田中角栄は、カエサルの医療政策を知っていた
ローマ帝国では、長らく専門の医師は存在せず、家庭での手当と神様頼みの医療しかありませんでした。
ローマにおける医療は、家長の役割で、一家の労働力を保持するためのものでした。
富裕層は、ローマに出稼ぎに来たギリシャ人医師の治療を受けました。
ローマ人は、医療をギリシャ人に丸投げしたので、日常に使用する言葉はラテン語でしたが、医療だけはギリシャ語が使われておりました。
こうした「医療不毛の地」であるローマ帝国に、皇帝カエサルが登場しました。
英語名はシーザーです。
ローマ帝国の歴史を徹底的に変えた大政治家、と言われています。
最期は、共和制であるローマの歴史を踏みにじるものだと見なされ、暗殺されてしまいます。

カエサルは、医師と教師をローマ市民にする、という改革をしました。
その条件は、首都ローマにおいて、医師は医療、教師は教育に、それぞれ従事することだけでした。
人種も、肌の色も、出身地も、社会的地位も、宗教も、いっさいを不問としました。
ローマの市民権を得ることは、ローマ法で守られる立場になって、大変有利でした。
市民権があれば、免税も受けられ、小麦の無料配布もありました。
コロシウムでの観戦ができる特権も与えられました。
カエサルのこの政策により、既にローマで医療や教育に従事している医師・教師の生活の改善が図られ、多くの優秀な医師や教師がローマに集まりました。
カエサルは、「医師や教師は聖職者である」という概念を持ち出さず、妥当な治療費で医療に従事すること、妥当な授業料で子ども達を教ること、を勧めています。
医師や教師を自由市場に放り出した一見冷たく見える政策は、結果としてローマを目指す医師や教師の数は激増しました。
カエサルは、実は軍医の確保を考えていました。
医療に従事する医師は誰であろうとローマ市民権を与えるという決断で、多数の優秀な軍医の確保が可能になりました。
この結果、辺境を防衛する軍団にも、軍医を常備することができるようになりました。
軍団の基地内にある病院は、重要な役割がありました。
基地内の病院は、軍人ばかりではなく、周辺の地域住民にも開かれていました。
軍団の病院が属州の住民に医療を提供することにより、属州のローマ化が進んでいきました。
カエサルが実施したのは、首都ローマにおける医療や教育に従事する者に対する優遇策でした。
首都ローマで実施されたことは、属州も含めた帝国全体に波及していきました。
医師と教師にローマ市民権を与える政策は、カエサルの死後も代々の皇帝に受け継がれていきました。

「ローマ人の物語」の作者の塩野七恵さんはこのように指摘しています。
ローマには大病院はなかった。
ローマ皇帝は、古代中国の皇帝のように不老不死の薬を求めることもしなかった。
ローマ人は、病気で寿命がつきたのならジタバタしなかった。
若くて元気な者が戦争で負傷をしたり病気になった場合には徹底して医療を施す、そういった方針があった。
カエサルの例を見て、日本の政治家の田中角栄のことを思い出しました。
総理大臣のとき、医療政策として無医村解消を狙った「一県一医大」と「老人医療費無料化」を打ち出しました。
教育政策としては、「教員の給与アップ」と「教科書無償化」を実行しました。
田中角栄は、カエサルの政策に倣ったのです。

宮崎市の大淀川河畔にある橘公園に、「宮崎医学所の跡」の碑があります。
宮崎医学所とは、1880年に開設され、5年後の1885年に廃止された、幻の県立医学校です。
一県一医大政策の結果、1973年に国立の宮崎医科大学が開学され、県内での医師養成が88年ぶりに再開されたのです。
大淀川の夕日は、宮崎観光ホテルに宿泊したノーベル賞作家の川端康成を魅了しました。
大淀川の夕日を眺めながら、宮崎医学所跡の碑を見に行くのは素敵です。
川端康成の「たまゆら」の碑を見て宮崎観光の父の岩切章太郎の碑まで歩くと、もはやあなたは「宮崎通」で、ニシタチでドヤ顔ができます。
やったことはありませんが……。

