脱構築する知性が連帯するための戦略的な原則
1. 大多数者は自己欺瞞の内側にいる
この世界には苦しみが存在する。そして、立場の弱い者の苦しみはしばしば立場の強い者から自己責任と見なされる。そこにはしばしば虚偽がある。「助ける義務はない」とされ「強者の安寧には罪はない」とされる。それはなぜなら、強者にとっては、そう考えることが好都合であり、ただちに快ですらあるからだ。しかしそのようにして、欺瞞的な者、他者を労わる人格的な良心を備えない者達が社会において繁茂し増加していくならば、人間社会全体にとって合理的だろうか? 合理的ではない。人間脳がする自己欺瞞は、現代において、幸福という利益のための社会構造を個人的な局所最適性へと分割していく運命にある。
しかし、圧倒的大多数の人々の思考は、目の前に提示された利害によって容易に自己欺瞞へと堕落する。したがって、人間の社会とは、利害の連鎖であり、自己欺瞞の連鎖だ。そこにおいてもはや、自己欺瞞は集団的だ。既存の秩序の正当性は強調され、暴力や犯罪の不当性は強調されるが、一方では平和は、支配と搾取を内在もしている。実際には不正義であるものが「正義」と呼ばれる。それは歴史評価についてもそうであって、「正しい側が勝利を繰り返してきた進歩の経緯」だと人類史は見なされやすい。
結局、人類社会と人類史は、一つの大きな自己欺瞞の構造にすぎない。圧倒的大多数の人々はその中で暮らし人生を終えていくのであって、その認知構造の外側から客観的な事実を一度も目撃することはない。しかし実際には、客観的な事実は、そのように、人間という生き物の自己欺瞞の仕組みについて脱構築したところにある。人類史全体を脱構築することによって、初めて、不正義を「正義」と呼ばずに正義について語ることができるし、初めて本当に、価値や幸福について語ることができる。
2. 都合の悪い事実
真実は権力にとって都合が悪い。そしてもっと都合が悪いことに、真実は、最も立場の弱い人達を含むすべての人間にとって都合が悪い。なぜなら、人間という生き物は、誰しも何らかの自己欺瞞のなかで生きている、独善的で加害的な存在だからだ。真実は、無限大に自己犠牲的でなければ社会的価値つまり倫理においてその人を劣位だと言う。しかし、その自己肯定感の否定には快が伴わない。社会や生命全体の利益を守るために必要な事実は、どの部分にとっても感情的に不利益なのだ。そして人間は、真実よりも快楽を優先して生き、快楽を優先して偽りの「真実」を定義しつづける。
社会には情報の非対称性があるうえ、人々は無限大に賢くはないから、権力は人間を最大限騙して利益を効率化しようとする。現代人類における力の頂点とは、一言で言えば国際資本(global capital)であり、金権政治を通して事実上それに隷属している超大国、米国だ。したがって実は、人類の現代史において不正義がどこにあるかというと、国際資本や米国に安定してあると言ってしまえる。これは、個別具体的な出来事や論点を超越しているが、それほどに、権力の側が欺瞞を伴うことは、強い必然なのだ。
例えば東西冷戦構造について、西側によって東側は悪魔化される。第二次世界大戦(WWII)は、正義の側の勝利だったとして敗者は悪魔化され、その前提への批判は「歴史修正主義」などとして無前提に非難される。実際には資本に好都合な普通選挙は絶対正義とされ、米国から遠い国々は「権威主義」として非難される。国際資本支配に抗うためには何らかの権威主義的性質が不可欠だったとしてもである。さらに言えば、フランス革命なども、「邪悪な権力vs善良な民衆」というマルクス主義的な快の報酬系によって進歩と見なされ、単に自由市場原理の拡大であった事実は隠蔽される。近代啓蒙思想が人道的であったかのようなナラティブ全体が実は搾取の深化のためのものだったが、人類史はそのように自己欺瞞のなかに閉じていて、事実を認知することも議論することもできない。
3. 絶望のなかに希望を実装する
