黒木酒造の「百年の孤独」は、酒蔵の歴史、マルケスの小説、寺山修司の演劇、ジャズミュージシャンの言葉の集大成だった
高鍋町の黒木俊之町長の本が出版されました。
「百年の孤独」の孤独 ~「企業」と「町」の経営者として(PHP)です。
黒木町長は、黒木酒造の4代目で、創業は明治18(1855)年で、創業以来焼酎を造り続けて141年の歴史があります。
麦焼酎「百年の孤独」が有名です。
「百年の孤独」ははぜ売れ続けるのかと聞かれることがよくあったそうです。
黒木町長は、その理由をいくつか挙げておられます。
前衛的でマニアックな焼酎としての個性があったこと。
小さな焼酎蔵による「どこにもない製品」であったこと。
「百年の孤独」というネーミング、パッケージと酒質によって、他の製品との個性の差別化が明確に可視化され、オンリーワン性を主張できたこと。
なにより「口コミの力が大きかった」と言っておられます。
マニアックな個客にまず受け入れられたそうです。
次のような人が、この焼酎の価値に気づきました。
「百年の孤独」の作家ガルシア=マルケスを知っている人
文学好きな人
ジャズ界に大きな足跡を残したエリック・ドルフィーを好きな人
ジャズファンが「こんな焼酎がある」と、仲間や友人に伝え、しかも購入してプレゼントをしたそうです。
発売以来40年、どれほど人気が出ても、「手作りに徹した焼酎造り」を守り続け、変えませんでした。
実は「百年の孤独」は、失敗から生まれたものです。

黒木社長は、焼酎ブームにのって新製品「山芋焼酎」を出しました。
山芋焼酎は当初は売れました。
全国から注文が入り、小さな蔵にとっては大変なビッグヒットとなりました。
蒸留器を買い替え、貯蔵タンクを買い、量産化を目指します。
取引先に乗せられて増産を夢見て、設備投資をしました。
短期間で売り上げも伸びて、得意絶頂となりました。
しかし、その勢いは2年と続きませんでした。
売れて話題になると、次の年には他の会社にマネされて、すぐに似たような焼酎が出回りました。
黒木社長は、ひとり眠れぬ夜に真っ暗な蔵の中で、売れなくなった焼酎のタンクを抱きしめていたそうです。
ですが、悲嘆にくれてばかりはいられませんでした。
なんとかして状況を変えなくてはならない、と考えます。
「売れない焼酎」は、見方を変えると、「貯蔵している」ことと同じことでした。
売れなければ売れないほど、「長期貯蔵酒」となる。
付加価値が増していくことになります。
ピンチはチャンスです。
酒税法では、焼酎の樽貯蔵が許されていました。
どうせ貯蔵するならば、「樫の樽」で貯蔵してみてはどうか。
この当時、麦焼酎の樫樽貯蔵酒はまだどこにもありませんでした。
父を説得して、関西にあった貯蔵用の樫樽を製造する会社を探し当てて、10本購入して、山芋焼酎にブレンドする麦焼酎を樫樽に詰めました。
これが樫樽熟成長期貯蔵酒「百年の孤独」の始まりです。
ひたすら熟成するのを待ちました。
本質的な独自の個性が3つ以上あれば、その商品は明確に他と差別化できるそうです。
果たして「百年の孤独」は、他の焼酎とは違う個性が3つ以上あったのです。
①焼酎は無色透明ですが、樫樽貯蔵によりやわらかな琥珀色となっていること
②焼酎のアルコールは25度ですが、40度という高濃度の原酒となっていること
③焼酎の従来のデザインとは違って、コルクのラベル、紙で包むパッケージという斬新なデザインとなっていること
④「百年の孤独」という個性的なネーミングであること

