戦争の記録は、軍医や衛生兵の書いたものが一番客観的である
国立病院機構相模原病院の前身は、
昭和13年に開設された東京第三陸軍病院です。
リハビリテーションを行うために造られました。
日中戦争による戦傷者を治療するために急きょ、建設されています。
敷地面積は10万坪、患者定員2700人、
最大収容患者4500人の予定でしたが、
一時は6000人を超える患者を収容しました。
木造平屋建てで、54病棟、
食堂5棟を含む80棟が
長い廊下でつながっていたそうです。
昭和12年12月に工事が開始され、
翌年3月1日に開業するまで、
昼夜兼行の病院建設が進められました。
突然の工事で建設されたので、地域の住民からは「野戦病院」と呼ばれたそうです。
勤務する医師は、東大の整形外科から、
多くの医師が招集されて、
この病院に勤務しました。
当時の軍の召集令状は無敵でした。
うらやましいくらいです(失礼)。
漫画家の水木しげるさんが、
ラバウルで左腕を切断しました。
水木しげるさんが、
終戦後に日本に帰国してから、
まずこの病院に行って
左腕の傷跡の再手術を受けています。

東京第三陸軍病院の本名文任病院長は、
警察予備隊が創設されるときに、
少将相当の「衛生監」に就任します。
政府から熱心に説得されて、やっと警察予備隊に入隊することになりましたが、
制服を着ることが苦手でした。
米軍の軍事顧問団の幕僚長で、
警察予備隊の創設を担当してコワルスキー大佐の回顧録には、
本名衛生監のことが書かれています。
コワルスキー大佐が、米国人の衛生主任を呼びつけて命令しました。
「衛生監の服装をなんとかしろ!」
「やってみますがね……。奇跡を起こすことはできませんよ」
コワルスキー大佐は書いています。
「本名衛生監は、医師にありがちなことだが、制服に関して独自の見解を持っていた」
どんな先生だったのか、
大変気になるところです。
水木しげるさんの命を救ったラバウルの軍医は、軍刀をいつも忘れるユニークな軍医でした。
ペスト菌の発見者の一人である
フランス人のエルサンは、
フランス軍の軍医大佐でしたが、
軍服を着たことがありませんでした。
どうも医師には変わった人が多いようです。
しかし、軍事研究家の保坂正康氏は、
「戦争の記録は、軍医や衛生兵の書いたものが一番客観的だ」
と言っています。
元海上自衛隊で潜水艦の艦長もしている中村秀樹氏も、
「潜水艦の記録では同乗した軍医が書いたものが一番優れている」
とありました。

患者の症状を観察して正確にカルテに記載することが、ヒポクラテス以来の医学の伝統です。
服装よりも、事実を記録に残すことの方が大事だったのでしょう。
医師法の第24条には、「診療をしたときは、遅滞なく診療に関する事項を診療録に記載しなければならない」とあります。
私が医師になったばかりの頃は、
先輩医師の書いたカルテは、
はっきり言って読めませんでした。
病棟の看護師さんから、
これは何と書いているの、
と聞かれたことが何度もあります。
英語なのかドイツ語なのか日本語なのか、
イミフの記号が書き連ねてありました(失礼)。
電子カルテの最大の効果は、
病院長が、
病院に勤務する医師の診療録(カルテ)を読めるようになったことです。
診療録を見れば、その医師の実力が分かります。
つまり、個々の医師を評価することができるようになった訳です。
また、カルテの保存は病院にとって負担でしたが、電子化することで場所を取らなくなりました。
病院外のデータセンターなどで保存すれば、
たとえ病院本体が災害で被害にあっても
カルテは維持されます。
紙カルテは水に浸かったら
もはや使用は不可能ですが、
電子カルテは災害に強く、すぐ復活できます。
電子カルテは
それぞれの病院でカスタマイズされていますので、これを全てつなぐことは困難です。
しかし、臨床現場で使う重要な項目は、共通なプラットフォームで使えると便利です。
特に退院時サマリー、画像データは重要です。
こうした病院間の医療情報の共通化の取り組みは、今後加速的に進められていくと思います。
