直木賞を取る前に宮崎県に帰ってきたことは、私にとってのウォーク・ドント・ランだったと言ってみたい
ウェルフェアみやざき総合研究所の細見潤先生の講演を聞きました。
細見先生は、宮崎市出身の精神科医です。
宮崎南高出身で、鹿児島大学医学部を卒業して、大学病院で勤務した後に、宮崎県立病院や県立精神保健センターに20年勤務して、宮崎市内に精神科のクリニックを開業され、現在はウェルフェアみやざき研究所の所長をされています。
精神科医・産業医として宮崎県職員のメンタルヘルス対策の業務にも関わられております。
先生は、これまでのご自身の人生をまとめた「ウォーク・ドント・ラン」を出版されています。
現在は宮崎日日新聞で「人生行き当たりばったり」を連載中ですので、ご覧になっている方も多いと思います。

細見先生は、1950年8月に、現在の宮崎市役所がある場所で生まれました。
実家は、金属加工工場を備えた金物店・タクシー会社を経営しておりました。
1966年に宮崎南高に入学して、バイクとエレキギターをやったそうです。
無免許だったので、現在の県庁となっている県立図書館の前で警察に捕まって、家庭裁判所送りとなりました。
このときの経験は、精神科医になったときに、家庭裁判所の調査官との対応や不良少年との向き合い方などで役に立ったそうです。
全ての経験を前向きに捉えるところが、先生のすごさです。
1浪して鹿児島大学医学部に合格して、教養の2年間の間に、半年間横浜に行ってアルバイトで生活をしていたそうです。
もどって来たら、「お前は大学を辞めたと思っていた」と同級生から言われました。
卒業の前に自然気胸で約4ヶ月間、大学病院に入院しました。
この間に大学病院の医師の働き方を観察して、外科医は忙しくてとてもなれないと思いました。
一方、精神科は暇そうで、自分に向いていると思って精神科医になることにしました。

民間の精神病院の中を初めて見て、驚愕しました。
大広間の座敷に万年床が敷かれた部屋に、大勢の患者が入院しており、独居房もありました。
独居房にいる患者は、敵意を持ってにらみつけています。
安定している患者もたくさん入院していて、なぜ退院させないのか?、と疑問に思って院長に尋ねました。
入院してきたときに暴れていて家族がうんと言わないとか、地域の理解がないとか、さまざまな理由で、閉鎖された病院の中での入院期間が長期にわたっていました。
一番の問題は、出口戦略がなかったことでした。
そこで、他県で先進的な開放病棟の取り組みをしている院長に手紙を書いて、実際に行って話をききました。
群馬県のある精神科病院では、病院の中にいろんな施設がありました。院長は病院内にディスコを作って踊っていました。
一方、長野県の精神科病院では、病院の中には何も施設はありません。
そこで細見先生は質問をしました。
院長の答えは、「病院外にいくらでも施設はあるではないか。それを利用すればいい。精神病院の患者への偏見もなくなる」
細見先生は納得して、いつか地元宮崎に帰って、地域に開かれた病院をつくろうと決意します。
まずは宮崎県内の精神医療を勉強しよう、と宮崎県立富養園に勤務しました。
ここは措置入院中心の、野戦病院のようなところでした。
今はこの病院はありませんが、当時は保健所と連携して「往診」という名の収容をしていました。
1983年に宇都宮病院事件が起こります。
病院職員のリンチで複数の患者が亡くなっていたことが内部告発で明らかになりました。
大々的に新聞に報道されました。
日本の精神科病院は患者に対する人権がない、退院する出口がない、と国際機関からも指摘され、日本政府は窮地に陥りました。
厚生省は、精神衛生法を改正して、患者の人権擁護と社会復帰を2本柱とする精神保健法を成立させました。
この事件が契機となり、日本には精神科病院が多いので、新規の開設や既存病院の増床は認めない方針になったのです。
細見先生の精神科病院建設の夢は途絶えました。

