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大東亜戦争は、真珠湾攻撃に始まる「日米戦争」、東南アジアを舞台にした「日英戦争」、1937年に始まる「日中戦争」、終戦前後の「日ソ戦争」という四つの戦場の複合戦争だった

波多野澄雄氏の「日本終戦史1944-1945 和平工作から昭和天皇の「聖断」まで」(中公新書)を読みました。

なかなか示唆に富む本です。

後に日本大使となるライシャワー教授は、
「あの降伏の時期が、実際よりわずか2週間をはさんで早められたか遅れただけでも、戦後の世界の情勢は著しく違ったものになっていただろう。二週間前に降伏していれば、原爆投下もなかったし、ソ連の参戦も起こらなかった。二週間降伏がのびていたらロシア軍の極東進撃はさらに進んでいただろうし、日本の破壊も回復できぬものとなっていたであろう」
と言っております。

大東亜戦争は、真珠湾攻撃に始まる「日米戦争」、おもに東南アジアを舞台にした「日英戦争」、1937年に始まる「日中戦争」、終戦前後の「日ソ戦争」という四つの戦場の複合戦争だったという筆者の指摘には感心します。

「太平洋戦争」という呼び名では、到底理解はできませんね。

「大東亜戦争」という名前の方が適切だと思います。

日本に降伏を呼び掛けるポツダム宣言が発せられ、それを受諾するには天皇の聖断を仰ぐしか方法はありませんでした。

鈴木貫太郎総理大臣は、そこまでに至るプロセスをよくぞ乗り切ってくれたなと思います。

城山からみた県立延岡病院

筆者は言っております。

鈴木の終戦指導で特徴的な点は、早期終戦を念頭に置きつつも、「軍の士気、国民の士気」を温存しながら、徹底抗戦論を排除しない閣議や戦争指導会議の運営に腐心したことである。

徹底抗戦論の急先鋒であった阿南惟幾大将を陸相に起用し、他方で早期終戦論の米内光政大将を海相に留任させた。 

両論を閣議の場で議論させ、和平について閣議合意の形成をねらった。

鈴木が陸海軍統合構想を自ら避けたのも対抗勢力として海軍の存在の意義を認めたからにほかならない。

延岡市の城山にある行幸記念碑

その鈴木に聖断の発動を決意させたのは、8月6日の原爆以降であったと思われる。

鈴木は原爆の威力に「慄然」とし、その開発に成功したアメリカの科学技術力に「驚嘆かつ敬服した」という。

鈴木にとって原爆の威力は即時終戦に十分な材料であったが、さらにソ連参戦が追い打ちをかける。

多くの指導者にとって「聖断」は避けるべき選択だったが、鈴木にとっては活用すべき選択であった。

「真に国運を左右するような非常事態に立ち至って、議論が決定せぬときには、国の元首たる陛下のご裁断を仰ぐべきが、真の忠誠の臣のなすべき道である、と余はかねがね考えていた」という。(『鈴木自伝』)。

天皇も鈴木の思いに応えた。

天皇はそれまで、御前会議は「全く形式的なもので、天皇には会議を支配する決定権はない」という建前を墨守していたが、それでは国体も国民も救えないと考え、肝胆あいゆるした鈴木と運命をともにすることを決断するのである。

また、戦争目的の政治化を嫌う鈴木にとって幸いなことは、収拾すべき戦争が、本土と分断され、解決手段を失っていた日中戦争ではなく、もはや軍事力の戦いに収斂していた「日米戦争」であったことである。

延岡市の城山の鐘

作家の志賀直哉は、終戦直後、「鈴木貫太郎」と題するエッセイでこう書いた。

吾々は今にも沈みそうなボロボロ船に乗っていたのだ。軍はそれで沖へ乗出せという。

鈴木さんは舳(へさき)だけを沖に向けて置き、不意に終戦という港に船を入れて了(おわ)った。

延岡城址の頂上に碑があります。

昭和天皇が延岡市に行啓したときの記念の碑です。

その書は、侍従長だった鈴木貫太郎の筆です。

この二人の関係があったから、禁じ手だった天皇陛下のご聖断が実現できたのだと感じました。

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