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小浜藩の藩主や藩医がいなかったら、日本人の書による解剖学書は誕生しなかった

わが国の人体解剖の祖は山脇東洋です。

江戸中期の京都出身の朝廷の医師で、一七五四(宝暦四)年閏二月七日、五十歳の時に、京都西郊の刑場六角獄舎において、日本で初めて公許を得た人体解剖を主宰しました。

七〇一年の大宝律令において人体解剖は禁止されました。もはや律令は失われていましたが、解剖の禁止は、歴代の政権に引き継がれていました。

漢方の五臓六腑説に疑問を持ち、師に相談したところ、かわうその解剖を勧められて試みましたが納得がいかず、人体解剖を強く望んでいました。

東洋の弟子に小浜藩医がいました。

幕府の京都所司代は、小浜藩の七代藩主酒井忠用でした。

小浜藩医から解剖許可願いを提出させて、所司代からの許可がとうとうでました。

解剖されたのは、三八歳の刑死人嘉兵衛。
首のない死体でした。

東洋は、刑死人に「夢覚信士」の戒名をつけて手厚く祭り葬ります。「夢覚」は、東洋らの大夢が解剖によって覚まされたことを意味します。

現在の全国の医学部で解剖慰霊祭を行い、献体された方々を祀りますが、その始まりです。

解剖の記録は、五年後の一七五九(宝暦九)年に「臓志」として出版しました。

東洋は、真理は論議して得られるものではない。実物に即してのみ存在するものであると、実験精神が尊いことであることを示しました。

東洋以後、刑死体の解剖を行う医師たちが次々と現れ、解剖図や絵巻として残したり、出版しました。

解剖絵巻は日本特有のもので、世界でも珍しい解剖図とされています。

解剖の経過なども描かれ、このように何でも絵にしてしまうとことは、漫画好きな国民性が現れているように思います。

杉田玄白は、江戸中期の医学者・蘭学者で、若狭小浜藩の藩医をしていました。

人体解剖の機会を待っていた玄白らは、一七七一(明和八)年、江戸の小塚原で人体解剖見学の機会を得て、中津藩医の前野良沢、小浜藩医の中川順庵と同行します。

玄白と良沢が持参したのが、ドイツ人クルムスの解剖書のオランダ語版「ターヘル・アナトミア」でした。

二人はその偶然に驚きます。

さらに、解剖書の内容が正確なことに驚嘆して翻訳を決意しました。

ほとんどオランダ語の知識も無い中、あしかけ四年をかけて一七七四(安永三)年に翻訳が完成し「解体新書」として出版します。

本の巻頭に杉田玄白、中川淳庵の名はありますが、翻訳の主役であった前野良沢の名前がありませんでした。

前野良沢は出版に反対でした。

誤訳もあって正確ではないことがその理由でした。

玄白たちは、絵を出せればいいと考えました。解体新書の一番の武器は絵であり、絵が正確ならば、文章は多少の誤訳があってもいいと割り切っていました。

絵は、蘭学者で西洋画も描いた平賀源内の紹介で秋田藩の絵師小野田直武が担当しました。

当時の日本には銅板の技術は無りませんでしたが、浮世絵の精巧な技術があって髪の毛一本一本まで彫ることが出来ました。

絵師の直武は、クルムスの原本だけでなく、ビドローの解剖図も模写していたことが判明しています。

日本独自の医学書を作ろうという思いがありました。

用心深い玄白は、幕府の奥医師の桂川甫周もこのプロジェクトに引き入れ、幕府や、西洋医学への対抗勢力である漢方医たちの反応を見ながら、慎重に出版の準備を進めます。

まず、絵が中心の予告編を出版して幕府の反応や世間の評判を観察した後、満を持して本体の解体新書を出版しています。

こうした戦略的な出版作戦により世に出た解体新書は大きな反響を呼びました。

時代も場所も違っていますが、ヴェサリウスが出版したファブリカと同じようなインパクトを日本に与えました。

ファブリカは、なによりも衝撃的な絵が特徴で、同じ年に出版されたコペルニクスの地動説とともにヨーロッパ社会を揺るがしています。

日本のファブリカに相当する解体新書が出版された後は、オランダ語の学習と翻訳が活発に行われて「蘭学の時代」が始まりました。

解体新書には「日本」の国名が明記されており、中国への輸出までも企画されていました。

解体新書の訳文の不備を承知していた杉田玄白は、一番弟子だった一関藩医の大槻玄沢に改訂することを託しました。

玄沢は本文を尊重しながら改訂し、新たに造った訳語を、用語解説書に載せ、当時の蘭学の様々な情報も付録にまとめます。

一七九〇年代には草稿は完成していましたが「重訂解体新書」として出版したのは、玄白の没後の一八二六(文政九)年のことでした。

江戸時代の解剖書としては最も充実したものと評価されています。
三分の二は新たに追加した内容でした。

玄沢は、この本の中で、医聖ヒポクラテスを紹介しています。

その後、蘭学者たちはヒポクラテスを賛美し、ヒポクラテスの画像を「医家の守護神」として家に祀りました。

日本の解剖学の発展には小浜藩が相当貢献していると思います。

小浜藩の藩主や藩医がいなかったら、日本には明治になるまで日本人の書による解剖学書は誕生しなかったかもしれません。

小浜藩の藩医の小杉玄適が山脇東洋の人体解剖に立ち会っており、玄白は解剖の様子を聞いて自分で確かめたいと思ったのがきっかけになっています。

小浜市のランドマークとして杉田玄白ミュージアムを建設する計画が進められています。

日本解剖学発祥の地「小浜」を応援したいと思います。

頑張れ小浜市。アメリカのオバマ大統領が来なくても大丈夫です!

このような医学の歴史のエピソード満載の「ミリタリー・メディスン入門」は、おすすめです。


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