WHO本部でマーラ事務局長立ち会いのもと、笹川良一はハンセン病ワクチンを世界で初めて接種した
WHO(国際保健機関)を知らない日本人はいないと思います。
しかしながら、WHOのスイスのジュネーブの本部に、日本庭園と笹川良一氏の銅像があることを知っている人はほとんどいないと思います。
笹川良一氏は、日本船舶振興会(現在の日本財団)のトップとして、WHOの天然痘撲滅とハンセン氏病撲滅の取組を支えた世界一流の公衆衛生人です。
これほど、公衆衛生の進展に貢献した日本人はいないのではないかと思います。
世界もそれを認めたから、WHOに笹川良一氏の銅像があるのです。
一方、笹川良一氏の日本での評価は、「右翼」、「A級戦犯」、「博打の胴元」というものでした。
本船舶振興会のものです。
戸締り用心、火の用心。一日一善良いことを。
世界は一家、人類は皆兄弟。
今、考えると、このようなことしCMにするとは、凄いことです。
しかし世間は冷ややかでした。
「競艇」という大衆の射幸心をあおり、吸い上げたカネ、つまりテラ銭の一部で、いくらカッコいいことを言ったって、という批判があったのです
しかし、私は、国や県で衛生行政を担当し財源を検討するときには、日本船舶振興会(日本財団)のことを常に意識していました。
国(財務省)は予算を付けてくれませんが、日本船舶振興会(日本財団)は、いろんなことに補助をしてくれたのです。
日本の地方自治体だけではなく、世界の公衆衛生活動は、日本船舶振興会(日本財団)のトップの笹川良一さんの資金援助に助けられていました。
この事実は、あまり日本国内では知られていないと思います。

笹川良一さんは、とりわけハンセン病の撲滅のために貢献しています。
ハンセン病は、ライ菌によって発病する慢性の感染症で、抹消神経や、皮膚が冒され、手や足の指が固まり、鼻は落ちて、盲目になることが多い病気です。
そうしたことが解明されなかった時代、ハンセン病は「天刑病」と言われていました。
犯した罪に対する神から与えられた罰だという偏見からくる呼び名です。
患者は、社会から排除され、迫害を受け続けました。
ライ菌がその病気の原因であることを突き止めたのは、ノルウェーの医師ハンセンです。
ライ菌は結核菌に似ていますが、結核菌よりははるかに感染力が弱く、繰り返し接触しなければ、感染することのない病気であることも、研究によってはっきりしています。
ところが、人びとのなかに根づいたこの病気への誤解、偏見はなかなか消えませんでした。
その誤解、偏見を払拭するために、ライ病からハンセン病と呼ばれるようになりました。
笹川良一さんんの子ども時代、家の近くにライ病の患者のいる家がありました。
その家には美しい娘さんがいましたが、好きな人と結婚できず、悲嘆にくれて行方不明になりました。
それを見て笹川良一さんは、「大きくなったらライをやっつけなくてはならない」と決心したのです。
以来、その思いはずっと笹川良一さんの胸中から消えませんでした。
戦後になって、ライ根絶という志を掲げた笹川良一さんは、治療効果の高い「プロミン」という薬品を合成した石館守三博士と出会いました。
笹川良一さんは、資金供与を申し出て、財団法人・笹川記念保健協力財団が設立されたのです。
1961年、WHOの熱帯特別研究班によってハンセン病予防ワクチンの試薬が完成しました。
ワクチンの接種は、病原体を体に植え付けることを意味します。「安全」と言われても、万一、発病したら……と誰もが考えます。
笹川良一さんは、ハンセン病予防ワクチンをまず自分に接種して欲しいと申し出を行いました。
私は、このワクチンが安全であることを世界に示し、円滑に普及させたい
WHO本部において、マーラ事務局長立ち会いのもと、笹川良一さんは、ハンセン病予防ワクチンを自らの左肩に世界で初めて接種しました。
WHOに笹川良一さんの銅像があるのは、当然です。
さらに、笹川良一さんの援助で、WHOに日本庭園が設けられました。
これが現在のWHOの名所になっています。

石館守三博士は、ハンセン病の治療薬のプロミンの合成に成功して、多くのハンセン病患者を救いました。
また、第19代日本薬剤師会会長として、医薬分業の実現に大きな貢献を果たしたことでも知られています。
石館は、青森市の薬種問屋の三男としてうまれています。
17歳のときに、家業の手伝いのために青森の松丘保養園に行ったところ、たまたまハンセン病患者に遭遇します。
この衝撃の出会いは、若き石館に、薬学への志とハンセン病の治療薬を開発する決意を呼び起こします。
42歳で東京帝国大学の教授となった石館は、ある論文を目にします。
1941(昭和16)年の初め、米国ルイジアナ州のカービルにある国立ハンセン病センターで、ガイ・ファジェット医師らがハンセン病患者に対する新薬「プロミン」の治験を開始し、その結果を1943年11月のパブリックヘルスレポートに発表しました。
この治験は、ハンセン病療養所のなかで最も希望のもてる治験でした。
第二次世界大戦の混乱期のなか、このニュースを入手した石館は、日本で「プロミン」の合成を進めることを決断します。
1946(昭和21)年4月、石館らはプロミンの合成に成功します。直ちに東京の多摩全生園で治験を実施しました。
石館の献身的な挑戦によって、ハンセン病は成功裡に治療されるようになりました。
後に石館は、日本薬剤師会長に70歳で就任し、81歳で引退するまで、わが国における医薬分業の道を開いた「分業の生みの親」となります。
笹川良一さんの人生は、公衆衛生だと感じました。
