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麻薬のマネジメントは、安全保障であり公衆衛生である。これを誤ると国が滅びる

浦部登さんの「霊園から見た近代日本」(弦書房)は、公衆衛生に満ちた本です。

アヘンをめぐって明治16(1883)年に長崎で日清双方の騒乱事件が起きた話を書いています。

清国の長崎居留地で清国人がアヘンを吸引していたために日本の巡査が連行しようとしたことから死傷者を出す乱闘になりました。

清国側は治外法権を主張して日本の警察が介入することを拒みましたが、日本側としては、アヘン中毒によって日本人遊女4人が中毒死しており、このアヘンが一般の日本人に出回ることを非常に恐れていました。

清国は、イギリスが持ち込んだアヘンによって官吏から下下までもがアヘン吸引の常習者となっており、清国人にとってアヘンを禁止されることは絶食を強いられるに等しいことでした。

日本と清国は明治三(1870)年に日清修好条規を結んでいました。

内容としては欧米列強と締結した不平等条約と同じで、清国人が禁制のアヘンを吸引しようが、所持していようが、日本側としては処罰をすることはできませんでした。

しかしながら、安政五(1858)年にアメリカと締結した日米修好通商条約にはハリスから、アヘン貿易禁止条項挿入の申し出がなされ、このアメリカと締結した条約内容でそのまま他の欧米列強とも締結をしました。

清国だけは李鴻章の強い要望でアヘン貿易禁止条項が外されてしまい、このために長崎でのアヘン吸引を原因とする騒動が起きたのです。

日清戦争後に、台湾が日本の領土に組み込まれました。

台湾総督児玉源太郎の下で、民政局長となったのが後藤新平です。

後藤は、道路、都市計画、築港、鉄道敷設、上下水道を整え、製糖、林業などの産業を興していきました。

浦辺さんは、医師でもある後藤の民生局長としての最大の功績はアヘンの漸減措置だとおっしゃっています。

アヘンの吸飲者に対して警察力で厳しく取り締まることはできますが、その土地の風土に合わせた行政を行い、教育によってアヘンの吸飲者、吸引量を減らしていくというものです。

長崎でのアヘン事件で証明されたように、警察力で押さえつけると暴動に発展するという経験則が台湾では活かされたということです。

現在、アジアではアヘンを含む覚せい剤の所持、使用に関しては極刑ですが、容易に国を滅ぼすものであることを過去の経験から知っていることからの厳罰措置なのだと思うと、浦部さんは言っています。

麻薬のマネジメントは、安全保障であり、公衆衛生です。

これを誤ると国が滅びます。


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