徳川家康は、公衆衛生で天下をとった
梅毒が流行っています。
宮崎県では、令和四年は1年間で116件の感染者の届出がありました。
令和五年、六年は、それぞれ166件、161件です。
全国の届出患者数は、令和四年が13220件、令和五年が15092件、令和六年が14816件です。
年代別を見ると、男性は二〇代、三〇代、四〇代が多く、女性は二〇代が圧倒的に多くなっています。
感染の主要モデルとして、二〇代の性風俗の女性を介して、二〇代~四〇代の男性が感染するとシナリオが想定されます。
宮崎県では、全保健所で、無料・匿名の相談・検査を実施しています。
検査を受けるには、電話での予約が必要です。

梅毒は、コロンブス一行がヨーロッパに持ち帰り、世界に広がっていったと言われています。
極東の日本にも驚くほど速く、わずか二五年後に到着したそうです。
戦国時代の日本は、相当蔓延していました。
このような中で、徳川家康は梅毒には感染せずに、長寿を全うしました。
用心深い家康は、おそらく梅毒がうつる病気であることを知っていました。
どうする家康は、遊女には決して近寄らず、安全と思われる後家の女性としか付き合っていません。
徳川家康の長男は、むほんを疑われて織田信長から切腹を命じられ、家康はその命令を飲みました。
次男の結城秀康は大変優秀だったそうですが、梅毒に感染していました。
家康は、健康な三男の秀忠を跡継ぎにして、将軍家を継がせています。
一方、豊臣方の大名は、梅毒に感染しているものが多かったようです。
秀吉の軍師と言われた黒田官兵衛もそのひとりです。
また、秀吉の盟友で、自分の娘を秀吉の妻に差し出して忠誠を誓った前田利家の長男の前田利長も梅毒でした。
戦国時代の梅毒は、今とちがって症状が激しく、鼻がとれたという症状は珍しくありませんでした。

一般的に、動物由来の感染症は、初めて人に感染するときは毒性が強く症状も激しいのですが、感染を繰り返すことにより毒性が弱くなる傾向にあります。
新型コロナウイルス感染症も、当初は肺炎を起こして死亡することが多かったのが、変異を繰り返して弱毒化しています。
当初殺人ウイルスと言われたエボラ出血熱も、弱毒化しています。
戦国時代は、梅毒の薬として水銀が使われています。
しかし、効果はなく、かえって水銀の毒性で死期を早めることもありました。
梅毒の治療薬が開発されるのは、大正時代になってからです。
日本人の細菌学者秦佐八郎がドイツで、ノーベル賞受賞者エーリッヒとともに、ヒ素の化合物サルバルザンを開発しました。
化学物質で、病原体を叩く「化学療法」というジャンルが、史上初めて登場します。
医学界のイノベーションで、抗生物質ペニシリンができるまで、広範囲に使用されました。

家康は、自ら薬を調合するなど健康や医療に気を遣っています。
鷹狩りを行い、運動をすることも忘れません。
さらに、日々より心の平穏を保つことも気をつけていました。
こうした生活習慣病が効を奏して、長生きにつながったのでしょう。
新興感染症である梅毒も徹底して予防しました。
江戸に移転して、最初に手がけたのが、人々の命と健康を左右する水道を引くことでした。
人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし
堪忍は無事長久の基、いかりは敵と思え
勝つことばかり知りて、負くること知らざれば害その身にいたる
おのれを責めて人をせむるな
及ばざるは過ぎたるよりまされり
家康の家訓です。
これだけでも多くのことが学べます。
家康は、公衆衛生で天下をとった歴史上初の人のような気がします。
信長、秀吉、家康など、皆さんにもひいきの戦国武将があると思います。
私は戦国時代では、上杉謙信が一番好きです。
東村アキコさんの漫画「雪花の虎」は、上杉謙信が女だったという説を漫画にしており、面白くておすすめです。
戦国武将の梅毒感染については、この本が詳しくて、おすすめです。
