西南戦争は白兵戦のイメージがあるが、銃対銃の近代戦であり、薩摩軍も政府軍も塹壕を掘って戦っている
宮崎中央郵便局まで、郵便物を受け取りに行きました。
その途中に、西郷隆盛が西南戦争のときに、宮崎に2か月近く滞在したという場所に建つ碑に遭遇しました。

宮崎神宮の近くにある宮崎県文化財埋葬センター分館で、西南戦争の埋蔵品の講演があるので、電車で行くか、タクシーでいくか迷いました。
歩けば30分ほどの距離ということで、歩いて行きました。
文化財埋蔵センターの西南戦争の講演は、宮崎でなければ聞けない貴重な話でした。
西南戦争は白兵戦のイメージがありますが、銃対銃の近代戦です。
薩摩軍も政府軍も塹壕を掘って戦っています。
戦いの始めの頃は、両者ともスナイドル銃という元込めで鉛の玉で戦いました。
鹿児島が政府軍に占領されてから薩軍は補給が続かず、銃は先込めのエンフィールド銃(エンピール銃)に変わりました。
この銃は、火薬さえ入れれば、弾は鉛製でなくてもとにかく発射することができたのです。
宮崎に舞台が移ってからは、薩軍の銃はエンフィールド銃だけとなります。
弾を作るのに、銅や鉄を使っています。
鉛は弾道が安定しますが、銅はだめで、鉄は更にだめだということでした。

政府軍で宮崎を担当したのは、別働第二旅団で、寄せ集めの部隊でした。
この部隊は、プロイセン製のツンナール銃を使っていました。
フランスとの普仏戦争で、プロシャはこの銃を用いて大勝利しています。
ハンドルを操作して引き金を引くタイプの銃で、操作が簡単でした。
宮崎県内ではこの弾がたくさんでています。
一方、戦争の初期の田原坂では全く出てきません。

耳川の戦いでは、両軍は、河をはさんで鉄砲で撃ちあっています。
薩摩軍が戦いの後半で、宮崎を舞台に戦争を展開したのは、鹿児島県領だったからです。
地の利がありました。
つまり、ホームで戦ったのです。
そのため、県内のいたるところで西南戦争の戦跡が残っています。

有名な「西郷札」は6種類発行されています。
宮崎県民は皆、西郷札で支払いを受けるのは嫌でしたが、刀をちらつかされるのでしょうがなかった。
西郷札の被害を一番受けたのは、延岡でした。
戦後、膨大な西郷札は紙切れとなり、商家は倒産が相次ぎました。

一方で庶民は、弁当をつくって官軍に売ったり、鉛の弾を拾って薩摩軍に売ったり、生きるためにいろんなことをしました。
戦後の復興の際に、旧宮崎県では問題が多くて、鹿児島県のままではだめだということになり、川越進県会議員を中心に分県の運動が盛り上ります。
宮崎県は、西南戦争から6年後の明治16年5月9日に、復興することになりました。
そのときの公文書は、県庁に保存されており、複製が宮崎県立博物館に展示されています。
太政大臣三条実美公の名前で出されています。

西南戦争の結果、日本の医療体制が変わっていきます。
この影響は現代にまで続いています。
