関東に上陸する「コロネット作戦」が決行されていたら茅ヶ崎と宮崎出身者で構成されるサザン・オールスターズは誕生しなかった
昨年の宮崎空港の不発弾爆発には驚きました。
数日前に宮崎空港で発着していたので、なおさらです。
危なかった……。
今から約80年前の昭和20年には、
宮崎空港は海軍の赤江飛行場で、
特攻機が飛び立つ基地でした。

米軍は、この飛行場に対して500ポンド爆弾を300発も落としていたということなので、
不発弾が見つかってもおかしくないそうです。
しかも火薬はなかなか劣化しないそうで、
80年たっても普通に爆発するとのこと。
今更ながら、戦争のすさまじさを感じます。
宮崎には、さまざまな戦争の跡が残されています。

昭和20年11月1日には、
「オリンピック作戦」という名前で、
宮崎市の一ツ葉海岸、志布志湾、鹿児島の吹上浜の3カ所から
米軍が上陸作戦を
決行することになっていました。
その前に、宮崎県内の飛行場は徹底的に狙い撃ちされて、無力化されています。
ポツダム宣言を受諾せずに戦争が続いていたら、
宮崎県内の多くが戦場となり、
私はこの世に生まれていなかった
かもしれません。
日本軍は、
米軍のオリンピック作戦の上陸地点、使用する師団数などをほぼ正確に予測していました。
志布志湾には地下壕をつくり、
霧島山に籠城して抵抗する態勢を
構築していました。
米軍も南九州の日本軍の布陣状況を調べており、約60万人が動員されていることを
つかんでいます。
米国陸軍のマーシャル参謀総長は、
日本軍の抵抗を考えて、
原爆を3箇所に3個ずつ使用することを考えた
と戦後語っています。
米軍が11月1日に上陸日を設定したのは、
台風が来るのを避けたからです。
沖縄に上陸した日は、
台風の来る前の4月1日です。
沖縄を米軍が制圧したのは、
台風シーズン直前の6月23日。
沖縄を落とすのに3か月もかかったことは、
日本本土侵攻を目指す米軍にとっては
大きな誤算でした。
それだけ、沖縄の日本軍の徹底抗戦がすさまじいものだったのです。
沖縄戦を描いた映画に「ハクソーリッジ」
があります。
監督の日米両軍の兵士たちへの
リスペクトが感じられる映画で、
もし機会があればご覧下さい。
主役は衛生兵です。
医療関係者は、
モルヒネの注射に注目して下さい。
日本軍の後方の野戦病院では常に麻薬が不足してましたが、米軍は最前線の衛生兵にモルヒネを持たせるほど潤沢でした。
衛生の戦いでも
アメリカ軍には、かないませんでした。

九州の次は、関東に上陸する「コロネット作戦」が計画されていました。
主たる上陸地点は、相模湾と九十九里浜。
上陸日は、昭和21年3月1日です。台風の時期を外しています。
米軍は、
最終兵器としてサリンの使用も考えていました。
もし、決行されていたら
神奈川県茅ヶ崎出身者と宮崎市出身者で
構成されるサザン・オールスターズは
誕生しなかったかも知れません。
相模湾の主力部隊とされたのは、
米陸軍の第8軍でした。
終戦後に第8軍は、
日本の首都圏に駐留しました。
司令官はアイケルバーガー中将です。
ニューギニアで日本軍と戦った
アイケルバーガーは、その強さに驚嘆して、
いつか日本軍を指揮してみたい
と思ったそうです。

米軍兵士を「鬼畜」だと思っていた日本人は、
陽気でフランクで笑顔の
米軍兵士を見て驚きます。
一方、硫黄島や沖縄の戦闘を
知っている米軍兵士にとって、
日本兵は恐怖でした。
日本本土での戦闘はもっと凄惨なものになる
と覚悟していた米軍兵士たちは、
戦争が終わって、
平和裡に相模湾から上陸することができて
自分たちの命が助かったことに
ほっとしていたのです。

沖縄の摩文仁の丘に平和の礎があります。
沖縄戦で亡くなった日米両軍の兵士の名前が
刻まれています。
富山県にいたときに、
戦没者の家族の代表と
県会議員と一緒に慰霊に行きました。
このときに、
宮崎県出身者のところに行ってみました。
椎葉姓が4人いたことを覚えております。
県内外に残る戦争の遺跡や慰霊碑を見ると、
戦争をしてはいけないと思います。
どうしたら戦争を予防できるのか、
そうしたことを考えるためにも、
歴史を知ることは大事です。
戦争をすると多くの人が亡くなったり、
病気になります。
つまり戦争を防ぐことは、公衆衛生です。
戦争を予防するため、戦争による被害を最小限に抑えるためにも、戦争と医学の関係を学ぶ必要があります。
