高木兼寛の生家跡は神社のようなオーラのある場所で、高木先生を祀った神社を建立するといいと天命を受けた
厚労省で一緒に働いたことのある元職員が宮崎にやってきました。
どこか案内してと言われたので、宮崎市高岡にある高木兼寛の生家跡と、木城町にある石井十次記念館につれていきました。
「ビタミンの父」と「児童福祉の父」という、いかにも厚生労働省的な偉人ゆかりの地だったので、大変喜んでいました。
われわれ以外には誰も来ておりませんでしたが、「宮崎の新しい観光地になる!」と確信しました。
高木兼寛の生家跡は公園になっています。

東京慈恵会医科大学の学祖である高木兼寛は、嘉永2(1849)年9月15日に生まれました。
この生誕の地については、かねてから高木先生の遺徳顕彰に役立つことを期待して、大学当局が管理していたのです。
たまたま、昭和60(1985)年9月に、この地を尋ねてきた阿部正和学長は、杉の木が生い茂り、荒廃した姿に心を痛めたそうです。
この地に
「学祖生誕地記念碑を建立開花、
遺徳顕彰の実をあげる!」
と決意します。
大学に帰って、
大学の理事長と同窓会の会長に相談して、
同意を取り付けました。
同窓会宮崎支部の原田正支部長が実務に当たって、総和60年12月に、地元の福富造園が造成に着手しています。
地元の高岡町も、町民憩いの場として公園化することにして、町議会の承認を得て協力することになりました。
高木兼寛は帝国生命保険株式会社の創設者でもあったことから、朝日生命保険相互会社においても、自発的に協賛しました。
公園には、高木兼寛の全身像や看板などがあります。

あたかも神社に来たようなオーラのある場所なので、高木兼寛を祀った「高木神社」を建立するといいと天命を受けました。
宮崎神宮を建てた中心人物なので、自分が神さまになるのはいやがるかもしれませんが、神様になってもおかしくない業績があります。
前例は、1000円札になった北里柴三郎です。東京の北里研究所にはコッホ・北里神社があります。
総合診療医が標榜できるようになったあかつきには、「病気を診ずして病人を診よ」の神となって降臨できるように考えたいと思います。
ちなみに、厚労省の前の医政局長と今の健康局長は、東京慈恵医大出身です。
この二人には、「是非宮崎に来て学祖の碑を参るよう」に建白書を提出させていただく所存!
東京慈恵会医科大は、律儀です。

昔、東京の青山墓地に高木兼寛の墓を見に行ったことがあります。
8月13日だったと記憶しておりますが、古い荒れ果てた墓が多い中、高木兼寛と奥様が一緒に入られているお墓の周りはきれいに掃除されていて、お花がありました。
このような律儀な大学と同窓会を動かして、高木神社建立をめざそうと心を決めました。
そもそも、我々が高校生の頃は、宮崎県内では、高木兼寛という偉人は全く知られておりませんでした。
大学の公衆衛生学で、初めて高木の名前を聞きました。
宮崎県人なのに全く知らず、恥ずかしいと思いました。

青森県のむつ保健所に勤務していたときに、
日本初の種痘を実施した中川五郎治の一生を書いた作家の吉村昭先生に、講演に来てもらったことがあります。
五郎次は青森県下北半島の出身で、
「北天の星」という小説で吉村先生が紹介したことで世に名前が知られるようになりました。
吉村昭先生は、
「私の小説で、小村寿太郎と高木兼寛の二人の宮崎県人が世に知られるようになったんだよ」
とおっしゃっておられました。
ちなみに本の名前は、「ポーツマスの旗」と「白い航跡」です。
吉村昭先生は、宮崎県の恩人です。
早く直木賞をとって、
高木神社プロジェクトを推進せねばなるまい
と誓うのであった。つづく

