陸軍次官児玉源太郎は、獄につながれて内務省衛生局長を更迭された無官の民間人の医師に軍の検疫の全てを任せた
検疫は、十四世紀にペストが全ヨーロッパに流行し非常な惨禍をもたらしたことがきっかけとなって始まりました。
1374年に、現在のイタリアにあるモデナでペストの侵入伝播を阻止するために法規が発布されたのが、組織的な防疫法の端緒だと言われています。
1377年に、アドリア海に面したラグーザ共和国(現在はクロアチア)において、ペスト流行地から来た者には1か月間の消毒法を行う等厳重な交通遮断が実施されました。
これが世界における検疫の始まりとされています。
さらに1383年にはマルセイユに検疫所が設けられ、病毒に汚染したおそれのある船舶、貨物を40日間隔離しています。
この「40日間」というイタリア語が検疫の語源となりました。
このようにヨーロッパは、検疫については、650年ほどの伝統があります。
一方のわが国では、幕府が設置した洋書調所が文久2(1861)年に刊行した「官版疫毒預防説」において検疫制度を紹介したことが最初とされています。
きっかけとなった疾病はコレラで、「キュアランタイネ」を検疫と訳しました。
幕府は外国船によるコレラの侵入を防ぐため、港における検疫を計画し各国に通知しました。
この通知に基づき実際に検疫が行われたかどうかは不明で、本格的な検疫制度の実施は明治政府になってからになります。
我が国での検疫の伝統はわずか150年くらいしかありません。
明治10(1877)年9月24日に西南戦争が終結しました。
九州に派遣された軍隊内でコレラが発生していたので、大阪陸軍臨時病院の石黒忠直は、神戸において検疫を実施することを決めます。
9月30日に神戸に入港した船に多数のコレラ患者が発生したため、上陸を禁止し隔離しようとしました。
しかし、官軍の将兵たちは検疫医官を罵りつつ先を争って上陸しました。
そのため神戸市内に300余人のコレラ患者が発生し、列車に乗った将兵により、京都で80人、大津で数十人の患者が発生しました。

明治27(1894)年8月に日清戦争が始まりました。
軍医総監となっていた石黒は、西南戦争の苦い経験から、戦地から帰還する将兵に対し、検疫を実施することを決意し、意見具申しました。
陸軍は、陸軍次官児玉源太郎少将を検疫部長に、後藤新平を事務官長として、検疫を実施します。
後藤は、当時、獄につながれて内務省衛生局長を更迭された無官の医師でした。
検疫には旅団に匹敵する兵員がいます。
児玉将軍に頼まれた後藤は、「軍隊を検疫するためには軍人でなければならない」と断りました。
将軍は押し切って、民間人である後藤に軍の検疫の全てを任せます。
似島(広島)、桜島(大阪)、彦島(山口)の3か所にそれぞれ検疫所を設け、翌年6月から5か月間、23万2346人の検疫を実施しました。
うち消毒は15万8460人、
停留は4万6699人、
コレラ患者は1242人、
死亡は546人でした。
検疫を実施せずに帰省していたらどうなったでしょう。
検疫業務についた職員にも犠牲者が出ました。
136人がコレラを含む伝染病に感染し、56人が亡くなりました。
検疫を実施する側も命がけでした。

児玉のところには、後藤を誹謗中傷する投書が数百通も来ました。
検疫が終了した後、児玉は後藤にその束を渡しました。
児玉は後藤を信頼して、いかなる中傷も受け付けなかったのです。
このコンビは、台湾の行政においても実力を発揮することになります。
これだけの大規模な検疫は、ヨーロッパでもやられたことはありませんでした。
ドイツの皇帝は、絶賛しています。
歴史は面白いです。