言ってみれば、主流報道(mainstream media)による言説支配(narrative control)によって、人間社会という認知構造は染められている。そして歴史的にそれに抗った者達は、様々な形の攻撃によって敗北させられていった。情報として流通することを妨害して真実を無視させることもその一つだ。あるいは経済制裁で敵国を疲弊させるなどの経済的な攻撃もある。そしてそのような情報的な次元や経済的な次元での攻撃を可能にしている基底構造は、力つまり武力だ。例えば核兵器、あるいはAIといった先進技術だ。
そのような構造のなかで、真に事実的な情報は事実的な情報だとは呼ばれないし、真に賢い者は賢い者とは呼ばれない。それどころか、真の賢さすら賢さとは呼ばれず、真の優秀性は優秀性とは呼ばれず、真に善良であることや真の善行は、善良や善行とは呼ばれない。例えば、優しさこそは最高の美徳であり強さだが、「優しさは弱さだ」と現代は強調する。知の装置とされるアカデミアにおける評価構造も、その枠組みに沿った範囲でしかない。正しいことをすれば損をし、正しいことを言えばキャリアを失うのが、現代社会の現実だ。
したがって、人類社会の自己欺瞞の外側にある事実について語る利益は、一見すると、誰にとってもありえない。しかし世の中には、立場の弱い者の幸福が欺瞞的に踏み潰されている現実について、我慢ならない、と感じる人達も稀にいる。その多くは自分自身の精神的なトラウマなどを背景にしているが、本人が生まれ持った共感性や勇気も重要な背景としている。そのような人達は、圧倒的な力の現実を前にしても、絶望のなかになお希望を模索しつづけ、国際的な暴力の被害などを実質的に減少させる手段を実装するため、自分に似た者達との連帯を模索するだろう。
4. 連帯という解法の必然性
真実を多数者に訴えかけられる言葉というものは、恐らくありえない。米国は敵対する社会を悪魔化するが、それによって虐げられつづけてきた北朝鮮や中国などの周縁的国家でも、別の意味で明らかに思想的に不自由な社会であり、強烈な言説支配(narrative control)が徹底された部分構造である。したがって、真実や知性は常に、貧者や孤児といった最も周縁にしかありえない。人類社会という自己欺瞞構造を外側から目撃できる人材は、人類においてあまりにも稀であり、点在しかしないが、点在はしている。
真実とニヒリズムは、とりあえず相性がいい。しかし、弱者が欺瞞によって踏み潰されることが許せないという感情的な資質も兼ね備えた人達は、挑戦から撤退して満足して生きることを選ばないだろう。そして、実社会に存在する不正義を是正するためには、本質的にはこの自己欺瞞の構造の是正が不可欠であり、人類社会の周縁に点在する知性が相互に連帯することが欠かせない。それが将来、人類社会全体を改革すると期待することは、現時点では客観的にまったく難しいが、そのような周縁的連帯を模索すること自体は、真の意味で優れた人々の必然的な現象だ。
また、全世界で不正義に抗う人達は、当初は、異なる社会問題や政治問題を問題視し、また出自的にもそれぞれの文化的なフレームワークに属している。例えば、キリスト教的な美学を先鋭化し強調することで世界を是正しようとする人もいるだろうし、イスラム教的な美学を先鋭化し強調することで世界を是正しようとする人もいる。しかし、真に賢い者達については連帯は必然だ。なぜなら、人類史において拡大してきた不正義への挑戦とは結局、国際資本が自由市場原理を拡大するために利他的な共感性の美徳と尊厳をひたすらに矮小化し、個人主義と利己主義の正当性をひたすらに誇張してきたものにすぎないからだ。
5. 脱構築の極点
大多数者は自己欺瞞という鎮痛剤によって進歩と幸福の夢を見ているだけであり、客観的には深化しつづける支配と搾取のサイクルのなかで少なくない苦しみを強いられている。したがって、ほとんどの人のほとんどの苦しみについて、より幸福にするためには、実は人類社会の構造的な不正義を糾弾することが欠かせない。そしてそのようにして見えた真実に基づいて現実に社会を一歩でも改善していくためには、周縁的知性の世界的連帯が欠かせない。すべての知性が必ずこの一点に向かって進み、ごく一部は実際に到達する。
