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過去と現在と未来②〜長男の未来への希望「思いやり」という真理

※先日のnoteを読み返すにつけ、2つのテーマをつなぎ合わせた違和感がぬぐえなかったので、①と②に分けました。記事の内容は同じです。
↓①は、これ。

このところ通院や通学の都合で18歳長男と、月に2、3回、片道3、40分のドライブをしている。

最近はきょうだいのこと、noteに書いたようなことだけど家族で補い合っていること、学校の教育について、政治について、倫理、宗教、哲学まで、車中ではいろいろ話す。

こないだ、長男は「おれね、1つ分かったことがある」と言い出した。

それは「みなが思いやりをもつこと」。
それさえできれば、世界は幸せになると。

だけど、どうしたらその考えが広まるのか分からないと、少しだけ途方に暮れた顔をする。

それでも、これは真理であって、自分にとっては希望で力がみなぎってくるんだ、と言う。
いっとき、死にたいとも口にしたことのある長男が、その希望で、いまとても前向きに生きていると目を輝かせている。


小1から小2にかけて、学校に行きたくないことが増えた長男を、担任の先生も学校に通い続けてほしくて必死だったのだろう、しばしば家に迎えに来た。

柱にしがみついて抵抗する息子を先生のところに連れて行くと、少しがっしりした保健室の先生ががしっと息子を抱きかかえ、そのまま2人で車に乗せて学校に行ったことが何回もあった。

同じやり方をしたどこかの先生が、2年前だったか提訴されていたニュースを見て、それほどのことだったのかと私は衝撃を受けた。

きつい言葉で言えば「拉致」のようだった。

その話もこないだ、長男とした。

「おれ、無理矢理連れ出されてさ、、大きな先生に。あんな、人権を無視されるなんてないよね」と、長男は苦く笑った。

それは、そうだよね。
12年経っても忘れられるわけがない恐怖。

当時、担任の先生と主任の先生と面談した時に、私は「こういう日々(学校が合わない思いを抱えながら通わなければならないこと)が続くのを、まだ6歳ながらになんだか絶望しているような、そういうふうに見えます」と伝えたことがある。

息子からは6歳ながらに、学校に希望を見いだせない雰囲気が漂っていた。


6歳だって7歳だって「思い」はある。「感情」はある。それを尊重したかった。

でも2人の先生はそれを一笑に付した。

「あはは!大げさな!6歳はね、お母さん、そんなこと考えませんよ。嫌だから行きたくない、それだけです。いま、無理させないでどうするんですか。がんばってください、お母さん。流されてどうするんですか」

ベテランの主任はそう言った。

「そうですかね、、」

まだ2人目がようやく小学校に入った自信のない新人母さんは、先生に従うことを選んでしまった。
でも息子は今にいたるまで、そのことを忘れはしない。

小2で学校に「行かない」と決めた長男は、中学に上がったころから猛烈にいろいろな話をし始めた。

小学校時代に何を思っていたか、級友をどのように見ていたか、人生について、死について、社会について、「人と違う」自分について、心の中が、まるで栓が抜けたようにあふれ出てきた。


ほとんど家を出ない息子が、頭の中はとても自由で、それを絵にしたり文章に表したりしていたけれど、その中で導き出されたのが「思いやり」だったようだ。

数十年生きた人からすれば使い古された言葉であり、陳腐かもしれず、青臭くもあり、そうは言っても、とも感じる言葉。

でも私は、この言葉は息子がいうように、たしかに真理だと思う。

それさえできれば。
なかなかできない「すべての人が互いに思いやる」ができれば。

どんな立場の人も、どんな状況下の人でも、互いに損得もなく思いやれれば。

悲しみが、世界から少しは減るのだろうと思う。

昔、5歳の長男が弟に言ったように、人間は「人が涙で溺れないために、生きている」のだろう。

わずかに見える光の筋のようだけど。

あきらめずに「思いやり」を広げていきたいと、過去の長男と私、現在の長男と私、そして、「世界に当たり前に思いやりが広がる」未来に向けて。

つながって、広がって、筋が太くなるように。

そう願っている。

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