深夜に哲学する親子〜感情の記憶とか発達障害とか
長いこと、自分のことを繊細だと思っていた。 どうやら、繊細とは違うような気がする。
確かに高校生の頃、紛争のニュースを見てひどく傷ついて大泣きしながら「戦争はどうしたら無くなるの」と言っていたことは、あった。
中学生の頃、ひとり金曜ロードショーの「ターミネーター2」を観て、数時間泣き続けたこともあった。
あれは今でも5本の指にはいる名作だ。
高校に入るにあたり読むよう言われた『塩狩峠』(三浦綾子)を読み、主人公が人々を救うために自ら身を投じて電車を停めたところで大号泣したこともあった。
でもそれは、繊細というわけではなく、多くの人が感じる命への共感とか、人のためにいのちをなげうつ尊さへの感情であって、どちらかというと私は「鈍感」な部類にはいる。
いつも他人事で、人のことを、時には自分のことすら自分事としてとらえられない。
情に篤い人、というのがいる。
私は、本当は情に薄い。
ただ、篤いように見せかけることはできた。
優しいとかいい人と言われる度に、「腹黒いよ」とか「冷たいよ」と自虐的に言うのだけど、本心でもある。
昨日の夜、14歳次女と18歳長男と夜中まで語っていた。
フォローしているnoteクリエイターさんが、ご自分を「感情の記憶がなくなるSDAM(自伝的記憶の重度欠如)であるようだ」と記事に書いていて、その話を2人にシェアした。
そこから、記憶の話になった。
なおSDAMとは、
SDAMの人は:事実は覚えている(例:「私は○○高校に通っていた」)
でも、その時の場面を“再体験”できない
映像的に思い出せない
感情が伴わないことが多い
つまり、
📚 「人生の履歴書」はある
🎥 でも「映像付きの思い出アルバム」がない
というイメージです。
簡単に言うと、行った場所や行動は覚えているが感情を伴うエピソードが記憶されていない、ということのよう。
長男は逆に、その行為や出来事の記憶は忘れるが感情の記憶だけ残るので、時々原因の分からない悲しみが出てくることがあるという。
じゃあ、記憶は動画か写真か、という話になり、私はいつでも音の聴こえない動画だと言ったら、次女は「動画?!」となかなか信じられないふうに何度も言う。
次女の記憶は写真タイプで、その横に「感情」が明確に記憶されている感じだ、と説明する。
「だって、動画じゃあ容量がいっぱいになっちゃうじゃん」。確かに。
記憶もそれぞれだね、じゃあ、お母さん、感情はどのように残っているの?と次女に聞かれて「あれ?」となった。
感情の記憶?
感情?
記憶している「動画」に、感情がなかった。
ではあらためて記憶に伴う感情を思い起こそうとしても出てこない。
恐怖、悲しみ、寂しさ、楽しさ、喜びなどが思い浮かばないのだ。
普段の生活でも感情があまりないのではないかと、そんな考えが頭をよぎる。
自分のことであっても「すべてが他人事(ひとごと)」のように感じて、空恐ろしくなったことがある。
何回か車をぶつけたことがある。
そのときも現実味がなく、自分を俯瞰しているような奇妙さを覚えた。
それは、冷たさとも言えるし、他者へも無感情・無関心とも言えるのかもしれない。認めたくないけれど。
そんなことを娘息子に話していたら、ふたりとも少し驚いて、憐憫の表情になった。
何かしら、トラウマでもあったのではないか、なんとか乖離とかではないか、とまで心配したようだった。
でもまぁ、そういうこともあるよね、とどちらともなく言う。
自分のこともすべて他人事、というのは、なんだか大きな欠陥のような気もしてくる。
次女はその記憶力のせいで、一度怖い感情や不快感を抱くと、かなり長いことそれを思い出してしまうのだという。
次女の不登校の要因の一つでもある。
話はやがてひょんなことから「発達障害」のことに切り替わる。
「ADHD」は、なんの略なんだろうとの長男の疑問から(Attention-Deficit / Hyperactivity Disorderの頭文字とのこと)。
「英語はわからないけど、日本語だと『注意欠陥多動性障害』だよね」
と私は答え、さらに
「どちらかだったり、両方だったり。私は典型的な注意欠陥だよね。診断受けてないけど」
とまで言ったら、2人とも顔を見合わせて「えっ?」と言う。
「いや、見てたらわかるじゃん、火をつけっぱなしにしたり、片付けられなかったり、時間を見誤ったり」
