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大坂の適塾にはオランダ語辞典ズーフ・ハルマが1冊だけあり、辞典のある部屋は「ズーフ部屋」と呼ばれた

江戸時代の長崎は、世界に開かれていました。

かねてから天然の良港といわれておりました長崎には出島がつくられ、オランダ商館がありました。

貿易相手国は、主としてオランダと清でした。

重要な場所なので、長崎は幕府直轄でした。

そのトップである長崎奉行は、幕府の旗本の中から特に優秀な役人が選ばれて赴任しました。

長崎奉行は、九州の外様大名の監視、外国との交易、長崎の治安と裁判を担当していました。

長崎奉行が指揮する直轄の部隊はなく、佐賀藩と福岡藩が1年交替で、約千人の部隊を派遣することになっていました。

しかし、太平の世が続いたために、佐賀藩は経費節減のために、千人の部隊を百人に縮小していました。

1808年8月15日、一隻の外国船が長崎に近づいてきました。

オランダの国旗を掲げていました。

オランダ商館員2名と長崎奉行所の役人2名が、旗合わせのために、船に近づきました。

突然、オランダ国旗を掲げた船から、鉄砲が突きつけられ、オランダ商館員2名は拘束されてしまいました。

船は、武装した英国船フェートン号でした。

この頃、母国オランダは、ナポレオンが君臨するフランスの支配下にあり、英国とは敵対関係にありました。

英国は、オランダの植民地や商船に攻撃を行っていました。

その作戦の一環で、地球上で唯一オランダ国旗を掲げている出島のオランダ商館と、停泊中のオランダ商船を狙ってきたのです。

日本人は、こうした世界な状況を全く知りませんでした。

英国人は、拘束したオランダ商館員の尋問を行いました。

出島にはオランダ商船はないことが判明しました。

英国人は、長崎奉行に対して、水と食料の供給を要求します。

供給がなければ、長崎湾内に停泊中の日本や清国の船を焼き払うと通告しました。

さらに、英国船はボートを出して、我が物顔で湾内を探索しました。

出島のオランダ商館員は、館長のズーフを含めて、安全な場所へと避難しました。

長崎奉行の松平康英は、「無礼な英国船め、撃ち払え」と佐賀藩に命じました。

ところが、長崎にはいるはずの部隊がなかったのです。

そこで、近くの大村藩、福岡藩、久留米藩、熊本藩に撃ち払うように命令を出しました。

しかし、ドロナワで急に対応することは不可能でした。

長崎奉行は、ズーフに相談しました。

ズーフ商館長は、「長崎は完全武装の英国軍艦に抵抗できる体制になっていないので、水と食料を供給するしかない」と答えました。

こうして、長崎奉行は、フェートン号に水と食料を提供しました。

2名のオランダ人は釈放されました。

フェートン号は、なにごともなかったように出向していきました。

軍艦も砲台も無い長崎では、なすすべもありませんでした。

フェートン号が長崎を立ち去った17日の夜に、長崎奉行は、適切な事態対処できなかった全ての責任を負って切腹しました。

佐賀藩も家老が切腹し、佐賀藩主は百日の閉門となりました。

これが有名なフェートン号事件です。

佐賀藩は、切腹した松平康英の遺児が成長するまで年金を支給しています。

この事件を契機に、佐賀藩は、他藩に先駆けて大砲や軍艦を製造するようになり、明治維新をリードするようになります。

オランダは、1810年にフランスに併合され、国が消滅した状態になっていました。

英国は、オランダの植民地を次々に攻撃し、オランダの本拠地のジャワ島のバタビア(現ジャカルタ)を占領しました。

バタビアの総督となったのが、英国人ラッフルズです。

シンガポールでは英雄とされ、ラッフルズホテルが有名です。

このラッフルズは、日本の出島のオランダ商館乗っ取りを計画しました。

日本産の金・銀・銅は、オランダが独占して巨額の利益を得ておりましたが、オランダに代わって英国が独占しようとしたのです。

出島のオランダ商館長は、ズーフが勤めておりましたが、ラッフルズは、前任者のワルデナールを高額で雇いました。

二隻の船を用意して、船員は全員オランダ人にして、ワルデナールに指揮させて、長崎に向かわせました。

1813年6月27日に二隻の船は出島に到着しました。

久々にオランダ船が入港したので、出島は大喜びしました。

フェートン号事件以来、出島にはオランダ船が来ませんでした。

船が来ないので、出島にオランダ商館がある意味は全くありません。

収入が全くないので、出島の使用料やオランダ商館員の食料費などは、幕府から借金をするという情けないことになっていたのです。

商館長のズーフは、これでやっと一息つけると安心しました。

しかも、やってきたのが、恩人のワルデナールです。
かつてこの人の下で、3年間出島で働き、それが認められて商館長に抜擢されたのです。

恩人のオランダ人ワルデナールから、バタビア総督の書簡を渡されました。

内容を見て、ズーフは驚きました。

「オランダはフランスに併合された。商館長は交替し、出島は英国が接収する」
と書かれてあったのです。

ズーフは、日本人同様に祖国オランダがフランスに併合されたことを知りませんでした。

バタビア総督が英国人ラッフルズになったことも知らされておりません。

