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【短編】 ストーリー

私がまだ駅から遠いアパートの2階に住んでいたとき、世界は私たちだけのものだった。小さなおままごとみたいに、私たちの生活はだれにも触れられず、なにからも蝕まれず、やわらかいままだった。

あなたの声で聞くおめでとうが好きだった。何にせよ祝福というものは喜ばしいものだけど、あなたは特別だった。
私の誕生日には、近所の洋菓子店に二人でケーキを買いに行った。せっかく買ったケーキに穴をあけたくなくて、スーパーのシフォンケーキに歳の数分ろうそくを差した。火をつける直前になって火事になりそうだから、と外した穴ぼこのシフォンケーキを見て、私たちは笑いあった。
おめでとうかあ、優しい言葉だなあ、と何度も言われながら思った。生まれてきてよかったなんて照れくさいことを初めて心底から思った。

一人きりで海外留学をする、と言われ喧嘩した帰り道、しっとりとした小雨が降った。
よりにもよって、あなたは傘を持っていなくて、むかむかしながら二人でひとつの傘に身を隠した。
「傘さすの下手くそ」
「ばか」
不機嫌になるのに慣れていなくて些細な言葉を投げつけているうちに、疲れて怒るのも面倒になった。言葉は出なくて、ただ傘からはみ出した私の左肩から小さな雫が滑り落ちている。
「…今日、傘忘れてよかったかもな」
「なんでよ」
「雨が降っても一緒に濡れてくれる人がいるんだって気づけたから」
「ばか」
そう言ったきり、私達は言葉を交わさなくなった。私は住宅街のあかりを横切りながら、夜は静かだと思ったことを覚えている。

それから幾日かして、ふたりして布団にくるまっているとき、あなたが突然言った。
「愛って、たぶん布状だよね」
「ぬの?」と聞き返すと、
「心を包んで、守ってくれるものだから。」
とだけ、あなたは応えた。

あなたに会えなくなると、私はずいぶんと繊細になった。一切れのケーキを、何気ない部屋を、静かな雨を、やわらかい陽だまりを、全て愛おしくなってしまって、困った。

夜が眠れなかった。
もし今までのすべてがまぼろしで、覚めてしまったっきり、二度と手の届かない幸せかもしれないと思うと、目を閉じるのが怖くなった。寝ようとしている間にも、ひとつ、またひとつと何か忘れていく気がして、いてもたってもいられなくなって、家を出た。外は蛍みたいに行き交う車が、夜の街を照らしていた。ふと住処に囲まれた公園の常夜灯がいつもより輝いて見えて、私は吸い込まれるように公園に入っていく。そこには淡い電灯の下にわずかな葉桜があって、そよ風のような香りがした。私は圧倒されてしまって、ため息をついた。

振り返れば、きっかけひとつで割れてしまいそうなやさしい思い出ばかりだった。でも私は、可愛らしくてあたたかい、そんな日々が大好きだった。

それから私は、ストーリーを作らなくちゃいけなかった。だって、ささやかな言葉や記憶では潰れてしまいそうな思い出達を、守ってあげないといけなかったから。
それにはただ想うだけじゃ足りないと思った。物語にして、私のこころに直接結びつけて、少し夢から覚めたくらいじゃ忘れないくらい素敵な言葉を紡がなくちゃいけなかった。

私はスマホを取り出してひとつひとつの思い出をメモに写し取っていく。思い出の香りと温度が少しずつ染みていって、私を潤していくのがわかる。温かいココアを飲んだみたいに、体と心が少しずつほぐれてくる。

ひとしきりまとまると、私は公園のベンチで言葉を紡ぎ始めた。
もう、書き出しは決まっていた。

春の夜の空気は、まだやわらかい。
私は、いつかなにも思い出せなくなっても、この温もりだけは覚えていようと思った。





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