「人生は短い」と書く人の、長い京都散歩
京都には、ガイドブックには載ってへん京都を知ってはる人が、ほんまにいてはる。僕がそういう人に出会えたんは、ほんの偶然からやった。
ブログとの出会い
しょうじさんに出会うたのは、京都を好きな者どうしが集まる会でのことやった。歳は僕とずいぶん離れてはるけど、いざ京都の話になると、その歳の差なんてどこかへ消えてしまう。一つ問えば十も返ってきて、こちらの知らんことばっかりや。
ある日、思いきってご自宅にお邪魔させてもろた。それが、僕の住んでるところからほんの目と鼻の先にある、それは立派なお屋敷やった。これだけ長いこと京都を見てきはった人が、こんなご近所にいてはったんやと、それだけでもう胸が高鳴った。
お茶をいただきながら話すうちに、ブログをやってはると聞いた。さっそく帰って読んでみて、僕はただただ驚嘆した。八十を超えてなお、毎日のように京都の街を歩いて、小さな気づきを書き留めてはる。その知識の奥深さときたら、歳という物差しでは到底はかれへん。題は「人生は短い - きょうのわたし」。観光名所の解説やのうて、今日たまたま見かけたもの、ふと気になったこと、長う生きてきて初めて知ったことが、一回にひとつずつ綴られてある。派手な発見は何もない。せやのに、読み終えるたびに、自分の街を見る目がほんの少し変わってるのや。
戦後を生きたまなざし
しょうじさんのまなざしには、長いこと一つの街に暮らした人だけが持つ厚みがある。
たとえば市電の話や。京都には、日本でいちばん最初の電気鉄道——のちの京都市電の前身——が走ってた。明治のなかばに開業したその路面電車は、昭和三十六年に廃止になるまで、しょうじさんの家の前や堀川通を走ってて、子どもの時分には毎日それに乗ってはったという。そして二〇二六年の春、その車両が平安神宮の前で公開されることになって、しょうじさんは会いに行かはった。半世紀以上を、一人の記憶がひょいとまたいで、過去がふいに目の前へ戻ってくる。読んでるこっちまで、見たこともないはずの車両が懐かしゅうなってしまう。
歴史を「年表」やのうて、「自分が通り抜けてきた時間」として語れる人は、もうそうそういてはらへん。しょうじさんにとって戦後の京都は資料やのうて、満員電車のにおいや、なくなってしもた川の流れと地続きの、生きられた時間なんやと思う。
一本の石柱から、暗渠と市電の盛衰を読む
僕がいちばん唸ったんは、たった一本の石柱から街を読み解く回やった。
鴨川のほとりに、もと木戸孝允——桂小五郎——の屋敷やった建物が残ってる。その前庭に、「今出川橋」「小川」と彫られた古い石柱が置いてあった。橋の親柱や。しょうじさんはそれを見て、自宅のご近所の幼稚園の植え込みにある親柱と、書体までそっくりやと気づかはる。もとは四本ひと組で、二本がこっち、二本が幼稚園に分かれて移されたんやろ、と。
この「小川」は、ただの小さい川やない。固有名詞で、室町の昔の『洛中洛外図屛風』にも「こかわ」と記された、中世以来の川の名やった。しょうじさんが子どもの頃には水が流れてたけど、昭和三十九年ごろに暗渠になって、橋も要らんようになった。今出川通そのものも、もとは細い道で、市電を通すために広げられた。その市電もやがて廃止になって、いまは市バスが走る幹線になってる。——たった一本の親柱から、消えた川と、市電の盛衰と、街の移り変わりが、一続きの物語としてほどけていく。
京都は地層のような街や、とつくづく思う。表通りの下に古い道があって、そのまた下に、もっと古い川がある。その地層を読む目は、長う住んで、こまめに歩いて、立ち止まって考える人にしか育たへん。
埋め戻された聚楽第の石垣
地層といえば、こんな話もある。これは僕にとって、とりわけ忘れられん話や。
しょうじさんの住まいの界隈は、その昔、豊臣秀吉が築いた聚楽第の跡地にあたる。安土桃山のころ、石垣と濠にぐるりと囲まれた壮大な邸宅兼政庁がそこにあって、けれどわずか八年で取り壊された。二〇一二年の暮れ、その本丸の石垣が発掘で見つかって、新聞の一面を飾った。ところがその石垣はまもなく埋め戻されて、上には鉄筋コンクリートの集合住宅が建つ。
