熊本大学の精神神経科の助教授をされていた原田正純先生は、胎児性水俣病を最初に報告した
環境省の特殊疾病対策室では、水俣病を担当しました。
そのときに原田正純先生と出会いました。
熊本大学の精神神経科の助教授をされていたときに、胎児性水俣病を最初に報告した先生です。
岩波新書で「水俣病」という本を出版されています。
初版は1972年ですが、今も増刷されており、半世紀以上にわたって売れ続けている名著です。
私が特殊疾病対策室長のときに、上司の環境保健部長が新聞の取材で、発言した内容が問題となりました。
水俣に3回行って謝罪しましたが、患者団体の怒りは解けませんでした。
これ以上の謝罪はいいので、患者団体が主催して不知火海沿岸住民の一斉検診を行うので、水俣に来て見るように言われました。
省内で検討した結果、「室長ひとりで行け」ということになりました。
一斉検診の実行委員長が原田正純先生だったので、私は一斉検診が実施される2日間ずっと原田先生に同行することになりました。
高齢で体調に不安のある原田先生には、体調管理のための付き添いとして娘さんが東京から来られていました。

ある検診会場で、大学教授と患者団体の幹部が、私と原田先生がいたテーブルにやってきました。
教授は私の横に座って、いきなり議論をふっかけてきました。
そもそも、環境省はけしからん。
昭和31年の最初の患者発生時に、
環境省が食品衛生法に基づいて水俣湾の魚介類を食べることを禁止しておればこのようなことにはならなかった。
この件について、環境省はどういう見解なのか?
この教授は何冊か本を出されていて、
お名前は知っておりましたが、
このときが初対面でした。
テーブルには、
複数のテレビカメラがやってき
て録音マイクが上から音を拾う
体制となっていました。
さすがに、
このような状況でコメントするには危険でした。
「黙ってないで、なんとか言ったらどうなんだ!」
いきなり喧嘩を売ってきたのは教授先生で、
明らかに礼を失した行為でした。
そういう態度でくるなら、
お返ししてやろうという気になりました。
お言葉を返すようですが、昭和31年には環境省は存在しておりません。
さらに、食品衛生法に基づく措置命令は県知事の権限です。
そもそも、食品衛生法の禁止措置の適用は、
先生が支持されている
水俣病関西訴訟大阪高裁判決でも
明確に否定されています
教授は、激高しました。
その言い方は何だ!
お前は水俣病について全然反省していない!
お前のような奴は、ここにいる必要はない!
帰れ!
原田先生が、
当該大学教授先生に向かって口を開きました。
「環境省の室長をここに呼んだのは我々ですよ。君が呼んだのではない。せっかく来ていただいたのに失礼です。室長に謝りなさい」
水俣病のレジェンドのまさかの叱責で、
その後の教授先生は
借りてきた猫のようにおとなしくなりました。
しかし、よほど悔しかったのでしょう。
舟での移動中に私の横に座って、
語りかけてきました。
「厚生省の○○局長と△△局長を知っているか?」
当然、知っています。
「大学の先輩だ」
ドヤ顔でした。

このときのご縁で、原田先生のご自宅に行ったことがあります。
原田先生ご夫妻は、私ともう一人の環境省職員を温かく迎えて下さいました。
奥様の手料理をごちそうになりながら、いろんな話をさせていただきました。
午後6時に先生のお宅に入ってから、家を出たのが11時を回っておりました。
後日、娘さんから連絡がありました。
我々が会いに行った日は、原田先生が病院で白血病と宣告された日だったのです。
「結局、環境省の二人は何をしに来たんだ?」
とおっしゃっていたそうです。
「それでも、父は嬉しそうでしたよ」
その一言を聞いて安堵しました。
原田先生は、2012年6月11日に白血病で亡くなりました。
私は、原田先生のご自宅に行った
最初で最後の環境省職員です。
このことは密かな自慢となっています。
もう一人は、環境省の秘書課長です。
昨年、環境大臣が水俣の患者団体と再懇談をした4日間ずっと随行していました。
水俣病担当の部長と室長が異動してきたばかりで、水俣病に詳しい職員として、特別に命じられたのでしょう。

チッソの後藤会長も亡くなりました。
後藤会長は、同じ昭和9年生まれの原田先生のことを尊敬していたと聞いています。
いろいろと助けていただいた
元水俣市長の吉井市長さんは、
昨年の5月に亡くなりました。
私が担当していたときの患者団体の代表の方の多くは、鬼籍に入っています。
それでも、
水俣市に知り合いがいるうちは、
毎年5月1日の慰霊式には行こう
と思っています。
宮崎市から水俣市までは車で2時間半くらい、
近いです。
宮崎に帰ってきて、
本当に良かったと思いました。