喜びから一転、ズーフは怒り心頭となりました。

「そもそも出島のオランダ商館は、バタビア総督の所管ではなくオランダ本国にある。オランダがフランスに併合されたという通知もここには届いていない」

ズーフは、バタビア総督からの命令を拒否しました。

ワルデナールは、「それでは、オランダという国が消滅していることを幕府の役人に伝える」と脅迫しました。

ズーフは、あきれて言いました。

「貴方は、フェートン号事件のことをご存じないのですか? この二隻の船がオランダ船ではなく英国の船だとばれると、船は焼かれて、貴方を含めて全員が打ち首になる」

ズーフは、フェートン号の顛末を、ワルデナールに語りました。

英国船フェートン号が起こした事件を全く知らされていなかったワルデナールは、へたれてしまいました。

ズーフは、出島で働く日本人の通詞5人を呼び、オランダが消滅したという事実を伝えて、今後どのようにすべきか協議しました。

日本人の通詞たちは、ズーフに言いました。

英国船が来たことを幕府に伝えると、かかわった全員が死罪になる。

しかし、幸いなことに、船員は全員がオランダ人で、代表は前の商館長のワルデナールで長崎奉行所にも知り合いが多い。

たとえ英国船だと幕府に判ったとしても、以前、米国船をチャーターして来航した例と同じように扱えばいい、ということで話が一致しました。

そしてズーフと日本人通詞らは、幕府関係者にはいっさいを秘密にして、オランダの商船が来たとして、通常どおりの交易をしました。

幸いなことに、全くばれませんでした。

幕府からの借金もこれで全額返済できました。

オランダは、1815年に独立を回復しました。

ズーフと日本人通詞らは、オランダ本国が消滅したという秘密を誰にも漏らしませんでした。

世界で唯一オランダの国旗がはためいていた出島を、守り抜いたと言っていいでしょう。


ズーフは、日本人に何かお礼をしたいと考えました。

その結果、あるものができあがります。

これにより西洋からの知識を身につけて、日本が近代国家へとすすむことに貢献しました。

さて、あるものとは、一体何でしょう……?。

オランダ人のズーフは、日本にトータル19年間滞在しました。

日本名は「道富」です。

日本語もペラペラで、俳句も詠んだそうです。

日本人の妻がおり、子どもがいました。

名前は、「道富丈吉」です。

ズーフは、フェートン号事件などで日本人に大変迷惑をかけたことから、何か恩返しができないかと考えました。


思いついたのは、辞典です。

日蘭辞典をつくることを企画しました。

参考にしたのが、ハルマというオランダ人が編纂した蘭仏辞典です。

これをもとに、日本人の通詞たちと一緒に、オランダ語の日本語訳の辞典をつくりました。

1819年に、一応の完成をみて、ズーフは離日しました。

妻や丈吉を連れて行くことは、許されませんでした。

長崎奉行に、丈吉の将来を託しました。

ズーフの一人息子の丈吉は、長崎奉行をはじめ長崎の人々から大事にされたそうです。

残念なことに、17歳で夭折しました。

運命は残酷です。

ズーフが日本で収集した貴重な資料や資料を載せた船は、嵐で転覆してしまいました。

日蘭辞典の原稿も失われました。

ズーフがこうした資料をオランダに無事に持ち帰っていたら、日本学者としてシーボルト以上の名声を世界で得たことでしょう。

しかし、日本には辞典の原稿が残っていました。

これをもとに、幕府の命でさらなる編纂が進んで、1823年に完成しています。

約5万語が掲載された日蘭辞典は、「ズーフ・ハルマ」と呼ばれました。

ズーフの名前が付いています。

医師の緒方洪庵が大坂で開いた「適塾」には、日本中からオランダ語を勉強するために若者が集まりました。

適塾にはズーフ・ハルマが1冊だけあり、この辞典が置かれている部屋は、「ズーフ部屋」と呼ばれていました。

慶応大学の開設者の福沢諭吉、後に内務省衛生局長となる長与専斎らは、このズーフ部屋でオランダ語を学んでいます。

勝海舟は、若いときにズーフ・ハルマを筆写して2冊つくり、1冊は売って儲けたと言っています。

5万語も筆写するエネルギーには、驚嘆します。しかも2冊も……。

小学生の夏休みの宿題で「辞典をつくろう」というものがあり、やってみましたが、「あ」の途中で終わりました。しくしく。

やっぱ勝海舟はすごいと思います。

幕末にオランダから輸入された本の多くは、兵学書と医学書でした。

それらの翻訳も、ズーフ・ハルマの辞書によって加速化されました。

日本が開国に向けて舵を切る際に、最も貢献した本だと思います。

ちなみに、幕府が開いた医学所には、多くの学生が集まりました。

その中には、オランダの兵学書を翻訳してアルバイトをしている学生もたくさんいたそうです。

亡くなった緒方洪庵の後を継いで
校長になった松本良順は、
「兵書翻訳アルバイトを禁止して、医学を学べ!」と雷を落としたところ、
学生たちが総反発し、
ボイコット運動を起こされています。

医者のアルバイト好きは昔からなのかと、
いたく納得しました。

医師の働き方改革は、歴史的にも難しいかも。

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