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新入生の母

「スイマセン、ここから〇〇大学へ歩いて行ったら、どれくらいかかりますか?」
先週のある日、お客様にこんな質問をされた。
四十代後半くらいの女性と、高校生くらいの男の子の二人連れである。女性の言葉には微かに東北の訛りがあった。
〇〇大学は本キャンパスは都内にあるが、教養部はこの地にある。
春から新入生なんだろうか、とちょっと微笑ましく親子を見た。

〇〇大学は確かにウチの店の『近隣』にはあるが、『歩いて行く』となるとなかなか骨が折れる。
直線距離は二キロ未満だから、たいしたことはない。しかし延々と続く上り坂は、かなりの急勾配だ。途中、どこも平坦になるところがない。キャンパスというのは大体山を切り開いて作られていることが多いけれど、その典型例みたいなところである。
時々学生たちがぞろぞろと駅に向かって歩いているのを見かけることもあるが、殆どの学生はバスを利用しているのだと思う。大学行の直行便も出ているくらいである。

「歩けない距離ではありませんが、かなりキツイ坂が続きますので、バスをお勧めしますね。店の向かい側にあるバス停からも直行便が出ておりますよ。そちらをご利用なさってはいかがですか?料金は二百三十円くらいだったと思いますが」
男の子はスニーカーを履いていたが、女性の足元はパンプスである。これであの坂を登り続けるのは大変だろうと思い、私はそう提案した。
一緒に居たMさんも、
「ええ、距離はしれてるんですが、凄い坂道ですよ。そのお足元ではちょっと厳しいんじゃありませんか」
と横からやんわりと釘を刺してくれた。
Mさんの家は〇〇大学のキャンパスのすぐ近くにある。通勤には電動式自転車を利用している。坂がキツくて、とてもじゃないけど歩けないのだそうだ。

「な、やっぱり言ったでしょ。バス、乗ろう」
男の子は上着のポケットに手を入れたまま、ニヤニヤして女性を見た。
女性は困ったような笑顔になって、男の子と私達をかわるがわる見ていたが、やがて小さな声で
「子供が行くところがどんな環境なのか、歩いてゆっくり周りの景色を見ながら確かめたいと思ったんですが・・・そうですか、そんなにキツイ坂なんですね・・・じゃあバスにしよっか」
と呟くように言って、残念そうに肩を落とした。

この大学の近辺は本当に何もない。
学生向けの下宿と思しきアパートがパラパラとあちこちにあるが、それ以外はコンビニが一、二軒あるくらい。あとは山、山、また山である。大学前のバス停で降りるのはほぼ百パーセント学生だ。
「見るって、周りは山ばっかりだけどねえ。バスから見ても一緒だよ」
帰ってゆく親子を見ながら、Mさんが面白そうに笑った。
しかし私はほんの数年前の自分をこの女性の姿に重ねて、どこか懐かしい気持ちになっていた。
全く知らない土地に行って、初めてのひとり暮らしをする我が子が心配でない母親はいないだろう。

ウチの時は刻々と迫りくるコロナ第一波の影響で物件の内見すら出来なくなり、私はおろか、息子ですら引っ越し当日に初めて部屋を見たのだった。
オマケに初めての一人暮らしは、思わぬ形で八カ月間もの間、中断された。その間、家族全員が気を揉んだし、なぜ今なのか、と置かれた状況を恨みもした。
辛抱の限界を迎えた息子は、まだコロナのおさまらない中、家族を振り切るように東京に帰って行ったが、大学の授業は八割方オンライン。友達もほとんどできず、ほぼ壁を見つめて過ごす日々だった。知らない土地で、孤独だったことだろう。
離れて暮らす人間が心配してもなんの役にも立たないのに、悪い情報を耳にする度、私は極度に怯えて勝手に不安になっていた。
一番不安で大変だったのは、息子本人だったというのに。

コロナ禍がなかった方が、良かったには決まっている。息子も思い描いていたキャンパスライフを存分に楽しむことが出来たろう。
けれどこのコロナ禍がなければ、私達家族はそれまで長年家族の間に横たわっていた問題に、正面から向き合うことは出来ていなかったと思う。
この時でなくとも遅かれ早かれ、この問題は噴出していたには違いない。
しかし振り返ってみれば丁度いい形とタイミングで、なるべくして、家族が一度空中分解したのである。
渦中にいる時は全員が、どうにかなりそうに苦しかったけれど、抜けると家族の結束は強くなった。
お互いがお互いを対等に見て、信頼することが出来るようになったのである。

楽しそうに入学準備に来られる親子連れのご来店が増えてきた。
初々しい姿を微笑ましく見守りながら、自分達家族の辿ってきた軌跡を懐かしく思い出している。
あの親子にも、きっと素晴らしい未来が待っているに違いない。












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