ある日、しょうじさんが僕に、こともなげに教えてくれはった。いま僕の住んでる、ちょうどその場所こそ、かつて聚楽第のお庭のあったところなんや、と。僕は耳を疑うた。言われてみれば、僕の住む界隈の町名——「山里町」「下山里町」、その東の「州浜町」——は、どれも聚楽第の庭園の築山や州浜に由来する地名やという。山もないのに「山里」、海もないのに「州浜」。城は跡形ものうに壊されたのに、地名だけが、その面影をいまも残してる。
そのお庭には、「藤戸石」という名石が据えられてたそうや。もとは信長が笛や太鼓で囃しながら運ばせたと伝わる、いわくつきの石で、聚楽第では後陽成天皇が行幸のおりにご覧になったやろう、としょうじさんは見てはる。その石はいま、醍醐寺の三宝院の庭にある。——秀吉の城が、今日の暮らしの真下に静かに眠ってて、僕はそうとも知らんと、その上で毎日ごはんを食べてたわけや。
派手に保存して観光地にするでものうて、人はその上で、何ごともなかったように暮らしていく。地名にだけ、そっと面影を残して。忘れたふりをしてやり過ごすこと——それもまた、長い時間を生きてきた都市の作法なんかもわからん。一本の石、ひとつの町名が、四百年を僕の足もとへたぐり寄せてくれた。
「分からなさ」を愛でる感性
しょうじさんの文章には、もう一つ好きなところがある。「分からなさ」を、無理に説明せんと、そのまま愛でるところや。
二条城の南に、神泉苑という古い社寺がある。その境内には、毎年大晦日になると、その年の恵方へ向きを変える小さなお社があるんやと。しょうじさんはわざわざ見に行かはって、車輪で回るんかと思いきや、数人で持ち上げて向きを変える素朴な仕掛けやったと、嬉しそうに書いてはる。恵方に従うて向きを変える社なんて、ほかにそうはない。「こういう風変わりなものがあるのも京都の魅力や」と。
あるいは、西の郊外の梅宮大社。梅にちなんだ名のこの神社の楼門の脇に、「梅・生め——子授け・安産」と書いてあった。「梅」を「生め」に引っかけただけなんか、それとも何ぞ由緒があるんか。しょうじさんは調べきらんと、こう結んではる。「そこんところはようわからん。その、わからんところが京都らしい」。
似たおおらかさを、地名や駅名のなかにも見つけてはる。嵐電と阪急に同じ「西院」という駅があって、同じ交差点にありながら、阪急は「さいいん」、嵐電は「さい」と読みが違う。開業した時代が三十年ほどずれてるうちに、読みが分かれたまま固まってしもたらしい。JR奈良線の木幡は「こはた」、すぐ近所を走る京阪の木幡は「こわた」。こういう食い違いを、しょうじさんは不便やとは決して言わはらへん。「長い歴史にはそれなりのいわくがあって、その複雑さが面白い」と、むしろ楽しんでみせはる。京都には、その複雑さの蘊蓄を競う『京都検定』なんちゅうお遊びまであるんや、と。
何でも検索したら一瞬で答えの出る時代に、あえて「分からんまま味わう」こと。説明され尽くした街は、たぶん、ちょっとつまらん。余白を残しておくことの豊かさを、しょうじさんはようわかってはる。
食で巡る歳時記
季節の話も忘れがたい。しょうじさんのブログを通して読むと、京都の一年が「食べるもの」で巡っていくのがようわかる。
師走になれば、千本釈迦堂の大根焚きへ出かけはる。熱々の大根をいただくと、一年を無病息災で過ごせるという。そのお堂——大報恩寺の本堂が、応仁の乱も度重なる大火も免れた、洛中でいちばん古い木造の建物やということも、しょうじさんはさらりと添えてはる。六月になれば、こんどは和菓子屋に水無月が並ぶ。外郎の上に甘う炊いた小豆をのせた、その月だけの菓子や。三角は氷を、小豆は魔除けをあらわすと言われる、夏越の祓の菓子やと。
観光のための京都やのうて、暮らしのなかで季節を食べる京都。そういう一年の巡りが、何気ない記事の積み重ねから、ふわりと立ちのぼってくる。
御苑を歩く日々
そうして、しょうじさんはいまも京都御苑を歩いてはる。ただ歩くだけやない。ボランティアで御苑の歴史散策ツアーのガイドを務めたりしてはる。御苑が、明治維新で公家たちが東京へ移ったあと、邸宅を壊して樹木だけを残して公園にした場所やということ。せやから今、巨木や老木が多いのやということ。そういうことを、来てくれはった人らに語ってはる。
御苑の朔平門の向かいに、大きな木がある。何の木か分からんと事務所に、「ツガ」やと教わらはった。そのことが、あるお人との交わりのきっかけにもなったという。北の高雄の先に「栂尾」という名刹の地があって、そこでは同じ木を「トガ」と読む——「咎」に通じるのを忌んでの読み替えやと、しょうじさんは書いてはる。一本の木の名前から、地名へ、言葉の歴史へ、そして人とのつながりへと、話はやわらかう広がっていく。
