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現地対策本部長の依頼文書で、原発事故のときに日本救急医学会としてまとまった活動ができた

現地対策本部(オフサイトセンター)は、
福島県の議会議事堂のあるビルの五階に
設けられていました。

経産省の副大臣が
現地の対策本部長として座っており、
副本部長には福島県の副知事がおりました。
現在の知事です。

オフサイトセンターには、
一二個の班があり、
自衛隊の班や東京電力の班もありました。

一日二回(朝・夕)の班長会議があり、
各班の班長が報告をしました。

テレビ会議の装置もあって、
東京電力本社
Jヴィレッジ
第一原発
第二原発
とつながっていました。

医療班には、
福島県
東京電力
文科省
厚労省
放射線医学研究所
広島大学
から派遣された人がいました。

私が医療班長に着任してやったことは、
班員の名簿の整理です。

名前と
携帯電話と
メールアドレス
派遣元の所属
派遣期間
などが、一目で判るようにしました。

医療班における
それぞれの役割と担当を明記しました。

班員がめまぐるしく入れ替わるので、
引き継ぎをきちんとすることと、
大事な項目は、全てこの一枚の紙に載せることを
徹底しました。

何かあれば、
医療班長に報告
をしてもらうようにしました。

医療搬送体制を組むに当たって、
第一原発のアクセスと支援の拠点
となっていたJヴィレッジや、
県内の最終後送先となっている 福島県立医大病院などを視察しました。

福島県は大きくて、
実際に現場に行かないと
距離感がつかむことができないので、
最初に実施したこの視察は有用でした。

現場の状況がよくわかりました。

現場に働いているスタッフに、
自分達が
オフサイトセンターで二四時間待機して、
患者搬送の医療支援の調整を行う
ことを伝えました。

Jヴィレッジと福島県立医大には、
除染所がありました。

第一原発から半径二〇キロ圏内は、
立ち入り禁止区域となっていました。

二〇キロ圏内は、
自治体消防の救急車は入ることができません。

オフサイトセンターの人間も、
許可がないと
第一原発の中に入ることができませんでした。

第一原発内で被ばく事故が発生した場合は、
まず東京電力の車で搬送して、
Jヴィレッジで除染をして、
放射線濃度を測定し、
応急処置をすることにしました。

次に、
Jヴィレッジからは双葉町の消防の救急車で、
いわき市の市立病院に搬送するか、
ヘリコプターで福島県立医大病院に搬送する
ことになりました。

こうした手順は、一枚の紙にまとめて、
第一原発(F1)
Jヴィレッジ(JV)
オフサイトセンター(OFC)
福島県立医大病院

で共有しました。

当初、原発の作業員については、
放射線の測定結果がないと
病院は診療してくれませんでした。

病院の中が放射性物質に汚染されることを、
極度に恐れていたのです。

Jヴィレッジで測定した結果の紙だけでは
信用されず、
実際に測定した放射線管理員(放管)
を連れてくるように言われました。

たとえ連れて行っても
何のたしにもならないのですが、
本当のことです。

発災直後から東京消防庁の消防隊員が
第一原発に出動しており、
消防庁長官からの依頼で
日本救急医学会の専門医も同行していました。

三月いっぱいで東京消防庁が
引き上げることになりました。

仲良くなった救急医学会の先生が
「オフサイトセンターが残ってくれと言うのなら、心配だし、残ってもいいよ」
と言ってくれました。

このことを、
オフサイトセンターの経産省副大臣に
報告しました。

現地対策本部長名で、日本救急医学会あてに
救急専門医派遣要請の文書を至急発出することに
ご了解をいただきました。

救急医学会の専門医には、
オフサイトセンターと
Jヴィレッジの
二ヶ所に
一週間交替で
来てもらうことになりました。

中央に相談する暇がなく、
全く、現地対策本部の独断でした。

事後報告をしたところ、
ある中央官庁の役人から
「こちらに何の相談もなく勝手にやったことで、日本救急医学会の医師の旅費は出せない!」
と怒鳴り声の電話がありました。

「現地本部長の経産副大臣の許可はもらっている。救急搬送ができずに、原発作業員が亡くなったらどうする。そのときはお前の責任だ。覚えておくから名前を言えっ!」

こちらもアドレナリン全開で、
激しく応戦しました。

この日本救急医学会の旅費問題は、 
こじれにこじれて、
そのままになっていました。

医療班の班員に聞くと、
ある中央官庁の役人が大変にご立腹されており、
絶対に了解してくれないとのことでした。

班員は言いませんでしたが、
どうも原因は私の発言にあるようでした。

救急医学会の先生方は優しくて、「旅費は後からでもいい」とおっしゃってくれました。

五月の連休中に
第一原発で作業をしていた作業員が、
突然の心停止で倒れて、
福島県立医大病院まで緊急搬送しましたが、
亡くなりました。

そのとき私は、
経産省の二階にあった
内閣府の放射線被害者生活支援チームの
医療班長でした。

現地からの連絡が届くと、
「なぜ死なせた?」
「現地の医療体制は、いったいどうなっているんだ?」
「国会で聞かれるぞ。至急、現地対策本部に聞いて詳細を調べろ」
騒ぎになりました。

私は現地対策本部で医療班長をしていた。

現地から詳細な報告は私のところにも来ている。
事前に作成してあるマニュアルに従って
緊急搬送され、救急医学の専門医が対応したが
救えなかった。

霞が関のこの部屋で倒れても、同じ結果になる。


私が話をすると、静かになりました。

連休明けの国会で質問されるかもしれないので
想定問答を作成して、
後任の医療班長に引き継ぎました。

予想どおり国会質問があり、
経産省の審議官が答弁しました。

「第一原発の復旧作業に従事している作業員の医療体制については、現地対策本部において、日本救急医学会の協力を得て救急医学の専門医を配置して対応しているとことであり、今後とも継続して行うこととしている。」

救急医学会の専門医の旅費を出すことに
最後まで抵抗されていたある中央官庁の役人は、
国会での答弁をどのように聞いていたのか。

直接お会いしたことはなく、
電話のどなり声しか、覚えておりません。
名前も聞いたはずでしたが、忘却のかなたです。

救急医学会の専門医の旅費だけでなく、
事故があったときの補償など、
事前に詰めなければならないことは
山ほどあったと思います。

勝手に進めたことは
通常の役人道から言えば外れており、
叱られても当たり前でしょう。
あのときの非礼には、お詫び申し上げます。

しかし、原発事故は史上初のこと。
前例などありません。

なにより、
経産副大臣をされていた現地対策本部長が
「救急医学会が引きあげる前に、依頼文書を早く出せ!」
とおっしゃってくださったことが
大きかったと思います。

何年か後に、
日本救急医学会の幹部の先生に会いました。

現地対策本部長名の依頼文書があったので、
原発事故のときに
学会としてまとまった活動ができた

とお礼を言われました。

危機管理のときは、
平時とはモードが変わります。

このことを教えてくれたのは、
警察出身で、初代内閣官房安全保障室長だった
佐々淳行さんです。

平時は「after you(お先にどうぞ)」
有事は「follow me(俺についてこい)」


佐々淳行さんは危機管理のプロで、
多くの本がありますが、
いずれも読みやすくて大変勉強になり、
おすすめです。

佐々さんの危機管理本のおかげで、助かりました。

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