昭和60(1985)年、熟成させていた樫樽貯蔵の焼酎を製品化して「百年の孤独」と命名して販売しました。
「百年」にこだわったのは、創業1885年からちょうど百年目の年だったからです。
劇作家の寺山修司が、マルケスの「百年の孤独」を演劇として上演し、さらに映画化しましたが、原作者のマルケスと係争となり上映ができませんでした。
寺山ファンの黒木社長は、「百年の孤独」という命名は、寺山修司への弔いであり、オマージュでもあったのです。
百年の孤独のボトルパッケージの横に、英語の言葉を入れました。
When you hear music, after it's gone in the air. You can never capture it again.
黒木社長の敬愛するジャズ・ミュージシャンのエリック・ドルフィーの最期のアルバム「ラスト・デイト」のラストナンバーの後に、遺言のように語った言葉だそうです。
「音楽は、聴き終えた後、空中へ消えてしまう。二度と再び捉えることはできない」
「百年の孤独」は、少しずつ知られていき、少しずつ売れ始めました。
そしていつしか、注文に応じきれなくなりました。
「ぜひ取引をしたい」という人がたくさんいました。
「絶対に量産すべきだ」という人もいました。
黒木社長には、山芋焼酎が2年間で売れなくなった経験がありました。
迷いはありましたが、焼酎蔵として本来やるべきことに徹しました。

平成7(1995)年以降は、酒の流通が大きく変化して、販売価格が乱れはじめます。
永年、酒の販売には免許制度があって、酒の販売、流通、価格は守られてきました。
ところが規制緩和され、ディスカウントストアで安売りが始まり、スーパーマーケットやコンビニでも扱うように変わりました。
そのような時期に、ある人からアドバイスがありました。
「蔵元は造るだけでは駄目だ。お客に適切に届くように常に流通を観ていなければいけない」
そこで、新潟の早福岩男さんのところに、夫婦で話を聞きにいきました。
早福さんは、地酒専門店の先駆者で、「越乃寒梅」など「越後の地酒」を育てて世に広めた人です。
そのときに学んだ4つのことを心に刻んでいるそうです。
①商いは夫婦が基本
②顔の見える商売に徹する
③蔵元の人柄が酒に出る
④理念無き拡大は破滅への近道
黒木社長は、新潟から帰って一大決心をしました。
不適切な販売を排除し、自社製品の流通を大きく変えました。
売り上げがゼロになってもいいという覚悟でした。

たまたまこの本を読んだ日の日経新聞に、アイリスオーヤマの記事がありました。
多くの家電メーカーは、問屋を通して販売店に商品を届けていますが、アイリスは問屋を介さずに自社で販売店まで届け、さらに売り場作りや販促も自社でやっているそうです。
問屋を介さないことの利点は、中間マージンをなくせることと、いつどこで何が売れたを直接知り、データに従って次の商品企画ができるようになった点だとありました。
問屋に商品を届けてから先は、自社の手を離れ、競争が横一線になります。
この方式は、価格競争に巻き込まれやすいほか、顧客情報の収集にもタイムラグが生じる、と指摘されていました。
家電業界の衰退は日本の「失われた30年」の象徴のように言われてきましたが、アイリスオーヤマは「失われなかった会社」だと指摘しています。
同質化競争にのまれていった過去の電気メーカーにはない、したたかな経営が実践されてきた可能性があると言っております。
考えさせられる記事でした。
「顔の見える商売に徹する」黒木酒造の販売戦略に似ていると感じました

私が、「百年の孤独」を知ったのは、厚生省に入省してからです。
厚生省の事務次官に黒木さんという方がおられ、その関係なのか黒木酒造の「百年の孤独」が厚生省の各課にありました。
私は、「次官の宮崎の実家の焼酎」と認識しておりました。
高鍋町長の本を読んで、「百年の孤独」が、酒蔵の歴史、マルケスの小説、寺山修司の演劇、ジャズミュージシャンの言葉の集大成だったことを初めて知りました。
発売されてから40年後になって初めて「価値」を感じた私は、日光猿軍団のように反省しております。
