準を失っているのかもしれない。
僕は、誰かを傷つけない人間でいたいと思っている。でも、それが本当に相手のためなのかは分からない。優しさなのか。それとも、別の何かなのか。
僕はまだ、その答えを出せずにいる。

優しいわけではない。ただ他人に嫌われることを過剰に恐れているだけ。

僕は、自分のことを優しい人間だと思ったことはない。
むしろ、そう思われることに少し違和感がある。なぜなら、僕が誰かに優しくする理由は、100%相手のためだけではないからだ。
嫌われたくない。
その気持ちが、僕を動かしていることの方が多い。
相手を傷つけたくないと思う気持ちの中には、相手を思いやる気持ちだけではなく、自分が嫌われることへの恐怖も混じっている。
誰かに必要とされたい。誰かに悪い人間だと思われたくない。
そんな自分を守るための気持ちが、優しさに擬態して表れているだけなのかもしれない。
だから僕は、優しい人間なのではなく、ただ人との距離感に怯えているだけなのかもしれない。それでも、誰かを傷つける側にはなりたくないと思う。それが本当の優しさなのか、それともただの臆病さなのか。
その答えを、僕はまだ見つけられない。

いざというとき、子供に目線を合わせられる人でいたい。

子供は、大人のことをよく見ている。
言葉にしなくても、表情や態度から何かを感じ取っている。
だからこそ、少し怖くなる。
僕は、子供の目にどう映っているだろう。立派な大人に見えているだろうか。それとも、自分のことで精一杯な、余裕のない大人に見えているだろうか。
正直に言えば、僕は後者なのかもしれない。
自分がどう見られているかを気にして、過去の自分と比べて落ち込んで、誰かの何気ない言葉に傷つく。そんな自分が、誰かに何かを与えられる人間なのかと思うこともある。
でも、だからこそ思う。
いざというときには、子供に目線を合わせられる人でいたい。上から正しいことを教えるのではなく、同じ高さまで降りて、相手の気持ちを想像できる人でいたい。もしかすると、僕がそれを望むのは、自分自身がそうしてほしかったからなのかもしれない。
失敗したとき。立ち止まったとき。自分には価値がないのではと思ったとき。
ただ「大丈夫」と言われるわけではなく、同じ目線で向き合ってくれる存在がいたら、少し違ったのかもしれない。
だから僕は、完璧な大人になりたいわけでもない。間違えない人間になりたいわけでもない。ただ、誰かが苦しんでいるときに、自分の物差しで測るのではなく、その人の目線まで降りられる人でいたい。
まだ僕は、自分のことで精一杯になる。人の目を気にするし、間違えることもある。色眼鏡だって外れない。
それでも、そんな自分を抱えながら、誰かに手を差し伸べられる人間でありたい。

賞味期限切れ若者

僕は、自分にはもう賞味期限が近づいていると思っていた。
若い頃のような勢いはない。
何かに夢中になることも減った。
失敗することが怖くなった。
昔は、未来に対して根拠のない自信があった。何者にでもなれるような気がしていた。
でも、歳を重ねるにつれて、自分にできることと、できないことが少しずつ見えるようになった。その現実を、僕は「成長」ではなく「劣化」と捉えていたのかもしれない。昔の自分と比べて、今の自分に足りないものばかりを探していた。
あの頃は良かった。
もっと無邪気だった。
もっと怖いもの知らずだった。
そんな風に過去を美化して、今の自分に期限をつけていた。
でも、本当に賞味期限が切れていたのは、僕自身だったのだろうか。もしかすると、僕が勝手にそう決めつけていただけなのかもしれない。
表参道を歩いて、自分の平凡さを突きつけられた。
過去の傷が消えず、昔の自分に憧れた。
自分で自分を色眼鏡で見て、世間から向けられた物差しで誰かを測っていた。
僕はずっと、自分を評価するのに必死だった。
まだ価値があるのか。
まだ必要とされる人間なのか。
そんなことばかり考えていた。
でも、人生は誰かに採点されるものではないのかもしれない。
完璧じゃなくてもいい。
傷が残っていてもいい。
一度立ち止まった人間でも、誰かの目線に合わせることはできる。
誰かに優しくする理由が、純粋なものだけではなくてもいい。
怖さや弱さを抱えたままでも、誰かを大切にすることはできる。
僕は、まだ若者なのだと思う。
だた、昔のように何も知らない若者ではない。
失敗する怖さを知った若者。
傷つく痛みを知った若者。
それでも、もう一度歩こうとしている若者。
賞味期限が切れたのではない。
ただ、以前とは違う味になっただけなのかもしれない。
僕はこれからも、自分に何度も疑問を持つと思う。
また自分に期限をつけてしまう日も来ると思う。
それでも、その度に問い直したい。
本当に終わったのは、自分なのか。
それとも、自分を諦めようとしていた気持ちなのか。
僕はまだ、自分の賞味期限を決められるほど、自分のことを知らない。

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