瀬平石(せびらいし)
一
霧の中をひよどりが鳴いた。
靄のかかる村に人影が動いた。紺色の制服の横に、吊り下げたサーベルが光っている。
荷物をかついで道を歩いていた村人らは、立ち止まって脇へ避けた。帽子を被った隊列が、細い坂道を歩いて行くさまは、普段、人の居ない山村には異様に映った。
何事が起こったのか。戦は、九月に終わった筈だった。
制服の集団は、村の役所の前に止まり、戸を叩きつけた。
先頭の髭を生やした男が叫んだ。
「戸長に会いたい」
「何用でございますか。戸長にお伝えいたしますが」
さえぎろうとした下僕は脇へ押しやられた。
「戸長はどこじゃ!」
「隠すとためにならんぞ」と制服の男達が、声を荒げた。
奥の方から、背の高い、精悍な顔つきの男がゆっくりと出てきた。
年の頃は四十を少し過ぎているようで、この辺りでは珍しい洋服を着ていた。
「鬼神野村戸長の若杉信吾に、相違あるまいな」
髭の男は、持っていた顔写真と見比べた。
「逮捕し、美々津警察署まで連行する」
三人の警察官が取り囲んで、縄をかけようとした。
「何をするっ!」下僕は、縄を奪おうとした。
髭の警察官は、表情を変えずに、下僕の方を向いた。
「戸長殿は、逮捕される理由をご存知である」
驚いた下僕は、若杉を見た。
「熊吉、これでいいのだ。訳はいずれ判る。その手を離すんだ」
大人しく縄に付かれた若杉は、遠巻きにした職員らをふり返った。
「これまで、皆ご苦労だった。いずれ替わりの戸長が来ると思うが、私と同じように、これからもこの村のために支えてやってくれ」
警察に縄を引かれ、若杉は外に出た。
「奥方さまに、何とお伝えしたらいいか……」
熊吉は泣いていた。すがるように、行く手を遮ろうとした。
「手紙を書く。それを渡してくれ」
髭の警察官が、熊吉を諭すように言った。
「警察が、責任を持って、必ず届けさせる」
熊吉は、ようやく、付いて歩くのをやめた。
「戸長さま、どうかご無事で、ここに戻ってきてください」
熊吉の声を背に受けながら、若杉は思った。二度と鬼神野に戻ることもないだろう。
霧の中の木々は、葉を落としていた。
萌えるような赤葉をたわわにした櫨の木が、一本だけ残っていた。
子どもの頃に櫨の葉に触れるとかぶれたが、いつ頃からそうならなくなったのか、と思い出しながら歩いて行った。
明治十年十二月二十五日のことだった。
二名の警察官が、突然、村役場に現れた。
「一昨日に女の葬式が行われたはずだ。墓に案内してもらいたい」
「何か事件でも起こったのですか?」役場の官吏は驚いて訊いた。
外には得体の知れない人夫らしき男達がたむろしている。偽警官かも知れない。
「一体、何をなさるおつもりか?」
「遺体を掘り起こして運ぶ」
「何ですと。墓を掘り起こすですと?」
「警察署長の許可だ。この名前の女の墓だ」
警察と名乗った男は、紙をかざした。
「近くだと聞いている」
驚いて出てきた助役が先頭となって、警官たちを、小高い丘にある墓場に連れて行った。
墓石の回りには、菫の花が咲いており、小雨に濡れていた。
人夫達は、鍬で墓を掘り起こし始めた。
役場の官吏が、警官たちに傘をかざした。
木の桶が掘り出され、警官が、中に詰められた遺体を確認した。
人夫は、遺体を新しい棺桶に移し換え、掘った穴を丁寧に埋めた。
「墓石は、元通りにしておくのだ。慕う人も多いだろう」
作業は終わった。
見計らったように、雨がやんだ。
遠くからは、鶯の声が聞こえている。
慇懃だった警官たちは、役場の職員に頭を下げて、人夫と一緒に立ち去った。
助役たちは、呆然と見送った。
何が起こったのか、誰もわからなかった。
明治四十四年三月二十二日のことだった。
警察が墓を暴いたという噂も、山桜が散る頃には消えていた。
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