見出し画像

明治当初に医制76ヶ条を作成した相良治安は医療界の江藤新平であり、復権が必要だと感じた

佐賀県が主催した江藤新平復権シンポジウムに行ってきました。

佐賀県では、文化・観光局の文化課に佐賀復権推進チームを設置して、江藤新平復権プロジェクトを展開しています。

令和6(2024)年の江藤新平没後150年に併せて、佐賀戦争とともに消されてしまった江藤の功績に光を当てて「復権」を図るために設けられたプロジェクトです。

江藤新平復権プロジェクトでは、寄附金も募集しています。

寄附金を活用して、記念碑の建設、シンポジウムの開催、各種プロモーション事業などの事業を行うこととしています。

2月1日現在で、寄付額は1300万円を突破したそうです。

ホームページにアップされているプロモーションムービーには、俳優の竹中直人さんが、江藤新平を演じております。

佐賀県の山口知事が先頭にたって、江藤新平復権プロジェクトを推進していることから、その勢いは半端ないです。

シンポジウムに登場した知事のあいさつでの江藤新平に対する想いは、気迫溢れるものでした。

司馬遼太郎さんの「歳月」は、江藤新平の生涯について書かれた作品です。

懇親会の冒頭では、「情熱大陸」のナレーションを担当しているアナウンサーが、「歳月」を朗読するビデオが流されました。

明治新政府の指導者には、課題を処理する人はたくさんいましたが、新しい国家を創造していく才能があったのは、二人だけだったと、「歳月」の中で司馬遼太郎さんは指摘しています。

その二人とは、佐賀藩の江藤新平と、薩摩藩の大久保利通です。

二人とも畳の上で平穏に死ぬことはありませんでした。

大久保利通は、岩倉使節団のメンバーとして、欧米の視察をしています。

江藤新平も岩倉使節団の一員として派遣するよう命令がだされたのですが、司法省のトップが不在では仕事が回らないということで、日本に残ったのです。

このとき、一緒に行っておれば、二人は意気投合して、あのような悲劇的な結末にはならなかったと思います。

江藤が佐賀戦争後に、大久保らに処刑されたときには、まだ40歳でした。懲役10年であれば、出獄してもまだ50歳です。

歴史に「たら・れば」はありませんが、残念だったと思います。

同じように、明治時代の初めに医療界においても、どのような制度を創造するかを考えた二人がいました。

佐賀藩の相良治安と肥前大村藩の長与専斎です。

文部省初代医務局長が相良治安、二代医務局長が長与専斎。長与は新設された内務省初代衛生局長となります。

明治新政府が医療政策を担うことになり、ドイツ医学を採用すべしとして尽力したのは相良治安です。

その後、相良治安は、部下の汚職で捕縛され投獄されます。冤罪がはれて文部省の医務局長となった相良は、「医制」の草案となる「医制略則」をつくります。

岩倉使節団のメンバーとして欧米を視察して帰ってきたのは長与専斎です。

長与は、相良の後を襲って文部省の医務局長となり、相良から草案を引き継いて「医制」を制定しました。

昭和51(1976)年に、厚生省医務局が出した「医制百年史」にもそう書かれております。

相良治安の増

「医制」とは、医事、薬事、公衆衛生にわたり、教育、行政組織の面などに関して総合的にまとめられた法令です。

明治維新以来、日本は伝統的な東洋医学を排し、西洋医学にもとづく教育や医療の仕組みの導入を進めました。

その最初の到達点が医制76ヶ条です。

現在の医師法、医療法、薬機法、学校教育法などを包括した内容となっています。

「相良治安関係文書」の編者の青木歳幸氏と尾崎耕司氏は、この「医制」の策定プロセスを詳細に調べております。

「医制」76ヶ条の成案が、文部省から太政大臣三条実美宛に提出されたのは、明治6年12月27日。

左院で薬事に関する条項を中心に懸念が示されて、東京、京都、大阪の三府に限定の上、その実施が許可されたのが明治7年3月12日。

医制の三府での実施は、明治7年8月18日のことです。

多くの論者が、明治6年3月に医務局長に就任した相良治安が同年6月にその席を長与専斎に譲ったとしています。

しかし、国立公文書館所蔵の「職務進退・叙任録」には、文部省五等出仕の相良を同省四等出仕に補任すると記されており、文部省出仕は継続しており、むしろ昇進しています。

長与は、この時に同省五等出仕で、相良の下僚に当たります。

職務進退・叙任録では、長与は明治六年十一月十八日任工部省小丞と、文部省から工部省への異動命令が下っています。

この辞令に不満を持った長与の意を汲んで、上司の田中不二麿太輔(事務次官)は、太政大臣に取消しの上申を行っています。

田中は同じ岩倉使節団のメンバーでした。

明治6年11月から明治7年1月初旬までの長与の文部省内でのポストは空白となっており、「医制」の成案は、まさにこの長与にとっての空白期間に当てはまる明治6年12月27日に提出されているのです。

医制の制定は、一貫して相良が主導者だったと言えます。

相良は、明治7年9月30日に、文部省出仕および第一区大学区医学校校長を免ぜられ、10月4日には退職金250円を与えられて、文部省から去ることになりました。

以降、医務局を衛生局と変えた長与が衛生局長となり、医療行政と教育体制を主導することとなります。

相良治安は、市井の片隅で隠遁生活をおくることになりました。

晩年になって、かつて一緒に働いた医師らが、相良治安の叙勲願を文部大臣に提出し、明治33年に医学制度確立の功績により勲五等双光旭日賞を授与されました。

相良治安は、明治39年6月にインフルエンザに罹り71年の生涯を終えます。

死去を悼んで明治天皇から金百円を賜っています

佐賀市の城雲院に墓があります。

昭和10年に、東京帝国大学構内に相良治安先生記念碑が建てられています。平成19年に、東京大学医学部附属病院の玄関前に移転されました。

佐賀に行って、相良治安の復権も必要だと感じました。

さながら医療界の江藤新平です。

さて、来年の大河ドラマ「逆賊の幕臣」の主人公は、小栗忠順(小栗上野介)です。

同じ幕臣の勝海舟のライバルとされる人物です。

小栗は明治新政府から処刑されますが、勝は閣僚・伯爵として処遇されます。

この大河ドラマは、小栗の復権の物語となると思いました。

小栗と勝の関係は、逆賊として処刑された江藤新平と、二度も総理大臣となった大隈重信の、二人の佐賀藩士の関係に似ています。

小栗が大河ドラマになるのであれば、江藤新平もいつか大河ドラマになると思いました。

そのときが復権プロジェクトのゴールになるかも。


いいなと思ったら応援しよう!