父の怪我を、従業員を守る仕組みに変えた——ハワード・シュルツ、スターバックスの「第三の場所」は働く人の声まで包めたか(起業家のフィロソフィー:ハワード・シュルツ)
Abstract
スターバックスは1971年、3人の創業者が始めた豆の小売会社だった。後から加わったハワード・シュルツは、ミラノで見たエスプレッソバーをシアトルへ持ち帰ろうとしたが、構想は社内で拒まれる。それでも元勤務先との関係を切らず、別会社で構想を試し、やがて社名、店、焙煎、人材を引き継いだ。現在のコーヒーハウス型スターバックスは、対立を断絶にしなかった選択から始まった。
彼が会社へ埋め込もうとしたものは、コーヒーの品質だけではない。7歳のとき、父は配達中の怪我で仕事と保障を失った。シュルツはその記憶を、働く人を守る仕組みへ変えていく。理念が本物かどうかは、好況時の言葉より、費用が重いときに何を残すかで見える。急成長、海外展開、承継、危機。そのたびに「人を大切にする」の中身が試された。
だが会社が数十万人規模になれば、経営者による保護と、働く側の条件づくりへの参加は同じではない。2023年の米上院公聴会では、会社が福利厚生の実績を語った同じ部屋で、その入口に届かなくなった働き手が証言した。人を守る制度をつくった経営者は、なぜ働く側が選んだ声の形式と衝突したのか。ブルックリンのソファからミラノのカウンター、資金の尽きた事業計画、世界各地の店、危機の一斉閉店、証言台までをたどり、理念が制度になった瞬間と、制度だけでは届かなかった場所を読む。成功譚と告発の二択を離れ、創業者の善意が組織の決定権へ届くかを追う。

シリーズ紹介
「起業家のフィロソフィー」は、起業家の原体験、意思決定、失敗、矛盾を追い、その価値観が商品、組織、資本配分へどう実装されたかを読む有料マガジンである。
今回の主人公は、現代のスターバックスを創業し直したハワード・シュルツ。コーヒーの成功の奥にある、労働の尊厳と人の居場所を会社へ埋め込もうとした人物が、その理念の境界に出会うまでをたどる。
目次
第1章 父が保障を失った日に残った問い
第2章 豆を売るのか、居場所をつくるのか
第3章 会社を辞めても、関係は切らなかった
第4章 利益より先に、人を守る費用を払う
第5章 世界へ広げるほど、現場の声は遠くなる
第6章 成功した会社に、もう一度コーヒーを教える
第7章 守るだけでは、パートナーになれない
年表
参考文献
プロローグ 「パートナー」という約束は、誰のものか
2023年3月29日、米上院の公聴会で、ハワード・シュルツはスターバックスが働く人へ渡してきたものを語った。週20時間働くパートタイム従業員の医療保険、ストックオプション制度「ビーンストック」、大学の学費支援である。
報酬と福利厚生を合わせた平均価値は時給27ドル近く、小売店長の63パーセントは時間給のバリスタから昇進したという。彼の側にあったのは、四十年分の数字だった。
同じ部屋で、ノックスビルのバリスタ、マギー・カーターが別の20時間を語った。4年間は受け取れていた福利厚生を、会社が組む勤務が受給基準を下回ったため「つい最近」失った。
その証言は一人ではなかった。勤務時間の急な増減と、直前まで決まらない予定表によって、次の週を設計できないという声も同じ場に出た。
制度は存在した。利用できなくなった人も、その場にいた。
シュルツは、会社と従業員の「直接関係」が文化と迅速な改善を支えると主張し、組合活動を理由に既存給付を奪ったことはないと述べた。団体交渉中に追加給付を一方的に広げられないというのが、会社の法理解だった。
カーターは、福利厚生が勤務時間に結びついているからこそ、その時間を安定して得られることを交渉したいと返した。
福利厚生の提供と、その受給条件を交渉する権利は、同じなのか。
この問いを理解するには、公聴会より六十三年前まで遡る必要がある。
第1章 父が保障を失った日に残った問い
一九六〇年、フレッド・シュルツは布おむつを届ける途中で氷の上に倒れた。