例えば2013年の著書『21世紀の資本』などで知られるThomas Piketty氏(1971-)は、国際課税を訴えた。そしてそれが、マルクス主義的な「邪悪な権力vs善良な民衆」という欺瞞的なモチーフに溺れる、主流アカデミアの限界そのものだ。なぜなら、世界最強の軍事力を手にする国際資本(global capital)に対して、「国際課税」という解は、どんなに完全に正しくても絶対に実現できないという意味で「誤り」だからだ。近代において民衆は利他的な美徳意識においてこそ腐敗してきたのであり、自己批判なき正義論は常にポーズでしかない。自己の利を認める一方で権力に悪徳を認知するというバランスに、自己欺瞞的な快を感じているだけなのである。
人間という生き物は醜い。退歩を進歩と詐称しつづけてきた人類史は間抜けである。それらを直視する不快感よりも強い正義感を持つ者達によってしか、人々を救うことはできない。そして、勇気を持てだとか、自己の内にある良心を発火させろだとか、自分の頭で考えて事実を目撃してみろなどと言うことは、ほとんど無意味だろう。なぜなら、真実と真の正義について考えることはあまりにも苦痛であるから、人々の理性が無意識に自己欺瞞を選択した結果として、事実への言及はあまりにも稀なのだから。したがって、相手を変えようとする言葉よりも、すでに到達している相手に向けた言葉こそを、はるかに優先しなければならない。
6. 妥協し絶望せず生存する
脱構築する周縁的知性が国際的に連帯するネットワークを形成して維持するためには、露骨に攻撃の標的にならないことが必要だ。例えば、仮にどんなに正義があったとしても、違法行為や暴力行為に加担することからは明確な距離を取らねばならないだろう。周縁的知性の相互接続を分断されないための最低限の参照点を維持する必要がある。そのための言論の自由としては、ある意味で皮肉なことに、自由市場原理にとって自由主義などが重要であることから、東側世界よりも西側世界のほうが、言説を生存させるためには有益な基盤なのかもしれない。
しかし、西側の「言論の自由」とは言っても建て前であり、どんなに真実的な重要性があっても、言説支配によって強く否定された部分については、意識的に妥協して迂回する必要がある。しばしば国際世論を軽視して国際的な暴力の主体となっている中東の国や、あるいは金融的階層性と宗教や民族との何らかの相関性、第二次世界大戦の善悪に関する勝者の言説といった論点については、言及が事実上まったく許されない現実があると言わざるをえない。しかし私達が再生したいのは共感的な利他性の美徳であって、非難したいのはその抑圧であるから、特定の国や宗教や民族といった議論を迂回してまだ可能な議論は必ずあるだろうし、すでに理解している者同士においては婉曲な表現で意思疎通は可能だろう。
人類全体を覆う自己欺瞞の外側にある真実が互いに共振するネットワークを実現するための方法論は、以上の文章量によってはこのように整理してみることができた。ならばそのようなネットワークはいくつもすでに存在し、このような言及自体も実は多数潜在しているのだと考えられる。しかし私が見聞きしてきた範囲では同様のネットワークや語りは見られなかったし、それらが存在したとしても、世界中でそれを何度でも繰り返すことにこそ意味はある。そもそもが、絶望的な状況下でできることをするという「あがき」だからだ。論じているのは「叩く場所」の正しさについてであり、そこを叩きつづければ扉が開くなどという論証を私達は必要としてはいない。理不尽に虐げられる小さな者達の痛みに寄り添う感情が、エネルギーの根本なのであって、私達は理性で勝利を確信するよりもずっと前に、感情で勝利を確信することを絶対的に選び取る。
