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長崎県長与村出身の医師は明治の初期にほとんどひとりで医事、薬事、医学教育、感染症対策の制度設計をした

長与専斎という長崎県の長与村(現在の大村市)出身の医師がいます。

「衛生」という文字を考案し、内務省の初代衛生局長になりました。

衛生局長として約18年間勤務し、6人の大臣(卿)に仕えています。

明治の初期にほとんどひとりで医事、薬事、医学教育、感染症対策の制度設計をやっています。

これほど長い期間局長をやったというのは、空前絶後でしょう。

近鉄バファローズの監督をした仰木彬監督が、バファローズのコーチを18年やって、5人の監督に仕えたのと似ています。

旧ソ連には、外務大臣を28年やったという超大物のグロムイコ外相がいましたが……。

長与は、大阪の緒方洪庵の適塾でオランダ語を学びました。

福沢諭吉の後の塾頭になります。福沢とは生涯にわたって親交を保ちました。

その後、長崎の療養所でオランダ人の軍医ポンペに西洋医学を学びます。

維新後に長崎の医学校の学校長となり、オランダ人医師のマンスフェルトと二人三脚で、医学校を運営しました。

マンスフェルトはその後、熊本医学校に招かれて、そこで北里柴三郎を医学の道に進ませることになります。

長与は長崎で、長州藩出身の木戸孝允、伊藤博文、井上馨らと親交を結んでいます。

これが後の長与の運命に、関わることになりました。

文部省が発足するということで、佐賀藩出身の文部大輔の江藤新平に呼ばれて医学教育の改革を託され、上京します。

東京に出てきて耳にしたのが、近々、岩倉具視を団長とする使節団を欧米に派遣するということでした。

いそいで、大蔵省にいる井上馨のところに行きました。

井上からは、実際に使節団の副使として行くのが伊藤博文に内定しているので、伊藤のところに行って相談するように言われます。

伊藤に会いに行ったら、今度は、派遣メンバーの選定は、参議の木戸孝允が責任者になっているので、木戸に会いに行くように言われました。

こうして長与は、ラスボスの木戸参議にたどり着きました。

「今回の使節団に医師がいるのでしょうか?」
と訪ねました。

木戸は、いないと答えました。

長与は、欧米の医学教育や医療制度の調査をしないといけないことを必死で訴えました。

医家の出身だった木戸は、医学には相当の理解がありました。

長与の話を聞いて納得し、アドバイスしました。

「文部省からは田中不二麿が理事官に命じられる予定であるので、彼と大木文部卿に会って依頼するがよい。自分からも話をしておく。決まる前に早く動いた方がいい」

長与は、直ちに文部省の上司の二人に会って、医学制度の海外調査の必要性について説明し、自分を使節団のメンバーに加えてもらいたいと懇願しました。

実は、東京には既に新進気鋭の医家がたくさんいたのです。

きら星のごとき才能の持ち主の中で、自分は埋没してしまうのではないか。

ここには自分の活躍の余地はない、と長与は感じてたのです。

後年、この時期の自分の立ち位置を振り返って「進みてなすべきなく、退かんも後ろめたく」
と述べています。

長与にとっては、岩倉使節団に参加して欧米の先進国を視察できるこことは、千載一遇のチャンスだったのです。

こうした売り込み活動の結果、長与は、岩倉使節団の一員に加えられました。

正式に、文部省の田中理事官の随行員の人事が発令され、欧米の医学教育の調査を行うことになりました。

実際の視察では、医学教育自体には目新しいものはありませんでした。

程度の差はあっても中身は同じでした。

しかし、視察した市役所に、住民の健康を担当する組織があることを知って、驚きます。

日本にはそういった行政組織はありませんでした。

欧米の衛生行政について研究した長与は、日本に帰って衛生行政のパイオニアになったのです。

長与は、自分から素早く動いて、自分を売り込むことにより、使節団のメンバーに込れてもらっています。 

今で言えば、宮崎から上京してアイドルを目指す女性が、日向坂46が新しく結成されるという情報を耳にし、ラスボスの秋元康さんの前で、宮崎県民歌を歌ってダンスを披露するようなものでしょうか。

決め台詞は、
「日向坂46のメンバーには宮崎県出身者が必要です!それが私!」

長与の人生を見ると、事あるごとに、昔出会った人に、助けられたり引っ張り上げられたりします。

北里柴三郎がドイツ留学から帰国したときに、日本には伝染病の研究所はありませんでした。

そこで、適塾の先輩の福沢諭吉に相談します。

長与の話をきいた福沢は、世界的な伝染病研究者になった北里のために、慶応義塾大学卒業生の起業家たちから出資させて、研究所をつくっています。

マンスフェルトも熊本医学校の任期が切れた後はオランダに帰国するのですが、長与局長のたっての願いで再度来日して、医学校の教官を務めています。 

長与に頼まれると、なぜか断らない人が多いのです。

人生は、人との出会いで決まります。

長与は、そういった人との出会いを大切にしたのだと思います。

幸運のチャンスは、人が運んでくるものです。
そのときに、見送るか挑戦するかで、人生は変わります。

日向坂46の現在のメンバーも、話を聞いてチャレンジして、今の地位をつかんだのだと思います。

日向市細島のクルスの海が見える場所の坂道は、日向坂と名付けられました。

見に行ったところ、若い観光客がたくさん訪れていました。

同じ場所に日向市観光大使の水森かおりさんの「日向岬」の大ヒットを祈願した記念樹もありました。

近くには、尊皇志士の墓のある黒田の家臣、西南戦争の官軍墓地、若山牧水の歌にあるお秀の墓もあります。

海の駅ほそしまでは、海鮮丼も食べることができ、おすすめです。

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