腰から足までをギプスで固められ、家のソファに横たわった。仕事は失った。家族を支えるだけの蓄えも、十分な医療保障もなかった。「ソファに横たわる父の姿は、いまも記憶に焼きついている」。当時7歳だった息子のハワードは、六十年以上を経た2023年、米上院の公聴会でそう証言した。
父は、能力を発揮する機会を与えられないまま、いくつもの低賃金労働を渡った人だった。ブルックリンの公営住宅で育った息子には、貧しさへの羞恥だけでなく、働く人が怪我をした瞬間、会社の責任まで消えるのかという疑問が残った。後年、シュルツは、自分が会社を営むならそれを「尊重と成功の共有を土台にした会社」にすると考えた、と述べた。
子どもの記憶と数十年後の制度を一本の線で結ぶのは、本人が自らの人生へ与えた意味でもある。だが、その意味づけは言葉だけでは終わらなかった。のちに彼は、働く人を守る仕組みを、会社が継続して負担する費用へ変えていく。
シュルツがつくろうとしたのは、怪我をした働き手と家族を切り離さない会社だった。人間の代わりはいくらでもいる、という雇用主の論理を排した会社。ここではそれを、父のいない会社と呼ぶ。この「父」はフレッド本人ではなく、彼を見捨てた雇用主の論理を指している。
両親は高校を卒業していなかった。ハワードは家族で初めて大学へ進み、北ミシガン大学でコミュニケーション学を学んだ。本人の回想では、母は生活が苦しいときにも、教育と努力がより良い人生を開くと語った。後に彼が語った「生まれた場所があなたを決めるのではない」は、公営住宅の住所と人の可能性を切り離す言葉だった。
卒業後、シュルツはゼロックスへ入り、一日50件、アポなしでオフィスの扉をたたいた。受付を超えられない日の方が多かった。後に彼は、販売だけでなく、拒絶と恥ずかしさを受け止める謙虚さを学んだと語っている。
約3年後、スウェーデン系家庭用品会社ハマープラストの米国事業へ移り、副社長兼ゼネラルマネジャーになった。そこで、店舗は数店しかないのに、円錐形のコーヒーフィルターを不釣り合いなほど多く注文するシアトルの小さな会社を見つけた。電話で理由を聞くだけで終わらず、現地へ向かった。売上表の端の違和感を追った先にいたのが、スターバックスと3人の創業者だった。
研究室やベンチャーキャピタルから始まる起業ではなかった。最初のネットワークは、仕入先、顧客、元勤務先、シアトルの地元投資家である。特許の代わりに持っていたのは、注文の小さな変化を追い、断られた相手の論理を読んで提案を組み直す営業経験だった。
1971年のスターバックスを創業したのは、大学時代からの友人だったジェリー・ボールドウィン、ゴードン・バウカー、ゼブ・シーグルである。各人が1,350ドルを出し、銀行から5,000ドルを借り、豆、茶、香辛料を家庭向けに売った。約1,000平方フィートの最初の店では、一人の店番が30種類を超える豆を扱っていた。
第2章 豆を売るのか、居場所をつくるのか
1981年、シアトルのスターバックスを初めて訪れたシュルツは、スマトラを口にした。後年も熟成スマトラを好み、2008年の危機にはその一杯を起点に社内メモを書いている。フィルターの注文数を追ってきた営業マンは、そこで数字の背後にいた3人の創業者と、彼らが選ぶ豆の世界に出会った。
翌1982年、彼は小売運営・マーケティング責任者としてスターバックスへ入る。まだ4店舗の会社だった。その小ささを承知でハマープラストの安定した役職を離れたのは、商品と創業者たちの情熱に賭けたからだった。
レイバー・デーの週末、シュルツはシェリとゴールデン・レトリーバーを古いアウディに乗せ、東からシアトルへ走った。二人はまだ結婚していなかった。向かった先は、全米ブランドでも巨大な資金調達でもなく、4店舗目を開こうとする豆の小売会社だった。
当時のスターバックスは、高品質な焙煎豆を家庭へ持ち帰ってもらう事業だった。顧客は店内で長く過ごす人より、自宅でコーヒーを淹れる人である。豆の産地と焙煎を選び、その品質を崩さずに渡す。創業者たちが守っていたのは、現在のラテや滞在時間とは別の価値だった。
