性の話〜性は生、とか
※この記事は途中から有料にしました。センシティブな内容だからですが、伝えたいことでもあるので記事のほとんどは無料です。
私は自分が「カトリックの家庭」であること、「両親が離婚した家庭」であるという、少し前の田舎ではマイノリティーな子ども時代を過ごした。
だからというわけではないけれど、マイノリティーという立場にはいつも共感を抱くことが多い。誤った認識かもしれなくても。
いま思えば私は診断すればADHDとか自閉症スペクトラムとか言われるような特性もあり、「変わった子」「不思議な感性」「感受性豊か」などと周囲に言われていた。
自分でも若干の生きづらさを抱きながらも、母からは「変わってる?素晴らしい個性。個性を大事に育てているからそれでいい。あなたは誇らしいよ」と言われ続けて肯定されてきたので、自分に自信がないながらも、母には愛されている実感はあった。
それはとてもありがたかったと思う。
同時にお嬢様育ちの母は、性の話題をすべてタブー視していて、初潮を迎えた私にもきちんと対処法を教えず、あら、、と少し困った顔をされたきりだった。
そんなだから、性はよくないこと、という感情がインプットされてしまい、性に関心が強い私は「汚れた子」「悪い子」だと思っていた。
高校の時は、女子校でもあり、同性にどうしようもなく惹かれたりした。なかには私のことをマスコットのようにかわいがってくれる大人びたクラスメイトもいて、顔を至近距離まで寄せて「かわいいねぇ」などとささやかれて頬をなでられると、ぞわっとして体中で心臓が響き渡るような感覚があった。
自分は同性愛者なのかもしれないと感じたり、そのような描写のある映画を観たりすると(性に関心があった頃、たしかチャタレイ夫人の恋人とかエマニュエル夫人とかなにか、またはツイン・ピークス、だったような)、同性との性行為に対する強い憧れも生まれたりした。
社会人になり、人の話を聞いてまとめるようなライターのような仕事に就いていたとき、ある産婦人科医の言葉が印象に強く残った。
性は、生なんです。命そのものなんです。
その人は、乱暴な性行為やレイプ、DVなどの被害者のケアをしている医師で、性を乱暴に扱われた人の多くで、自尊心を低くされ、自分は汚れて、生きる価値もないと思っていると感じる。
汚い自分だからもっと汚してもよいと、さらに自分の性を売ったり乱暴に扱わせる行動に出てしまうと。
だから、ケアする自分たちは、あなたは汚れていない、心は、性は、生は、どんな人でも大事にされるものであると伝え続けるのだと。
これは究極な性教育で、すごく広めたいものだと感じた。
少し客観的に自分を眺められて、私自身が救われるような心持ちもあった。
件の、私にモーションをかけてきた子は、その後卒業間近、恋人との間にできた子を中絶したと噂で聞いた。
カトリックの教えを伝えていたやや厳格な価値観の女子高校だったけれど、その噂を聞く直前、胎児を無理に押しつぶす中絶の際の中の画像を生徒に見せて、中絶はいけません、という授業を行なっていたのを思い出し、なんて残酷な学校なんだと思った。彼女のことも知っての授業だったのではないだろうか。
ミッションスクールならば、彼女の心のケアのほうが大事ではないかと、母校に対して怒りを抱いたまま私は卒業したのだった。
性は、生です。
そんな授業をできる学校になればと願って、この医師の記事を書いたのを覚えている。
時が流れ。私は結婚した。
夫は性にオープンな人なので、私が実家で味わったような性に対する潔癖さは一切ない家となった。
私自身も、生理のことは子どもが小さな時から男女問わず普通に話すし、息子たちが小さなうちから、恋愛対象が同性である場合もあるよ、と伝えてきた。
時代の変化もあり、社会的にもその考え方自体が広まっているように思う。
そんななか、長い期間不登校であった長男が15歳のとき、朝井リョウさんの「正欲」を図書館で借りて、私にも読むよう勧めてきた。
ここに出てくるひとびとは、それぞれ別の性的指向をもっている。
水を見ることで性欲が満たされる人、水がかかる小児に興奮する人、恋愛感情を抱けない人、それぞれの「多様性」を認めようという社会の中で「マジョリティな多様性」と「マイノリティーな多様性」があることに悲しみを抱いている。
どこかで彼らは細い糸のようなつながりと希望を見つけて、かろうじて生きようとしている。
読書の感想を伝えながら、息子と話した。
息子からすると、私もマジョリティ側にいるということで「理解したい」とか「理解しようとしている」という言葉はとてもおこがましい、と言われていた。
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