生理学実習で神の声がして、留年の危機から脱出したことがある
夏が来ると思い出すことがあります。
遙かな尾瀬ではなく、大学の生理学実習です。
グラム単位で体重を測定できる精密な体重計に横になったことがありました。
時間の経過とともに、体重が少しずつ減っていくのがグラフに示されました。
生理学の蛇の目をした教授が、「なぜ体重が減るのか?」と質問をしました。
「それじゃあ、そこに隠れている君、君だ!」
教授の声に顔をあげると、なんと私を指さしていました。
視線を合わせないようにしていたら、逆に目立ってしまったようでした。
なぜ体重が減るのか、見当もつきません。
思いつきのあてずっぽで、答えを言いました。
「人は、酸素を吸って二酸化炭素を出すので、その分子量の差で、体重が減るのではないかと……」
「ん?」
教授は、馬鹿にしたような目をしました。
「それもないことはないが、ほとんど無視できるほど小さい。もっと大きな理由があるだろう。君は私の講義に出ていないのか。講義で教えただろう?」
記憶は全くありませんでした。眠っていたのか……。
「なんだ、覚えていないのか。君はフカーンジョセツーという言葉に記憶はないか」
後から考えると、教授は助け船を出したのです。
フカーンジョセツー?
発音からして英語ではない気がしました。
フランス語か?……。
医学は英語が中心でしたが、ときおりフランス語が登場するのは謎でした。
そのようなフランス語は、初めて聞くものでした。
「なんだ君、一番大事なことを覚えていないのか。本当に見たことも、聞いたこともないのか?」
フランス語には降参です。
せめてドイツ語にして欲しかった(知らんけど)。
じたばたしてもはじまりません。
いさぎよく正直に答えることにしました。
「見たことも、聞いたこともありません」
「ははははは、だったら君は留年決定だ!」
教授の声は、シーンとなった実習室内に響き渡りました。
生理学は、試験にきびしく、点数が足らない学生には容赦しませんでした。
毎年多くの学生が生理学で留年しており、恐れられている科目No1でした。
三年生の生理学、四年生の薬理学は、鬼門だとされていました。
戦前から医学部では、「生理、病理、薬理という三理(里)の道は険しい」ということわざがありました。
ちなみに病理学の教授は優しくて、仏の病理と言われていました。
蛇の目の教授は、ホワイトボードに文字を書きました。
不感蒸泄
なぬ?
まさかの日本語?
いや、漢語でした。
「フカンジョウセツ」と読むのが正しいのではないか。
京都から来られた教授の言葉は、京都訛りがありました。
微妙なイントネーションから、フランス語だと認識してしまった私のミスでした。
しかしこのとき、「漢字」という表意文字は、見ただけで意味が分かる優れものだということを理解しました。
漢字を見ただけで「気がつかずに身体から蒸発していく水によって体重が減る」ということが判りました。
中国から伝わった表意文字を、表音文字のひらがなと絶妙に組み合わせた文字体系を作り上げた日本人の聡明さを知りました。

そういえば、人間の体は、水でできているということを思い出しました。
私の知識の多くは、漫画由来でした。
アニメの「あしたのジョー」で、ライバルの力石徹が、ジョーと戦うために体重を減らして減量するシーンが鮮やかによみがえりました。
水を飲むことを禁止され、力石は水を求めて暴れます。
蛇口は針金で縛られてあり、水が出ないようになっていました。
そこに、二人の試合を仕切る美貌の白石葉子さんが、コップ一杯の水を持ってきます。
力石は葉子さんからコップを受け取るのですが、コップをさかさまにして、自分の強い意思で水を飲むのをやめたのです。
しかし、この過酷な減量が、ジョーとの戦いに悲劇をもたらすことになります。
詳しくは漫画で。
人は死ぬ前に、幻覚を見ることがあると言われています。
「明日のジョー」の幻覚に浸っている場合ではありませんでした。
現実の生理学における絶体絶命のピンチの状態は、続いていました。
蛇の目の教授は、いたぶるように、さらなる質問をしてきました。
「不感蒸泄は、代謝が亢進することによってさらに増える。こういった代謝の亢進作用のあるホルモンは何か? 君、留年から復活するチャンスだぞ」
おお神よ!
そのとき、私は確かに神の声を聞いたのです。
「チ、チロキシン」
すると教授が驚きました。
「なんだ、君は知っているじゃないか! まだ講義で教えてないチロキシンを知っていて、教えたことのある不感蒸泄を知らないとはおかしな話だが、これで君は留年を免れたな」
ほっとしました。
「チロキシンはサイロキシンともいい、甲状腺から出る代謝を亢進させるホルモンだ。甲状腺ホルモンが過剰に分泌される疾患が、バセドウ病だ。バセドウ病の患者は、体重減少のために痩せている……」
説明を続ける教授は、もはや私の顔を見ることはありませんでした。
私は、奇跡的に生き延びたのです。

夏休みが明けた後に行われた生理学の前期試験でも、必死に勉強して、なんとか合格することができました。
そして、留年せずに進級することができたのです。
後日、同級生からは、「あのときに、よくチロキシンのことを知っていたな」と言われました。
実は、高校の生物学の授業で、チロキシンが出てきたことがありました。
動物の変態を促すホルモンとして、カエルは甲状腺ホルモン(チロキシン)、という記述があったのです。
オタマジャクシからカエルに変態することを助けるホルモンです。
昆虫にも、芋虫からさなぎになって成虫になる、こうした変態を助けるホルモンがあります。
私はカエルや昆虫が好きだったので、チロキシンを覚えていました。
チロキシンの主な作用として、「代謝の亢進」という言葉が生物学の参考書に載っていて、意味は分からずに覚えておりました。
たぶん「代謝の亢進」というキーワードが教授の口から出なければ、「チロキシン」は浮かんでこなかったでしょう。
連想ゲームのようでした。芸(趣味)は身を助ける、ということわざは本当です。
チロキシンは変態ホルモンですが、いやらしい変態な人に多いホルモンではありませんので念のため。
ちなみに、いやらしいという意味のエッチ(H)という言葉は、「変態」のローマ字の頭文字からできたそうです。

チロキシン(甲状腺ホルモン)がたくさん分泌されるバセドウ病は、女優の夏目雅子さんが罹っていたことは有名です。
症状は、甲状腺のある喉が腫れて、手が震えて、マニキュアが塗れなくなります。
目は、少女漫画のように大きくなり、星のようにキラキラと輝きます。
髪はつやつやとなり、汗をかきやすくなり、動悸がします。
精神的に不安定になることがあり、ときおりかんしゃくを起こしたりします。
いくら食べても、すらりと痩せています。
女性に多い疾患で「美人の病気」とされ、「バセドウ病=夏目雅子さん」と覚えていました。
恐縮です。
ということで、夏になると不感蒸泄を思い出します。
寝ている間にも不感蒸泄はあります。
脱水には注意して、こまめな水分補給が必要です。
季節外れの記事を、ご容赦ください。