ボールドウィンらが十年以上育てた顧客は、家庭で上質なコーヒーを淹れる人たちだった。シュルツの提案は商品を一つ足す話に見えて、実際には、焙煎と豆の説明を中心にした会社を、接客と店舗運営を中心にした会社へ変える話だった。成功している本業と、まだ一店舗でしか試していない構想。ボールドウィンが守ろうとしたものにも、顧客と理由があった。
1983年、シュルツはミラノへ出張した。エスプレッソマシンの向こうで、バリスタが客の名前を知り、常連が一日に何度も立ち寄り、短い会話が生活の区切りをつくっていた。家庭と職場の間に、反復して戻れる日常の場所がある。彼が見たのは、飲料の売買と人間関係が同じカウンターで起きる事業だった。
本人の回想では、見本市へ向かう朝、小さな店へ入ると、痩せた年配のバリスタが常連のように「おはようございます」と迎えた。豆を挽き、ミルクを蒸らし、客と話す動きが一つの踊りに見えた。ブルックリンでアメリカンフットボールをして育った大柄な男の手に、白い小さな磁器のカップが渡る。シュルツが「劇場」と呼んだのは内装ではなく、客一人のために一杯をつくる人の動きだった。
店を出て見本市へ歩くと、20〜30ヤードごとに別のコーヒーバーが現れた。偶然出会った名店ではない。同じ朝の儀式が街の中で反復されていた。彼がシアトルへ持ち帰ろうとしたのは、一軒の雰囲気ではなく、その反復可能性だった。
エスプレッソを始めれば、注文を受けてから抽出する人が要り、提供速度、教育、清掃、店内の流れまで変わる。客が豆を買って帰った後ではなく、飲み終えるまで店の責任が続く。シュルツはスターバックスの強みを使おうとしたが、会社へ求めた能力は別物だった。
後年、2008年の変革メモで彼は「私たちはコーヒーを通じた人の事業にいる」と書いた。この一文は、1983年に見たものを後から事業の言葉へまとめたものだ。豆を中心に組み立てられていた会社の重心を、店で起きる関係へずらしている。
帰国後、シュルツは小さく試した。1984年、シアトル中心部の店舗でスターバックス最初のカフェラテを出す。2024年の本人回想では、約1,200平方フィートのうち飲料用は約100平方フィート。豆を売っていたときの来店は一日200〜300人ほどだったが、一週間で約500人になったという。当時の販売記録ではなく四十年後の回想だが、着想と事業化の間に面積と客数の検証があった。
会社の公式史は反応を「有望」としながら、創業者たちはアラビカ豆の小売から注意が逸れることを望まなかったと記す。シュルツが欲しかったのは一商品を足す許可ではなく、店内体験を主事業にする権限だった。ボールドウィンらにとって、一店舗の客数増加は、設備、衛生、教育、人員配置を全店で変えた後の採算まで保証しない。反対は、既存事業を別の能力へ賭け直すことへの判断だった。
ラテの売れ行きを、シュルツは「進む」証拠、ボールドウィンらは「本業は動かさない」証拠と読んだ。同じ売れ行きが、二人の確信を遠ざけた。
後年、彼は第三の場所は再発明するものではないと語っている。それは社会学上も既存の概念であり、ミラノを訪れた時点で完成した経営用語だったわけでもない。シュルツが積み上げたのは、人がすでに求めていた機能を、店舗、商品、接客、照明、座席、福利厚生へ束ね、別の街でも反復できる事業へ変える作業だった。
1984年時点で、その構想はスターバックスの本業にはならなかった。ラテを売る許可と、会社の重心を変える権限は違う。シュルツには、構想を捨てるか、会社の外で証明するかが残った。
第3章 会社を辞めても、関係は切らなかった
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起業家のフィロソフィー(起業家の伝記集)
起業を志す全ての人のための伝記を作りたいと思い、なるべく、楽しく起業ストーリーを読めるように編集してみます。 起業家(企業家)の人生や価…
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