アメリカ合衆国食品局の局長で、のちに大統領となるフーバーは、ドイツと日本の子供たちを救った
アメリカの第31代大統領ハーバート・フーバーについて知っている日本人は特殊な人かもしれません。
アンドリュー・ドイグ著、秋山勝さん訳の「死因の人類史」を読んで、フーバー大統領の記述があるのに驚きました。
1914年~1918年の第一次世界大戦で、ドイツはフランス、英国、ロシアなどを相手に戦い、最終的に米国が参戦してとどめを刺されました。
戦場での戦いだけではなく、銃後の国民まで巻き込まれる「総力戦」の時代となっていました。
英国とドイツは、ともにアメリカからの輸入でもっていました。
英国の戦略は、陸上の戦いはフランスとロシアに任せて、強力な海軍力を使ってドイツを海上封鎖することでした。
この結果、ドイツは輸入ができなくなり、これまで輸入に頼ってきた食糧がドイツ国内で不足するようになります。
デンマーク産の乳製品が入ってこなくなり、脂肪が極端に不足するようになりました。
1915年初頭には、ドイツ国内からジャガイモがほぼ姿を消します。それに続いて小麦も底をつきました。
1916年には、ほぼすべての食料品と燃料が配給制となります。
通常は豚の餌にしかならない不味いカブを食べ、どんぐりを挽いたカフェインなしのコーヒーを飲むようになりました。
1916年の平均的なドイツ人の一日の食事量は1700キロカロリー、1917年から18年は1500キロカロリーとなります。
平均的な国民の体重は、1917年末の時点で、15~20%減少していました。

1918年11月11日にドイツは休戦協定に調印をしました。
戦闘は停止したにもかかわらず、海上封鎖は続けられました。
ドイツに戦争責任を負わせる報復的なヴェルサイユ条約にサインさせる武器として、海上封鎖が使われていたのです。
最終的に封鎖が解かれたのは、1919年7月で、休戦から8か月後でした。
1914年から1919年の海上封鎖でドイツ人は、77万人以上が餓死したといわれています。
ドイツの1914年から24年にかけて測定された約60万人の学童の身長と体重などの記録がありました。
それによると、1910年に生まれた子供には、6歳から13歳までの間に栄養失調の兆候が見られ、1918年がそのピークでした。
大戦前の子どもに比べ、どの子どもも背が低く、体重も劣り、低身長でした。

戦争が終わると、多くの慈善団体や宗教団体がドイツの貧しい子供に食料を提供する手助けをしました。
アメリカ合衆国食品局の局長で、のちに大統領となるフーバーーは、食料と医薬品の輸送に心から努めました。
イギリスとフランスが反対しましたが、「アメリカは、ドイツの幼児と戦っているのではない」と敢然と答えて事業を断行しました。
フーバーは、クエーカー教徒が設立した奉仕団からの食料援助を受け、ドイツの子供達に提供しました。
こうした支援の結果、ドイツの子供の健康状態は著しく改善され、1923年には身長と体重は大戦前の水準に戻りました。

第二次世界大戦で、日本と戦争をしたアメリカは、飛行機を使って海上封鎖をしました。
B-29による焼夷弾での都市の空襲が有名ですが、海上に機雷を直接投下して、海上を航行不能にしたのです。
これにより食料の海上輸送はストップします。日本中の国民が飢えました。
この状況は1945年8月の終戦後も続きます。さらにこの年は凶作でした。
1946年5月に来日したフーバーは、日本国民の窮乏ぶりを見て驚きます。
一日あたりの配給が1000キロカロリーを下回るような危機的状況にありました。
フーバーは、本国への報告書で、「もし食料を供給しなければ、日本で数百万人が餓死し、深刻な暴動が起きる」と警告しました。
当初、アメリカ人たちは「日本を甘やかすな」、「アジアの他の国を差し置いて日本を支援することはしない」と厳しい態度でした。
共和党のフーバーは、「共産主義の浸透を防ぎ、民主主義を根付かせるためには、ます腹を満たさなければならない」と、こうしたアメリカ人を説得しました。
フーバーの尽力により、アメリカの占領地域救済政府資金(ガリオア基金)が日本への食料援助に優先的に振り向けられることになりました。
大量の小麦と脱脂粉乳がアメリカから届けられました。
1946年から始まった日本の学校給食は、フーバーの尽力によるところが大きく、当時の子供たちの栄養状態を劇的に改善しました。
フーバーは政府ベースの援助だけではなく、民間援助団体の活動も強力にバックアップしました。
ララ物資が有名です。LARA(公認アジア救済連盟)は、衣類、医薬品、ミルクなどの支援物資を日本に送り、それが福祉施設や学校に配られました。
フーバーは、日本を離れるときに、合衆国大統領だったときの部下の陸軍参謀総長のマッカーサーに対して、次のような言葉を述べています。
日本を救うことは、アメリカの義務であり、将来の平和への投資である。

同じ頃に、日本の吉田茂首相も、マッカーサーに対して、日本人は餓死に直面していると、450万トンの緊急食料提供を要請しました。
マッカーサーは、「日本の統計では、そこまで食料は足りてなくはないはずだ」と反論しました。
吉田首相は、「もし日本の統計が正確だったら、あのような無謀な戦争はしておりません」と平然と言い返しました。
このユーモアを交えた機転にマッカーサーは苦笑いし、緊急食料提供を決定しました。
フーバーが関わったララ物資が1946年11月に横浜港に到着しました。
そのとき吉田首相は自ら出迎えに行き、深い感謝の意を表明しています。

横浜の山下公園に行ったときに、皇后陛下が詠まれた御歌が刻まれた「ララ記念碑」がありました。
あたゝかき 人らの心 うちつどひ
みのりし 愛は 限りなかりけり
ララ物資により子供達の飢餓を救ったフーバー元大統領のことを忘れてはいけません。
この近くに、童謡「かもめの水兵さん」の歌碑もありました。
このため「ララ~カモメのー水兵さん」と口ずさめば覚えられます。
サザンオールスターズの「勝手にシンドバット」の出だしで(違うか)。
