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「上野公園を守ったボードウィンに学ぶ置かれた場所で咲きなさい」というビジネス書は難しい

ボードウィン(一八二〇~一八八五年)というオランダ人の軍医がいます。ひょんなことから日本の歴史に名前を残しています。

オランダ陸軍軍医で、1862(文久二)年、ポンぺの後任として来日しました。

ウトレヒト陸軍医学校の教官をしており、外科の中でも眼科が専門でした。

長崎小島療養所の教頭として医学教育を実施しました。

1865年には、「精得館」と名前が変わります。

1867(慶応三)年に、幕府から新しい医学校の準備を委ねられて一旦帰国しました。

帰国の際は、緒方惟準(洪庵の次男)と松本銓太郎の二人の医学留学生を引率しています。

帰国中、戊辰戦争が起こって政権が変わります。

ボードウィンがヨーロッパから日本に送った病院用の器材は、明治政府に没収されてしまいます。

さらに、医学校教官の首座も、戊辰戦争で新政府軍の軍医を務めたイギリス人医師ウィリスに奪われることになったのです。

ボードウィンは、精得館の弟子たちになだめられ、1869(明治二)年に、大阪軍事病院の医師として処遇されました。

弟子には、ドイツ医学採用のために尽力した相良治安と岩佐純がいました。師匠の怒りを鎮めたのは、この二人です。

大坂の軍事病院に勤務していたときに、暗殺事件で傷を負った大村益次郎の治療を実施しています。

相良治安と岩佐純は、ドイツから医師を教官として招くことを決めました。ウイリスを解任して、ドイツから医師が到着するのを待ちました。

ところが、医師が来ません。

ヨーロッパでは普仏戦争が起こっており、予定していたドイツからの医師が赴任できなかったのです。

東京医学校の学生たちが、「話が違う!」と騒ぎ出しました。

相良と岩佐は、その間の「穴埋め」として恩師に、東京医学校の教官としていくようにお願いしました。

ボードウィンは、1870年に帰国しました。

上野公園を守った恩人として公園内に像があります。

当初、日本政府は、上野の場所に医学部をつくることを計画していましたが、ボードウィンは、このような風光明媚な場所はそのまま公園として残した方がいいと進言しました。

日本人は公園というものを知りませんでした。しかし、ボードウィンの進言に従って、計画を変更して現在東京大学医学部のある本郷の加賀藩の屋敷に決めたのです。

相良治安は最後まで、上野にこだわっていましたが、恩師に従います。

上野公園ができた100年後の1973年に、「公園の生みの親」としてボードウィンの銅像が建てられました。

しかし、銅像の顔が、領事として日本に勤務していたボートウィンの弟だったことが判明しました。コラーっ!

2006年に本人の写真を入手して作り直されました。現在の像は本人の顔となっています。

ボードウィンの日本での処遇は、ついていない人の典型のように思います。

来日したときは四〇歳で、医学校の教官をしていた実力者でした。

歴史に翻弄されましたが、いずれの場所でも最善の仕事をして、乗りきったと思います。

大村益次郎は死ぬ前の最後の手紙に、主治医のボードウィンの実力を認めて、処遇をなんとかするように政府の高官に伝えています。

東京医学校にピンチヒッターとして単身乗り込んだボードウィンに対して、荒ぶる医学生たちは静かに従って、帰国の際には、恩師ボードウィンを真ん中に全員が集合した写真が残されています。

さらに医学とは関係はありませんが、上野公園に銅像を残しました。

上野公園が現在のように残っているのは、ボードウィンのおかげです。

ボードウィンのように生きたいと思います。

ボードウィンに学ぶ置かれた場所で咲きなさい」というビジネス書を書こうかしら。

「誰?」と秒で企画書で落とされそうですが……。

この話は、明日に続きます。


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