見出し画像

1800年~1850年のパリの病院が近代医学を発展させた

フランス革命後に、フランスは医師不足でした。

1792年に革命政府の布告で、伝統的な大学医学部は解体され、医療体制の再建が図られることになります。

特に軍隊に医師を供給することが急務となったのです。

フランスは1795年に、パリに衛生学校(エコール・ド・サンテ)をつくりました。

後に医学校となり、1803年には、パリ大学医学部となります。

パリの医学は、後に「病院の医学」と呼ばれるようになります。

医学史家は、1800年~1850年のパリが近代医学を発展させたと指摘しています。

パリには二万人の患者を収容する30をくだらない病院があり、この都市に住む5000人の医学生の教育にあたったのです。

これらの病院群は、教育と研究の上で著しく重要性を増していました。

パリの病院医学には、以下のような特徴がありました。

①病人の治療に的を絞りました。

病院はそれ以前は、困窮者が混在した福祉施設でした。

②内科と外科を医学という新しい概念に統一して病院で教えました。

それ以前は、大学で全く別のものとして扱われていました。こうした不毛な分離をやめたことは、歴史的な変更でした。

③聴診、打診など新しく開発された診断法を診察に応用しました。

フランスの医師ルイ・ラエンネックによって「聴診器」が発明されました。

この聴診器の発明とその後の改良が、診断学上、特に胸部疾患の診断にとって価値があるものでした。

このときから、医師は患者を観察するだけでなく、患者を検査することになったのです。

④病理学を重視しました。

病院ではなくなった患者の死体解剖を行いました。

こうしたパリの病院には若い医師が集まりました。

その中には、地方の先輩医師たちと比べて、自分たちの仕事にいっそう批判的、客観的な医師達がいました。

代表的な医師として、ピネルがいます。
精神病の研究のために病院を利用しました。

ピネルは、精神病患者から手足の枷を取り除くように命令をしたことは有名です。

また、ピエール・ルイというフランス人の医師も有名です。

日本では知らない人も多いのですが、臨床観察に統計的方法を導入した先駆者です。

当時は、万能の治療法と信じられていた「瀉血」が、実は肺炎などの治療に効果がないばかりか、有害である場合が多いことを、統計データを用いて初めて証明しました。

ルイが示した方法は、患者を数の形で表示し、ある治療法を受けたグループと、それを受けぬグループとを対照にすることでした。

このような統計的方法は、聴診法や打診法と同じように、診療的観察の新しい方法を提供するものでした。

現代の「根拠に基づく医療(EBM)」の基礎を築いた人物の一人です。

ルイは、これまでの先輩医師の伝統芸能的な因習的治療である「瀉血」を葬り去った偉大な医師です。

このような一連の取組が、臨床に強い医学を形成し、フランスに病院医学の繁栄をもたらしました。

この動きはヨーロッパ中に広がります。

フランス革命に引き続くナポレオン戦争の結果、外科医の需要が大幅に増加しました。

ナポレオン戦争に従軍した各国の軍医たちは衛生の大事さを理解し、また各国が軍医学校を創設していくことになりました。

陸軍軍医学校は、フランスのパリを始め、ウトレヒト(オランダ)、ベルリン(ドイツ)、ウィーン(オーストリア)など一斉にヨーロッパ各地に出現していき、近代的な医学教育が開始されることになります。

軍医学校では、従来の大学と違って、学問としての内科学と、技術としての外科学とを融合、一本化し、公平・均等に教えました。

この課程で、ラテン語は医学共通語としての機能を失って、母国語にかわらられます。

大学は、宗教と伝統に縛られ、自治を重んじて、非実用、哲学的な医学教育を行っていました。

しかし、大学に国家権力が介入して、軍医学校のような合理的な医学教育方法を、19世紀後半から取り入れるようになります。

こうして19世紀末には、各地の陸軍軍医学校はその役割を終えて廃校となり、国家が大学を経営し、実学的な統一概念としての医学を教えるようになりました。

19世紀後半には、ヨーロッパ大陸では、医師には国家が資格を与えるようになりました。

軍陣医学が、医学全般の発展に貢献をしたのです。

我が国に初めて近代医学教育を伝えたのは、オランダの軍医ポンペです。

ポンペを含めて10人のウトレヒト陸軍軍医学校出身の軍医が、1871年までに来日して教鞭をとっています。

日本の近代医療は、オランダの軍陣医学から始まっています。

いいなと思ったら応援しよう!