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ミュレルは、「ドイツ医学を日本に導入するのであれば、医学と並列独立する薬学の導入が必要」と進言した

ミュレル(一八二四~一八九三年)という医師がいます。
ドイツ陸軍軍医で、マインツに生まれました。

ボン大学とベルリン大学で外科を学びました。

軍医学校の講師となり、ハイチに招かれ陸軍病院の医務監督を務め(一八五六~一八六八年)、衛生行政を担当します。

一九七一(明治四)年八月に海軍軍医ホフマンとともに来日し、大学東校に着任しました。

着任初日、ドイツ陸軍の軍医の正装をして、ドイツ陸軍騎兵小隊の隊列とともに大学に登場しました。

学生たちは、その壮麗さに度肝を抜かれました。

これは、ドイツの戦略だったのです。

軍医を提供したのは、日本の文化に適応しやすいからで、軍隊における地位は、医学の専門知識以上の権威を軍医に付与すると思わせたのです。

ミュレルは医学校を見て驚きます。

大部屋に三百人ほどの日本人の学生がいて、バラバラで医学書を読んでいました。

ユダヤ人の教会のようだったと感じました。

医学教育制度を定める権限を授けられていたミュレルは、ドイツの制度にならって改革を行います。

ミュレルは、生徒を全員退学させ、試験を行って優秀な生徒だけを入学させました。

養成する定員を絞って、予科三年は六十人、本科五年は四十人とすることにします。

試験を実施し、パスしなければ上の学年に進級できないようにしました。

質を重視したミュレルには、我慢がならなかったのです。

ミュレルは医学を学ぶ前の予科教育が不十分だと考え、ドイツ人教官を呼び寄せました。

一方、多くの臨床医を養成しようとしていた佐藤尚中などの日本人教官と対立して、日本人の教官は退官します。

ミュレルは、主として外科、婦人科、眼科を担当しました。

外科医学では、ギプス繃帯、気管切開などを教えました。

ドイツの医科大学と同じような教育体系を日本に導入しようとしたミュレルの軍服姿の銅像が東大の本郷キャンパス内にあります。

ミュレルがいなかったら、今日の東京大学医学部はなかったかもしれません。

最初が肝心です。

ミュレルは、「ドイツ医学を日本に導入するのであれば、医学と並列独立する薬学の導入が必要」と進言しました。

そのため文部省は、1872年(明治5年)に急遽ドイツ人薬剤師ニューエルトを招聘しました。

文部省医務局長の長与専斎は、ミュレルとホフマンに西洋の薬剤取締制度を諮問し、答申を得ました。

長与はそれをもとにわが国の薬事制度の原型となる「薬事取締之法」を作成し、1873年太政大臣に提出します。

その内容は次の4つです。この各項目が我が国の薬学の誕生に結びつきます。

第1 薬品の売買は政府より免許を受けた薬舗(現在の薬局)に限定し、その資格者の教育に関する規定を設けること。

第2 医薬分業を実施するため、医師は処方箋を薬舗に送り、原則として薬の販売を禁止すること。

第3 医薬品の品質を確保するための検査制度を確立し、検査は司薬場で基準書に従って行うこと。

第4 医薬品の自給を図り、製薬を進歩させるため製薬学校を設けること。

政府は、「薬剤取締之法」をもとに製薬学校として1873(明治6)年9月、第一大学区医学校製薬学科(東京大学薬学部の前身)を東京神田和泉町に開校します。

ここに医薬品の「真贋鑑別」と「製薬」を目的とする、わが国最初の薬学教育が始まります。

下山順一郎、丹波敬三、丹羽藤吉郎ら20名が入学しました。

彼らは旧武士階級の出身者であっただけに、国のため、あるいは自身の出世のためという意識を抱き、「我らこそ薬学の創始者たらん」と燃えていました。

下山、丹波、丹羽は卒業後、ドイツ留学を得て、製薬学科教授となり、わが国薬学の創始者となります。

サムライ薬学の誕生です。


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