吉幾三さんの「酒よ」は酒乱系ソングの頂点に君臨し、黒田清隆に想いを馳せる歌である
薩摩出身の黒田清隆は、
北海道開拓使の次官から長官となり、
北海道の発展に寄与しました。
アメリカに渡って、
ケプロン農務長官を北海道に連れてきて、
米国式の農業を導入しました。
また、札幌農学校を設立して、
クラーク博士の教育を支援しています。
札幌農学校は、現在の北海道大学です。
クラーク博士の
「少年よ、大志を抱け!」
の格言は有名です。
大学がブランド化して
観光地になっているのは、
札幌の北海道大学だけでしょう。

後に黒田清隆は公爵となり、
「黒田公」と新聞では敬称で書かれました。
あるタブロイド誌は、
黒田公(くろだこう)をもじって
「黒蛸(くろだこ)」
と書いて徹底的に攻撃非難しています。
酒に酔って奥さんを刀で斬った
という噂を流されたこともあります。
黒田清隆は、
かように評判の悪い政治家でした。
キリスト教を布教した内村鑑三は、
政府の政策には批判的でしたが、
「自分が今のようになったのは、黒田公が設立した札幌農学校の教育のおかげであり、黒田公がいなければ自分は無かった」
と、世間に流れる黒田批判には同調せずに、
感謝しています。

黒田清隆の北海道でのもう一つの功績は、
屯田兵を置いたことです。
ロシアに対する防衛と北海道の開拓の、
あえて二兎を追う作戦を展開しました。
屯田兵は、西南戦争の際は、
黒田の命令で出征しました。
このとき、屯田兵を率いたのは、
同じ薩摩出身の永山武四郎です。
黒田は、西南戦争で八代海沿岸の
日奈久への上陸作戦を決行します。
上陸した黒田の部隊は、
熊本城を囲んだ西郷軍の背後から攻撃して、
田原坂にいる主力部隊よりも先に
熊本城に入城に成功しました。
敵の背後に上陸して攻めるというのは、
朝鮮戦争のマッカーサーの
仁川上陸作戦の展開に似ています。
北朝鮮軍は、これにより総崩れとなりました。
仁川も日奈久も干潮と満潮の差が大きく、
上陸は不可能だと油断しておりました。
もしかしてマッカーサーは、
黒田清隆の上陸作戦を研究していたかも。

西南戦争後に、
屯田兵は明治天皇の名誉の観閲を受け、
慰労のお言葉をいただいております。
屯田兵は、
後に最強師団と言われる
旭川の第七師団となりました。
初代師団長は、永山武四郎です。
永山は、「屯田兵の父」と呼ばれています。
永山は東京慈恵会医大を創設した
高木兼寛の友人でした。
息子の永山武美は、
軍人にはならずに
慈恵医大に入学して医師となり、
慈恵医大の第3代の学長を務めています。
黒田清隆は、日奈久上陸作戦で、薩摩の先輩で尊敬していた西郷隆盛を翻弄させました。
明治10年9月24日に、
西郷隆盛が鹿児島の城山で自決してからは、
黒田は酒浸りとなり
酒乱状態となってしまいます。

黒田清隆は、
五稜郭の戦いで最後まで新政府に抵抗した榎本武揚を助命して、ロシア駐在公使にしたり、
米国の大規模農業を北海道に導入したり、
米国人の博士を連れてきて農学校を建設したり、女性を岩倉使節団に参加させるなど、
スケールの大きな政治家でしたが、
酒が原因でいまいち大成しませんでした。
司馬遼太郎さんは、黒田清隆に好意的です。
一方、同じく総理になった長州の山県有朋、寺内正毅や、榎本武揚には大変厳しい評価をしております。
黒田清隆は、
北海道をロシアからの脅威から守り抜き、
アメリカの大規模農業を導入させ、
札幌の街を整備し、
大学をつくり、
後の女性活躍の種をまき、
西南戦争での政府軍勝利のターニングポイントを引き寄せた
という輝かしい功績があります。
しかし、酒乱という弱点がありました。
若山牧水は酒の歌をたくさん詠んでいます。
白玉の歯にしみとほる秋の夜は
酒はしづかに飲むべかりけり
牧水はいわゆるアルコール中毒でしたが、酒乱ではありませんでした。
黒田清隆を思い出す曲が二つあります。
「酒と涙と男と女」です。
まさに黒田清隆の生まれ変わりのような酒乱系ソングを歌った河島英五さんは、後に、1日二杯の酒を飲む時代おくれの男になりたいと方針転換しました。
違うか。
吉幾三さんの「酒よ」もまた、酒乱系ソングの頂点に君臨し、黒田清隆に想いを馳せる歌です。
あの頃を振り返りゃあ 夢積む船で
荒波に向かってた 二人して
男酒 手酌酒 演歌を聞きながら
なぁ酒よ お前には わかるか なぁ酒よ
この歌は、箱館五稜郭の戦いと西南戦争でともに戦った山田顕義と黒田清隆という二人の将軍のことを歌っていると、私には思えてなりません。
深読みし過ぎかしら。
やはり、牧水のように、
少しかんがえて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏の夕暮れ、
くらいがちょうどいいかな。
