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高野長英はあと三年逃げておれば、別の人生になったかもしれない。

高野長英は、奥州水沢に生まれした。九歳のときに父が死亡し、叔父の高野玄斎の養嗣子となります。

玄斎は杉田玄白の門人でした。

長英は、江戸に遊学してオランダ医学を学びました。
一八二五年に、長崎に行き、シーボルトの鳴滝塾に入ります。

オランダ語の論文をシーボルトに提出し、ドクトルの称号を受けました。

シーボルトの依頼で和文をオランダ語に翻訳する作業に従事します。

一八二八年のシーボルト事件で長崎から逃亡します。

二年後に、江戸に帰って麹町で開業しました。
渡辺崋山や江川英龍らと交際をしています。

一八三九年に「戊戌夢物語」で幕政を批判し、渡辺崋山と供に蛮社の獄で逮捕されました。

永牢の判決を受け、五年間の牢獄生活を送りますが、一八四四年に、放火によって小天馬町の牢舎から脱獄して逃亡しました。

宇和島藩の伊達宗城の庇護を受けて兵書を訳しました。

一八四七年に著した三兵答古知幾(タクチキ)が有名です。

これは、プロシア人のブラント将軍著「歩騎砲三兵戦術書」をオランダ陸軍大学校の教官のミュルケンがオランダ語に訳したものが日本に伝わり、それを訳したものです。

顔を焼いて江戸に戻って開業していた長英は、一八五〇(嘉永三)年十月に捕吏に襲われて自刃しました。享年四七歳でした。

三兵答古知幾は、多くの兵学者に読まれました。
三兵とは、歩兵、騎兵、砲兵のことです。

答古知幾は、用兵術であり、歩兵、騎兵、砲兵を用いた戦術体系がはじめて日本に紹介されたのです。

「歩兵・騎兵・砲兵タクティクス」は、長英を追い詰めた幕府の要人たちにも読まれています。

一八六一年にオイレンブルク伯爵の率いるプロイセンの使節団が、日本と通商条約を結ぶために来日しました。

その使節団にブラント将軍の息子がいました。交渉の幕府の責任者は外国奉行の堀利煕でした。

堀は、一八五四(嘉永七)年に樺太を探索しています。後に幕府海軍を率いて箱館五稜郭で戦うことになる榎本武揚も同行しています。

堀はその後、箱館奉行を務め、蝦夷地を巡視しました。

免疫のないアイヌ人に天然痘が流行した際には、アイヌ人への大規模な種痘を行って、流行を防いでいます。

それが描かれている漫画があります。
村上もとかさんの「侠医冬馬」です。

主人公の松崎冬馬は、北海道・松前藩医の長男。大坂の華岡塾や適塾で医学を学び、その後、幕府の蝦夷派遣医師団に加わって、アイヌに種痘をするために生まれ故郷の蝦夷地に渡ります。

幕末の医学を学びたい人には必見の漫画です。当時の医療が図としてリアルに描かれており、文章だけのハベレオ通信よりもはるかに役に立ちます。

さて、堀は、使節団にブラント将軍の息子がいることを知って、高野長英が訳した本を贈っています。

当時ドイツは三十国ほどの小国に別れており、プロイセンが結んだ条約は自動的に三十国とも結ぶことになることが交渉の途中で判ります。

堀は上司である老中安藤信正に説明したところ、「話が違う」と言って納得しませんでした。

一方、プロイセンも強硬でした。間に挟まった堀は、切腹して責任をとりました。

交渉相手が切腹したことを知ったプロイセンも軟化し、プロイセン一国だけで納得して条約交渉は成立しました。

安藤正信への抗議の切腹と言われてきましたが、プロイセンを納得させるためのものだったのかもしれません。

一八九八(明治三一)年、明治政府は、高野長英の業績を認めて正四位を追贈しています。

勝海舟は、三兵の書を訳したことがその贈位の理由であると記しています。

長英があと三年逃げておれば、別の人生になったかもしれません。

黒船来航の前と後で全てが変わったのですから。

高野長英の血を引いたのが後藤新平です。
歴史は面白いです。

昔、資生堂の男性用オーディコロンの「タクティクス」(戦術)がかっこよくて有名でした。名前が「タクチキ」だったら売れなかったかも。


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