明治時代の軍医はジュネーブ条約を知っていたが、昭和時代の軍医にはその知識が欠落していた
東京科学大学(旧東京医科歯科大)の教授から、青森県の下北半島に行ったというメールが届きました。
三上剛太郎医師の研究のために行ったとのこと。
その後、青森県むつ保健所で勤務していた保健師さんから、本が届きました。
その本の名前は、「よみがえれ北の輝き 赤十字の心に生きた医師三上剛太郎物語」です。
著者は、竹浪和夫さん。青森県佐井村刊の本です。平成9年3月に初版が発行されています。

三上剛太郎先生は、青森県佐井村の三上家の八代目の医師です。
佐井村には、この三上剛太郎をはじめ、300年間にわたって医師を輩出してきた三上家住宅があります。
全国的にも貴重な和風医院の特徴を残す建造物として評価され、平成28年に青森県重宝文化財に指定されています。
教授はこの三上家住宅を訪問したと言っておりました。

三上剛太郎について、ご紹介させていただきます。
1869(明治2)年、三上家の八代目として生まれた剛太郎は、15歳で東京に出て三田英学校(現・錦城学園高等学校)へ入学し、23歳で読売新聞の記者となりました。
25歳のときに父が亡くなったことをきっかけに、東京医学専門学校・済生学舎(現・日本医大の前身)へ入学します。
医師開業試験に合格し、佐井村に戻り医業を引き継ぎました。
その頃佐井村では、ジフテリアや結核が流行しており、その撲滅のため剛太郎は北里伝染病研究所へ入学するなどして研究を続けていましたが、明治37年2月に日露戦争が開戦し、剛太郎は軍医として従軍することになりました。
1905(明治38)年1月、満州・黒溝台における戦いのさなか、剛太郎軍医の包帯所がロシア・コサック騎兵に包囲されました。
その時剛太郎は、手元にあった三角巾2枚を縫い合わせて正方形とし、それに軍用の赤ゲット(毛布)を切り裂き、十字に縫い付けて赤十字旗を作り掲げたところ、騎兵は包囲を解いて立ち去り、数十名の負傷者が救われました。
それから約60年後の1963(昭和38)年、スイス、ジュネーブで開催された赤十字100周年記念国際博覧会にて、負傷兵を救った名誉さる「手縫いの赤十字旗」として紹介され、世界の人々の感度を呼びました。
終戦後、佐井村に戻った剛太郎は、人力車や小型ボートで巡回診療も行い、村の保健衛生を担いました。
剛太郎は多岐にわたる功績が讃えられ、昭和35年に保健衛生功労者として青森県褒章を、昭和37年には佐井村名誉村民第1号を贈られました。
94歳でこの世を去った剛太郎が残した「手縫いの赤十字」は、その仁愛の精神を示すものとして今も大切に保管されています。
国溝台の戦いでは、手縫いの赤十字旗を棒に括り付け、棒を玄関の屋根に打ち付けました。
部下は不安げに聞きました。
「軍医殿、敵は赤十次条約を守る気などないんじゃないですか?」
剛太郎は答えませんでした。
ロシア軍の中にも、きっと道理をわきまえた指揮官がいるはずだ。この旗に気が付けば、包帯所を襲うなどという卑劣な行為は思いとどまってくれるに違いない。
そこへ守備隊の隊長の少尉がやってきます。
「情勢は悪い。包帯所を後退させてはどうか」
「動ける者だけで後退しろというのですか。医薬品が尽きた今、私たちが一緒にいることが兵の救いなのです。全力で戦って傷ついた者を見捨てて、自分たちだけが後退するわけにはいきません」
守備隊の少尉は、「自分たちも命がけでこの包帯所を守る」と言って敬礼して去っていきました。
午前3時を過ぎた頃、敵襲がありました。
激しい銃撃戦が始まり、その後、白兵戦となります。コサック騎兵の攻撃に、守備隊は押しまくられ、包帯所のすぐそばまでロシア軍が迫りました。
剛太郎はもはやこれまで、と覚悟を決めました。
夜が明けようとしたとき、敵が引き上げていったのです。
戦闘は守備隊員の半数が死亡するという激戦でしたが、敵は赤十字旗の立った包帯所には踏み込んできませんでした。
このときの包帯所には、70名あまりの日本兵と1名のロシア人兵士がいて、傷ついた身を寄せていたと言われています。
ジュネーブ条約は「戦場で敵・味方の区別無く手当すること。また手当を行う人やその施設を攻撃しないこと」というもので、1864(元治元年(に結ばれたものでした。
日本は、明治19(1886)年にこの条約に参加していました。
明治時代の軍医は、ジュネーブ条約を知っていました。
なぜか昭和時代の軍医は、ジュネーブ条約の知識はありませんでした。
教えられていなかったのです。
このことが、日本の軍医の捕虜の扱いで、戦犯問題を引き起こす原因になります。
一方、日本赤十字社から派遣された従軍看護師たちは、ジュネーブ条約の知識を持っていました。

佐井村の津軽海峡文化館「アルサス」には、三上剛太郎の胸像があります。台座には、「仁愛」の文字が刻まれています。また、手縫いの赤十字旗のパネルがあります。
「せっかく下北半島に行ったのなら、日本の種痘を始めてやった中川五郎治の碑には行かなかったのか?」と聞いたところ、教授からは「行っていない」との返事でした。
残念です。
その碑には、元むつ保健所長だった私の名前が刻まれていたのですが……。
字は、かすれて見えなくなっているかもしれません……。
下北半島を訪れた際には、佐井村のアルサスと旧三上家住宅、むつ市川内町の「中川五郎治の碑」をぜひ、ご覧いただければと思います。
下北半島の公衆衛生の歴史をめぐる旅は、格別です。