御苑へのまなざしは、季節ごとの細かい移ろいにも及ぶ。「母と子の森」の下草が刈られてさっぱりした日には、刈るべきか自然のままがええか、両方の言い分のあいだで揺れる環境省の苦労を思いやらはる。御苑には、わざと下草を刈り残してある一画もあるんやと。手入れと、あるがままと——そのあわいのところで、街なかの自然はかろうじて保たれてる。
そう、しょうじさんの発見はいつも、こうして人や土地とつながってる。孤独な物知りの独り言やのうて、街を歩いて、人と言葉を交わして、立ち止まって写真を撮る——その日々の延長に、ぜんぶの小さな発見があるのや。
鴨長明の方丈と「人生は短い」
最後に、忘れられん回がある。
下鴨神社の杜、糺の森を散歩してて、しょうじさんは河合神社の境内に、小さな庵のレプリカを見つけはる。鴨長明が『方丈記』を書いた、あの方丈の庵や。ちょうどその年が、『方丈記』が記されて八百年にあたってた。方丈とは一丈四方、およそ三メートル四方。人が住むための、ぎりぎり最小限の広さや。長明はこの鴨——下鴨——で生まれ育ったさかい、「鴨」の長明という。せやからゆかりの地に、その庵が再現されたんやろ、としょうじさんは得心しはる。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」。無常を見つめたあの古典の現場に立ちながら、しょうじさんが綴るのは大仰な感慨やのうて、「ヘー、これがあの庵か」という、ごく素朴な懐かしさや。
僕はそこで、ふとブログの題を思い出した。「人生は短い」。八十を超えて、人生の短さを誰より知ってはるはずのその人が、その短い時間を、古い街の小さな発見に費やしてはる。向きを変える社を見に行き、石柱の書体を見比べ、木の名前を役所に尋ねる。一見したら、何の役にも立たん営みや。
けど、流れて絶えん河みたいに移ろうていく街のなかで、立ち止まって一つひとつを見つめて、書き留めること。それは、過ぎていく時間に小さな杭を打つことなんやと思う。短い人生と、長い街。その二つが交わるところに、しょうじさんの「きょうのわたし」はあるのや。
情報の時代に、一人の視点が持つ意味
考えてみたら、いまは情報のあふれる時代や。京都の名所も行事も、検索したら一瞬で「正解」が出てくる。整理されて、要約されて、誰が書いても同じになった解説が、なんぼでも手に入る。けど、しょうじさんのブログにあるのは、そういう情報やない。同じ街を何十年も歩いた一人の人間が、自分の足と目と記憶だけを頼りに、少しずつ書きためた「わたしの京都」や。誰のものとも替えのきかへん、たった一つの視点。
それは効率からは、ずいぶん遠い。一本の木の名前を役所に問い合わせ、石柱の書体を見比べ、毎年向きを変える社をわざわざ確かめに行く。要約も近道もない、まわり道だらけの営みや。けど、まわり道のなかにしか宿らんものがある。土地への愛着も、季節の手ざわりも、人と交わした言葉も、立ち止まった者の前にしか現れてこうへん。しょうじさんの何気ない文章が、読む者の心を静かに動かすのは、たぶんそのためや。なんぼ「正しい情報」を並べるよりも、一人のたしかな「まなざし」のほうが、ときに深う街を伝えるのやと思う。
おわりに
そういえば、しょうじさんは朝が早い。御苑で待ち合わせて、写真撮影におともする約束をしたこともあるけど、なにせ朝に弱い僕は、たいてい寝坊して間に合わへん。それでも「マイペースでええですよ」と、からからと笑うてくれはる。
今度はちゃんと早起きして、御苑をいっしょに歩かせてもらお。ほんで、いつかの約束のお茶でも。——しょうじさんに教えてもろた目で、もういっぺん京都を歩いてみたら、毎日通る見慣れた道かて、まだまだ宝の山やった。人生は短うても、京都はえらい奥が深い。さて、あしたは何に出会えるやろか。
この文章は、京都にお住まいのしょうじさんのブログ「人生は短い - きょうのわたし」(http://iroiro41.blog67.fc2.com)を愛読し、ご本人の許しをいただいて、深い敬意とともに書かせてもろたものです。引用した事実やエピソードは、同ブログや、しょうじさんに直に教えてもろたことに基づいてます。京都を歩く愉しみを教えてくださって、ほんまにおおきに。