と、聞かれてもいないのに自分の特性を並べたら、本当に驚いていた。
「生活に支障があるわけじゃないんだから、軽度ではあるよね。お母さんのはグレーゾーンってやつじゃない?診断が出ないやつ」と長男。
まぁ、そうね、みんなが助けてくれてなんとかなっているので生活に支障ないといえばないね。
自閉症スペクトラムについても話が及び、広辞苑に載っている意味などを子どもふたりで話している。
長男にはあなたは自閉症スペクトラムと言われているよと話したことがあったけど、次女にも診断がついていたと話したのだったかな、と考えていると、次女が言う。
「診断名って、重要ではないような気がするんだよね」
長男も同意のよう。
「特性を理解されることで便宜を図ってもらうとか、そういうわけではなくてさ」と私は口を挟む。
「学校とか会社で、自分や社員が発達障害と診断されていれば、特性としてこういうのがある、それゆえにこんなことが起きるかもしれない、と事前に把握できて、ライフハックじゃないけど、学校生活とか仕事とかやりやすくなるじゃない?」
ふうん、とふたり。
「そもそもさ、定型発達とかいう人って、この世にいるの?」と長男が言う。
グラデーションのように、どんな人にもそれぞれ特性があって、ある程度を過ぎると診断名がつくのではないか、と言いたいようだ。
でもいろいろな「特性」を省いて、残ったものばかりの人は「定型発達」と言えるのかもしれない、などとふたりで話している。
日経Gooday(https://gooday.nikkei.co.jp/)の中に「もしも発達障害が多数派ならば、『普通の人』とはどんな人?」という対談があった。
教育心理支援教室・研究所「ガジュマルつがる」代表の松本敏治さんに、フリーライターの黒坂真由子さんが話を聞いているのだけど、その中に、松本さんのこんな言葉がある。
僕は「ガジュマル」という発達障害当事者会を運営しています。そこではASD(自閉症スペクトラム)の人たちが多数派で、定型発達の人はいたとしても少数派です。そういう環境でASDの人たちが語り合うと、お互い「分かる、分かる」って言うんです。僕もADHDの傾向が色濃くありますが、ASDのみんなが「分かる」と盛り上がっていることのなかに、さっぱり分からないことがある。それで質問すると、逆に、「なんでそう思うの?」と聞かれるんです。
そんなふうにASDの人が多数派で、定型発達の人が少数派の世界になったら、定型発達の人たちのほうが「なにかおかしい」ということになるでしょう。「なんで、表情を読もうとするの?」「発言で判断したほうが、合理的でしょ」などと。
(中略)
普通の教室では、定型発達の子どもが多数派ですが、もしも人数が逆転して、例えば、ASDの子が25人、定型発達の子が5人しかいないクラスだったらどうでしょう。きっと「あの5人はおかしい」となるはずです。人数が逆転するだけで、定型発達の均質性が際立ち、異彩を放つと思うんです。なんでこの人たち、みんな同じなの? 同じような考え方をするの? 社会的振る舞いも驚くほど似てるよね、と。
もしも発達障害が多数派ならば、「普通の人」とはどんな人?
そう、それそれ。
我が家はみんなが診断を受けたわけではないけど、たぶん発達障害が多数派な家族だ。
だから、いわゆる「定型発達」がわからない。
でも、学校時代に感じた「普通の人の感覚が分からない」の「普通」の人たちがたぶん、「定型発達」なのだろうと思う。
それでも「定型発達」と言われる人と親しくなると、それぞれ発達障害ではないながらも、何かしら抱えていることがあると分かる。
だから長男としては、こうなる。
「発達障害があるとかないとかではなくて、みんなが互いに補い合えるのがいいよね」と。
いろんな人がいていいよね、といういまの時代は、なかなかよいけど、まだ途上だと思う。
これから数十年もしたら、もっと人は互いを受け入れ合っているのではないかと、願ったりもする。
次女はこういう話を永遠にしたいみたいだけど、深夜1時に近くなり、私も長男も大あくび。
残念だけどまたの機会に。
次女もあくびしながら、部屋に行ったのであった。
楽しかったなぁ。
こんなふうにとりとめなく、時間も価値観も気にせず、相手がなにを考えているかなども考えずに議論したり語り合えたりする人がいるというのが、私にはとてもうれしい。
昔「あなたは頭のネジが1本抜けている」と言われたことがあった。
それを書いた記事はこれ。
