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第二次世界大戦中にペニシリンを作った国は、英国とアメリカと日本だけである

ペニシリンの話です。

発見者として英国のフレミングが有名ですが、実はこんなエピソードがあるのです。

フレミングは、英国陸軍の軍医として第一次世界大戦に従軍しました。

戦場で多くの兵士が感染症で死亡したことから、戦後には治療薬の研究に没頭しました。

ふとした偶然で、青カビから抗菌作用のあるペニシリンの抽出に成功しました。

しかし、フレミングは、ペニシリンを医療現場で実用化することはできませんでした。

いつしか年月が経過して、フレミングは、自分が抽出したペニシリンのことを忘れてしまっていたのです。

おい! 忘れたんかーい?

つっこみを入れたくなります。

1940年に、オックスフォード大学のフォーリー、チェイン、フローリーの3人が、フレミングの古い論文を発見します。

英国政府の支援を受け、ペニシリンの実用化に向けて、研究開発が実施されました。

抗菌作用の強い青カビを見つけ出し、抽出してペニシリンを精製し、患者に投与して安全性と有効性を確認しました。

しかし、ドイツに空襲を受けている英国では、大量生産はできませんでした。

フローリーは米国に渡って、ペニシリンの大量生産を図ります。

このペニシリン生産プロジェクトに参入した企業には、当時はまだ弱小の製薬メーカーだったファイザーがいました。

米国の資金と工業力を総動員して、ペニシリンの大量生産に成功しました。

1944年5月、後に「史上最大の作戦」と呼ばれたノルマンジー上陸作戦では、ペニシリンが使用され、連合国軍の多くの兵士の命を救いました。

奇跡の薬の登場で、手足の感染で切断をしなくて済むようになりました。

兵士の数に応じて使用できるペニシリンの量を勘案して、ノルマンジー上陸作戦の日が決められたて言われています。

戦争がなければ、この時期にペニシリンが世に出ることはなかったでしょう。

オックスフォード大学が英国政府から薬の開発の依頼を受けたときに、「戦争中であり新しい薬を一から開発する時間はない」と、既存の文献を徹底的に調べました

そうしてモノになりそうなフレミングの論文が発掘されたのです。

医学史では「ペニシリンの再発見」と言われています。

戦後、フレミング、フォーリー、チェインの3人がノーベル賞を受賞しました。

3人までという規定があり、実際に米国で大量生産させたフローリーは受賞できませんでした。

このプロジェクトにより、ファイザーは世界的なメガ・ファーマとなりました。新型コロナウイルス感染症のワクチンを開発しました。

英国と戦争していたドイツは、ペニシリンを開発することはできませんでした。

しかし、ドイツ人の研究者が書いたペニシリンの論文が、日本海軍の潜水艦によって、密かに我が国に運ばれました。

なんと日本は、この論文からペニシリンを創り出すのです。

第二次大戦中にペニシリンを開発した国は、英国、米国、日本の3カ国だけです。

日本海軍の潜水艦は、ドイツで手に入れた論文(ドイツ人研究者キーゼが書いた総説)を命がけで持ち帰りました。

陸軍の稲垣克彦軍医少佐の下に、軍とアカデミアと産業界で、ペニシリン開発プロジェクトが組まれました。

その前に、英国の首相チャーチルが、病気になり新しく開発されたペニシリンで回復したという新聞記事が出ました。

これは誤報で、チャーチルに処方された薬は、実際はスルフォン酸でした。

この記事を目にした軍の首脳は、特効薬ペニシリンの開発を決断し、予算をつけたのです。

稲垣軍医は、内閣に設置された総合戦研究所に出向した経験がありました。

総合戦研究所は、総理直轄の機関で、モデルは英国の王立戦争研究所です。

王立戦争研究所は、軍人や官僚や民間人で将来のリーダーとなるような若手が集められ、合宿形式で研究を行っていました。

英国駐在の日本大使館の陸軍武官がこの秘密の研究所の存在に気がつき、日本でも同じような機関をつくろうと研究していました。

1940年(昭和15)年に、正式に発足します。
総合戦研究所には、陸海軍軍人や新進気鋭の若手官僚、民間人から広く人材を集めました。

各省の事務次官には、将来、大臣や事務次官になれるような優秀者を出すように依頼しました。

こうして集められた研究生たちは、各省から出された国家機密の書類から、吉川英治の最新小説まで読みこなし、総力戦に関する研究や関係する施設の視察などを行いました。

稲垣軍医少佐は、この総合戦研究所に勤務したことがあり、ここでの経験がいかされます。

総合戦研究所は、NHKの朝ドラ「虎に翼」にもでてきました。

各省庁や大学や企業との人脈が構築されていた稲垣少佐は、軍を前面に出さずに、各界から集めた研究者の自主性に任せたフレキシブルなプロジェクトを組織しました。

こうして我が国におけるペニシリン開発が進められ、ついに成功しました。

創られたペニシリンは、日本名としては「碧素」と名付けられました。

1945(昭和20)年5月の東京空襲での被害者の治療に使われました。

しかし、英国と同様に、大量生産はできませんでした。

戦後、日本を占領した米軍の軍医が、米国産のペニシリンを陸軍第一病院(今の国立国際医療センター)に持ってきました。

日本人研究者たちは、瓶に入った大量のペニシリンが実にまぶしかった、と言っています。

アメリカの国力を見せつけられた感じでした。

占領日本の保健医療福祉を統括したGHQのサムス准将は、日本がペニシリンを独自に開発していたことを評価しました。

サムスは、日本でのペニシリン量産体制を拡大させていきます。

いつか日本が独立して輸出可能な国となったら、増産したペニシリンを輸出するようにと、国内の製薬メーカーにはっぱをかけました。

後年に起こった朝鮮戦争では、米軍はこの日本産のペニシリンを買い上げて、戦傷者の治療を行いました。

昔、TBSで「JINー仁ー」というドラマがありました。

主演は大沢たかおさん。

村上ともかさんの同名の漫画をドラマ化したものです。

現代の医師が幕末にタイムスリップして、ペニシリンを製造する話が出てきます。

私は、戦時中の日本の研究者たちがドイツ語の論文から創り出したときと同じと感じました。

ご覧になってない方は、漫画でもドラマでもおすすめでありんす。

歴史の勉強にもなるでありんす。

「ありんす」は、江戸の吉原で使われた言葉でありんすよ。

今年のNHK大河ドラマが参考になりんす。


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