リハビリテーション医学は、ソリューション医学である
米国大リーグの大谷翔平選手が、右ひじを手術をしました。
執刀医は、二〇一八年にトミー・ジョン手術を大谷選手に実施したニール・エラトロッシュ医師です。
手術をする前に、明確な「ゴール」を設定しています。
二〇二四年の開幕から打者でプレイし、二〇二五年からは投打両方できるようにする!
この二つのゴールを目指して、「リハビリテーション・チーム・OHTANI」が組織され、術後管理、栄養指導、日常生活指導、訓練、野球の練習再開などの一連の取組が行われたのだと思います。
その結果は、大谷選手が所属するドジャースは優勝して、大谷選手は前人未踏の「50本塁打、50盗塁」を達成して、満票でナ・リーグのMVPとなりました。
漫画にもない展開でした。

米国は、リハビリテーションの国です。
私が、医学部の学生だったときに、臨床実習で各診療科をローテートしました。
このときに、内科や外科は暗くてドイツ医学的な感じがしました。
一方、リハビリテーション科は、明るい訓練室があって、まるで体育館でバスケットボールをやっているようで、アメリカの風が吹いているような気がしました。
それは間違いではありませんでした。

一九一七年、第一次世界大戦中の米国陸軍の軍医総監部に戦傷兵のための「身体再建及びリハビリテーション部門」が置かれました。
これが、医療においてリハビリテーションの用語が用いられた世界最初の例です。
この大戦中に、理学療法士というリハビリ専門職が誕生しました。
一九四一年一二月に日本との戦争が始まります。
真珠湾攻撃にショックを受けた四〇歳の内科医のラスクは軍を志願します。
一九四二年に、ラスクは軍医少佐となり、陸軍航空隊病院に病院長として着任しました。
入院で低下した体力を病院にいる間に十分に回復させて兵舎での訓練に耐えるようにしてから退院させる「回復期プログラム」を考案しました。
従来の方法は兵士の入院中は安静にしていましたが、この回復期プログラムを導入してからは、いったん兵舎に帰った兵の再発率が一〇分の一に減少し、平均入院期間が三分の二に短縮されました。
一九四三年頃より、戦場からのパイロットの負傷兵が到着しはじめ、ラスクはこれまでとは違った患者の問題に気がつきました。
上下肢の切断、脊髄損傷、脳外傷、視覚障害、聴覚障害などさまざまな形態の障害で、こうした身体障害に加えて精神的な問題を抱えていました。
従来の軍の病院とは違う「リハビリテーションセンター」が必要だと考え、デーヴァーという医師に相談しました。
デーヴァーは、体育学を学んだ後にペンシルベニア大学で医学を修め、第一次世界大戦では英国陸軍の戦傷兵の回復プログラムの指導を行って、成果を収めていました。
医学に、初めて日常生活活動(ADL)という概念を導入した人物です。
デーヴァーの協力を得て、ラスクは「航空隊リハビリテーションセンター」を全国一二カ所につくりました。
後に米国空軍の生みの親となるアーノルド将軍の強力な後押しがありました。
これらのセンターにおけるリハビリテーションの成果はめざましいもので、ラスクの名声が上がり「リハビリテーションの父」と呼ばれています。
リハビリテーション医学は、戦争がつくった医学です。
米国は一九四七年には、リハビリテーション医学を独立した医学の専門科として、専門医制度を発足させています。
ラスクとデーヴァーは、戦後は、ニューヨーク大学にリハビリテーション医学研究所を設立し、そこを中心にリハビリテーション医学の確立と普及に努力しました。
リハビリテーション医学の中核は、単なる機能回復訓練にとどまらず、日常生活活動(ADL)の自立にありました。
それまで「生命」の視点が支配的だった医学の世界に、「生活」の視点を導入しました。
その意義は非常に大きいものでした。
リハビリテーションという言葉は、「全人間的復権」を意味します。
リハビリテーション医学は、復権のための医学で、ソリューション医学と言ってもいいかと思います。
結論から言えば、大谷選手は米国に行ってよかったです。
リハビリテーション発祥の国で、全人間的復権を目指して、来年は「二刀流」で活躍することを期待しています。
リハビリテーションの歴史は、上田敏先生の本が詳しくて大変参考になります。
おすすめです!

