昭和20年8月、工兵の絆と台風とマラリアが日本を救った
昭和20年8月15日に、北京で玉音放送を聞いた陸軍鉄道司令官の鎌田詮一中将は、軍医に自決用の青酸カリをくれと頼みましたが、拒否されました。
そんなときに、突然、連絡がありました。
東京の参謀本部から「大至急帰国せよ」と命令が届いたというのです。
鎌田中将は、理由がわからないまま飛行場に向かいました。
飛行場の飛行機は、連合国からの命令でプロペラが外されており、最後の1機に乗り込みます。
東京市ヶ谷の参謀本部で、川辺参謀次長に会いました。
川辺参謀次長から、「厚木飛行場でのマッカーサー元帥の到着の接待委員に指名する」と告げられました。
川辺は、マニラで、米陸軍のアイケルバーガー中将と米軍の日本進駐のための事前の打ち合わせをしてきたばかりでした。
怪訝な顔の鎌田に、川辺は言いました。
「選んだのは私ではなく、マッカーサー元帥だ」
鎌田の兵科は、工兵でした。
陸軍から京都大学工学部に出向して、コンクリートの研究を行いました。
その後,世界のコンクリートの最先端の研究をしていた米国イリノイ大学に留学をしました。
そして、米国陸軍の工兵連隊の大隊長として勤務するという異色の経歴を持っていました。
日本人の剣道の有段者が工兵連隊に来たことを聞きつけた米軍の軍医大佐が、フェンシングの試合をしようと持ちかけます。
この軍医はフェンシングの名人で、隊員たちにフェンシングを教えていました。
フェンシングと剣道ではどっちが強いか確かめようと提案したところ、鎌田はそれを受け入れたのです。
軍医とフェンシングの試合の結果は、鎌田が勝ちました。
その結果、この連隊では、鎌田が剣道を隊員たちに教えることになりました。
アメリカに道具はありませんでしたが、鎌田から連絡を受けた日本の陸軍が、練習用の竹刀、剣道着、防具一式を送ったのです。
まるで漫画のような話ですが、実話です。
工兵連隊で一躍有名人となった鎌田は、マッカーサーに面会しています。
工兵出身のマッカーサーは、同じ工兵の日本のサムライを覚えていたのです。
昭和20年8月28日、厚木飛行場に、テンチ大佐の指揮する米軍の先遣隊150人が降り立ちました。
米軍は相当警戒しており、日本側がテントを張って待っていたところから、一番離れた場所に飛行機を到着させました。
接待約の日本人将校が対応しますが、テンチ大佐は無表情で、警戒を解きませんでした。
日本側が苦労して用意したジュースやサンドイッチにも、まったく手を付けません。
「本日の接待役の名簿を見せてくれ」
テンチ大佐は言いました。
日本側から差し出されたリストを見て、ローマ字で書かれた人名を指でなぞりました。
「この人物をここに呼んでくれ」
テンチ大佐は大声で言いました。
しばらくして、鎌田がやってきました。
無表情だったテンチ大佐が、急に笑顔になりました。
そしてテンチ大佐は、鎌田を見ていきなり抱きついてきたのです。
二人は抱き合って喜びました。
周囲の米国人と日本人は、あっけに取られました。
テンチ大佐は、鎌田が大隊長のときに工兵連隊にいたのです。
テンチ大佐と、上官だった鎌田は、厚木飛行場での再会を喜び、さっそく打ち合わせを始めました。
二人によって緊張が解けた米軍の先遣隊員たちは、日本側が準備したサンドイッチとジュースを初めて食しました。
先遣隊の工兵たちにより通信施設の設営を終えた米軍は、マッカーサー元帥宛てに電報を打ちました。
「日本側の対応は、完全に我が意を満たすものである」
マッカーサーから、返事がありました。
「先遣隊の奇跡的無事を、心から満足す」
このとき関東平野には、本土決戦のために結集した精強な日本軍兵士が約30万人もおり、米軍はうまくいくとは思っていませんでした。
2日後の8月30日、マッカーサー元帥の乗ったバターン号は、厚木飛行場に舞い降りました。
マッカーサーは、武器は何も身につけておりませんでした。
マッカーサーが厚木から横浜に車で向かう間、護衛したのは日本軍兵士です。
中東のイラクやアフガニスタンでの紛争のことを思うと、絶対にありえない光景でしょう。

