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病院と診療所の違いは、病床数だけではなく、科学的な診療が受けられるかどうかである

日本人は、病院と診療所の区別がつきません。

クリニックに行っても、
病院に行ってきたと言います。

昭和23年に制定された医療法では、
病床数で20床以上が病院、
19床以下または無床が診療所
であると規定されています。

病院と診療所の区別は、
病床の数だけだと思っている人もいますが、
それは間違いです。

医療法では、
「病院は、傷病者が、科学的でかつ適正な診療を受けることができる便宜を与えることを主たる目的として組織され、かつ、運営されるものでなければならない。」
とされています。

一方、診療所には、
このような規定は設けられていません。

この病院の規定は、
戦後の日本を統治したGHQが入れた
と言われています。

当時の日本の法律では
10床以上が病院とされていました。

米国人医師の目には、
日本人の言う「病院」は、
医師の自宅のようなところで、
非科学的な医療が、
金儲けのために行われている
ように映ったのです。

その裏返しの規定です。

欧米では、病院と診療所は峻別されています。

診療所は開業医が経営するものですが、
入院させるベッドを持つ病院は、教会や国王などの公的な機関が管理運営しています。

欧米における病院の歴史を見ると、
宗教や自治体が果たした役割が大きい
ことが判ります。

現在まで伝わる世界最古の病院と呼ばれるのが、フランスのパリにある「オテル・デュー」です。

651年に、パリの司教ランドリーが、
シテ島にオテル・デューを創設しました。

「神の家」という意味です。

この病院は、
パリの富裕者たちから資金の提供を受けました。

この病院の目的は、
当初は、貧困者や病者を収容して、
食事や避難所を与えるためのものでした。

病気を治して、 
社会に復帰させることは
期待されていませんでした。

中世になると、
貧困者と病者の最後のとりでとして、
極めて混み合いました。

この時代においても、
医療はほとんど行われていませんでした。

1580年に、
医師が患者を週2回訪問して
治療をするよう命令が出されました。 

しかし、
3500人の貧困者と病者が群れており、
1つのベッドを最高6人で共有していました。

また、
精神病、ハンセン病、結核の患者が区別されず
一緒に収容されており、
極めて不健康な場所となっていました。

時代が変わって、
18世紀になると、
内科医が8人、外科医が100人
ほど雇われるようになりました。

フランス革命後に
パリには新たに病院が建設され、
専門化して、
精神科、性病、小児、老人用
の病院に分かれました。

オテル・デューは、
現在もパリ市民が利用しています。

中世のヨーロッパでは、
病院の大半を運営していたのは、 
修道士と修道女でした。

天国での宗教的な見返りを得たい
と願う貴族から、
多額の寄付を受けていました。

寄付をする貴族は、しばしば、
「治療」に値する貧困者
「治療」に値しない者
とを区別
しようと試みました。 

16~17世紀の 
プロテスタントの宗教改革者は、
天国での地位を金であがなえる
という考えを退けました。

このためプロテスタント諸国では、
病院は、教会ではなく、
君主や自治体が資金を提供する
世俗の施設となりました。

慈善家や寄付者は、引き続き重要な存在でした。

病院は、次第に貧困者ではなく、
病者のための場所に変わっていき、
貧困者は、
救貧院に収容されるようになっていきます。

フランス革命では医学の革命も行われ、
内科と外科の医師は
同格に扱われるようになりました。

こうして外科医が
一般病院や精神科病院で治療に従事し、
研究もできるようになりました。

1859年にナイチンゲールは、
病院に看護師養成施設をつくります。

看護の専門職が誕生したことにより、
近代的な病院医療が
発展していくことになります。

現在の欧米諸国では、
病院の多くは教会や自治体など
公の団体が運営し、
慈善家からの寄付も多く受け付けています。

日本では、
開業医による診療所は昔からありましたが、
入院させて治療を行う形態の
「病院」が開設されたのは幕末のことです。

寺や神社が、
寄付を受けて病院運営を行うという歴史は、
ほとんどありませんでした。


日本に、患者を入院させて治療を行う病院
という「概念」を持ち込んだのは、
3人の欧米人です。

戦国時代の大分に、
アルメイダというポルトガル人の 
医師免許を持つ宣教師が、
入院させて治療を行う病院を開きました。

幕末の長崎に、
ポンペというオランダ人の軍医が、
西洋式の病院(長崎療養所)を開いて、
西洋医学を日本人に教えました。

戦後の日本に、
サムスというアメリカ人の軍医が、
科学的な病院管理方式を、日本人に教えました。

サムスは、国立の病院管理研究所をつくって、
日本国中の病院長を集めて
病院管理学を広めようとしました。


医学部の中には、
病院管理学講座が設けられたところもありました。

しかし、
我が国では、病院管理学は発達しませんでした。

病院管理は、経営学、労務管理、マーケティング、マネジメント、リーダーシップ
など企業経営と類似しており、
こうした医学以外の観点からの
病院経営の研究は、
我が国ではほとんどなされませんでした。


病院経営は、本当に大変だと思います。
医学だけでは、マネジメントはできません。

様々な課題がある中で、
「人口減少」が最大の敵でしょう。

人口減少により患者が減ると同時に、
医療従事者の確保が難しくなります。

患者の減少は、入院者の減少を意味します。

病床数を維持するには、
たとえ患者が入院していなくても
診療報酬で定められた一定数の看護師
が必要です。

こうした病床は、「コスト」になります。

昔に比べると、
多くの住民に「予防」の知識が浸透して
病気に罹りにくくなりました。

タバコを吸う人は、本当に少なくなりました。

私が労働省に勤務したときの最初の仕事は、
課の職員の机の上にある灰皿掃除でしたので、
隔世の感があります。

アフターコロナ時代の患者の多くは、
さまざまな制約のある入院治療ではなく、
外来や在宅での治療を希望
しています。

現在の病床は、
医療法による病床規制が設けられる以前の
1970年代にもうけられたもの
が大半です。

1970年代といえば、
宮﨑市には、山形屋の他に橘百貨店、寿屋、ユニード、宮交シティ(ダイエー)があり、 
延岡市には、アズマヤ百貨店、寿屋がありました。

このうち今も残っているのは、山形屋だけです。

金融機関である銀行は合併を繰り返し、
1970年代のときの名前は
ことごとく変わっています。

農協も、合併して宮崎県内で一つになりました。

医療界においては、
人口減少と顧客ニーズの変化をどう受け止めて、今後のサービスをどのように
展開していくのかが「鍵」となります。

地域医療構想は、
病院医療における今後のサービス展開
を考えるものです。

この機会を利用して、
それぞれの病院が生き残るための
ポジショニングと機能を
真剣に考えてもらいたい
と願っています。

それにしても、
現在、ドンキホーテのある場所にあった
橘百貨店で売られていた「橘まんじゅう」
が懐かしいです。

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