そんな中、宮崎県精神保健センターのセンター長の話が来ました。どのような施設なのか判らず誰も希望を出しません。
1988年に宮崎県精神保健センターに異動します。
精神科の同僚たちが誰も行きたがらない中、「1年くらいはいい。その後は交替で行きましょう」という考えで先陣を切って細見先生は赴任しました。
ところが、精神保健センターに、すぐ根を下ろしてしまいます。
センターの仕事は、精神医療に関する住民への教育、普及啓発、調査研究などをやるものだったのです。
地域に開かれた精神科病院はつくれなくなったけれど、自分に合っていると思いました。
母子手帳に母親のメンタルチェックを入れたり、精神科病院に長期入院している患者のがん検診システムをつくったり、長期入院を変えていくための精神科病院のガイドラインを作成したりしました。
精神保健センターに勤務したおかげで、全国や九州ブロックでの人的なネットワークが広がりました。
依存症や認知症患者の回想法などの取組を知ることになります。

1年の予定が14年間も所長をやったので、後任を指名して、2001年に宮崎県精神保健センターを退職して、クリニックを開設しました。
一般精神医療のほかに、依存症、認知症ケアの2枚看板にしました。
「風通しが悪いと、人・組織は腐る」を基本理念にしました。
クリニックに勤務する職員には国内外での研修を受けさせました。
学生実習も積極的に受け入れます。
地域回想療法のサミットを2回宮崎県で実施しました。
ベンチャーズのエドワーズのコンサートを開きました。
これも一種の回想法だと考えたのです。

回想法での思い出のエピソードを紹介しました。
細見クリニックに連れてこられた認知症の男性がいました。
見るからに不機嫌で、なんでこんなところに連れてこられんといかんのか、という態度でした。
昔、ダンスをしていたということを聞いていたので、宮崎市内にあった「フロリダ」というダンスホールの話をしました。
するとフロリダの常連だったらしく、一転して機嫌がよくなって、若い頃のことをたくさんしゃべりました。
最後には、「また来る」と言って、笑顔で帰りました。
家族は、今言ったことも忘れるほど認知機能が低下していたのに、昔の細かいことをしゃべる姿に驚きました。
認知症ケアに回想法は効果があることがよく分かりました。

自分の人生を回顧することで、自分の人生を再確認し、もしも過去に未解決な心理的葛藤があれば、それに向き合い、それを人生の中の意味あるものとして再統合していく、「ライフビュー」という作業があることを知りました。
母のライフビューをまとめて、出版しました。
半年後に母は亡くなりますが、母が自分の人生を整理統合し、完全燃焼して旅立ったことを実感し、穏やかな気持ちで母を見送ることができました。
自分もかくありたいと思い、自分のライフビューを行い、「ウォーク・ドント・ラン」として出版しました。
自分がこれまで生きてきた意義を感じることができたそうです。
大げさだけどいつ死んでもいいという清々しい気持ちになりました。ただ、奥さんからは叱られたそうです。
「これから迎える人生の節目に、自らのライフビューに挑戦してみませんか?」
細見先生はそうおっしゃっておりました。

講演の最後に、竹内まりあさんのバックミュージックで、これまでの細見先生の人生の節目の写真が次々と映し出されました。
他人の人生ですが、涙してしまいました。
細見先生が宮崎県の精神保健センター長時代に、「公衆衛生を考える若手医師の会」を組織しています。
スライドには、知っている先生方のお名前がずらりとならびました。
「ウォーク・ドント・ラン」は、ベンチャースの曲の名前です。
日本語で言えば、「急がば回れ」です。
会場で細見先生のサイン本を購入し、一緒に記念撮影を撮っていただきました。
その後、宮崎市の永山英也副市長の講演がありました。
「宮崎からは芥川賞・直木賞が出ていない」という発言がありました。
こ、これは、私へのエールだと感じました!
いつか私のライフビューで、「直木賞をとるまえに宮崎に帰って来たことは、ウォーク・ドント・ランでした」と言ってみたいです。

細見先生の「ウォーク・ドント・ラン」は、日本の精神医療の歴史を学ぶのにも絶好の一冊です。