9月2日に米国の戦艦ミズーリ号の船上で、日本と連合国との降伏文書の調印式が行われました。
洋上で行ったのは、関東に日本軍の大部隊がいたためです。
地上で行った場合に、もし降伏に反対する部隊が攻撃してきたら、抵抗するだけの力は米軍にはありません。
そのために、絶対安全な船上で行いました。
調印式が行われた場所は、幕末に黒船でやってきたアメリカ海軍のペリー提督が停泊したところでした。
ミズーリ号には、ペリーが持ってきたアメリカ合衆国の国旗がありました。
ミズーリ号を選んだ理由は、米国のトルーマン大統領の故郷ミズーリ州の名前がついた戦艦だったからです。
こうした史実を知って、米国人もけっこう縁起をかつぐ人種だと思いました。
日本側で降伏文書に調印したのは、政府代表が外務大臣重光葵、軍代表が参謀総長梅津美治郎です。
二人とも大分県出身でした。
ミズーリ号に対抗して、戦艦豊後でやればよかったかも。
戦艦日向はありますが、戦艦豊後はありませんでした。残念!

昭和20年8月15日に、昭和天皇が国民にむかってラジオで演説して、日本人は戦争に負けたことを知りました。
前日の14日、日本政府は中立国を通じて連合国に対して、ポツダム宣言を受諾して降伏することを伝えています。
米国からは日本政府に対して、8月19日にマニラに打ち合わせに来るように命令が届きました。
そのため、陸軍参謀本部の川辺参謀次長を団長とする日本政府の使節が、マニラに派遣されました。
日本軍の中には、降伏を承服していない軍人もいましたので、途中で日本軍の飛行機に撃ち落とされないか、ひやひやのフライトだったのです。
米軍は、神奈川県の厚木にある海軍の飛行場のコンクリートの厚さを聞いてきました。
米軍は、日本側の回答を聞いて、コンクリート量が十分で、多くの飛行機の着陸に耐えられると判断しました。
無傷で首都圏に近い、この飛行場から日本本土に進駐することにしたのです。
8月26日までに、受け入れのための準備を完了するように命令されました。
厚木の飛行場は、第302海軍航空隊の基地がありました。
基地の司令は、小園安名大佐です。
小園大佐は、8月14日の日本政府が出したポツダム宣言受諾の電報を傍受し、徹底抗戦を叫んでいた軍人でした。
最後まで徹底抗戦をするようにビラを撒き、
総理官邸に低飛行で飛んで威圧し、
他の部隊に行って「武装解除はするな!」
と徹底抗戦を呼びかけていました。
米内光政海軍大臣は、こうした小園大佐の行動に激怒して、やめさせるように命じました。
小園大佐は、上官の命令を聞きません。
同期に皇族の高松宮大佐がおりましたが、宮様が言ってもいうことを聞きませんでした。
小園司令のまわりには、元特攻隊員のパイロットたちが集まり、厚木飛行場に籠城しました。
米軍が日本進駐に指定したのは、よりによって、この飛行場でした。
8月26日までに、厚木飛行場にあるすべての飛行機のプロペラと車輪を外して武装解除し、米軍部隊の受け入れが可能な状態にすることは困難な状況でした。

このとき奇跡が起こります。
小園司令は、8月20日に突然40度Cの高熱が出て、うわごとをいうようになったのです。
ラバウル時代に罹ったマラリアの再発でした。
診察した軍医は、精神錯乱と判断して、大量の鎮静剤を射って、小園司令を海軍病院に緊急入院させました。
首領が急にいなくなったので、反乱隊員たちは「烏合の衆」となり、他の飛行場に逃亡しました。
こうして厚木飛行場は、静かになりました。
しかし、反乱部隊に徹底的に荒らされた厚木飛行場は、受け入れ準備完了にはほど遠い状態でした。
26日までには、到底間に合いません。
そのときに、米軍から連絡がありました。
台風による天候不良のために、28日に延期するという内容でした。
厚木飛行場の受け入れ担当者たちは、天に感謝しました。
28日に、米軍の先遣部隊が厚木飛行場に到着しました。
30日に、マッカーサー元帥が厚木飛行場に到着します。
有名なサングラスにコーンパイプで、武器も身につけておらず、いわゆる「丸腰」での登場でした。
小園大佐は、日本最後の軍法会議で有罪となり、昭和25年まで収監されています。
その後は、故郷の鹿児島に帰って暮らしました。
マラリアと台風が、日本を救ったかもしれません。
